戦乱の世が終わり、長きにわたって平和を謳歌した江戸時代。庶民の間で一大ブームとなったのが、徒歩旅でした。そこで気になるのは、1日に歩いていた距離や、長距離移動を支えた装備、旅費の工面…。江戸庶民の健脚ぶりを当時の記録から読みときながら、時代を超え、日本人が徒歩旅に魅了される理由を探りました。
2023.02.11
相原秀起
ノンフィクション作家
江戸時代の浮世絵などの絵図で、頻繁に登場する旅人の姿。平和な時代になったとはいえ、なぜ庶民が徒歩旅を楽しめたのだろうか──。
その答えを探るべく、お力をお借りしたいのが、江戸時代の徒歩旅について研究している東洋大法学部の谷釜尋徳(たにがま・ひろのり)教授(スポーツ史)。
江戸時代の多数の古文書から庶民が残した旅の記録を調べた谷釜教授から、現代人には想像しにくい、徒歩旅の実態について聞きました。
歩くことは大昔から人類の主な移動手段でした。江戸期に徒歩による旅行が一大ブームになった背景について、谷釜教授は次のように指摘します。
「社会が成熟し、街道や宿屋といった交通インフラが整備され、庶民が娯楽として徒歩の旅を安全に楽しめる環境が整ったことが大きな要因です」
東海道には約9kmごとに宿場ができ、途中には休憩場所もあり、徒歩旅は意外と快適だったようです。
旅の目的として最もポピュラーだったのは、三重県伊勢市へのお伊勢参り(伊勢参宮)でした。現在も多くの参拝者や観光客を集める伊勢神宮ですが、江戸時代の人気は今以上。
庶民の間では「一生に一度は伊勢参り」を合言葉に、憧れの旅の象徴となり、大群衆が全国から集まる「おかげ参り」という社会現象さえも起きました。
「おかげ参り」は、伊勢神宮の加護を願う人々が60年ごとに巡ってくる卯年を中心に参拝するもので、信者たちは「おかげでさ するりとさ ぬけたとさ」と、口々にこんな言葉を唱えながら伊勢神宮を目指しました。
「おかげ参り」の大規模なものは、1650年(慶安3年)、1705年(宝永2年)、1771年(明和8年)、1830年(文政13年)に起き、最大の文政13年のものは、庶民を中心に、春から夏までに参拝者が427万人に達したといいます。
当時の日本の総人口は約3,000万人。庶民層を約2,600万人とすると、全庶民のほぼ6人に1人が伊勢参宮をしていた計算です。いかに異常な社会現象であったかが理解できます。
谷釜教授によると、江戸時代、遠くまで旅するためには身許を保証する往来手形、女性なら関所を通過するための関所手形も必要でしたが、「お伊勢参り」という名目ならば、手形を入手しやすかったという側面もあるそうです。
谷釜教授は陸路での移動距離が長かった東北地方の旅日記39編から旅行コースを分析。伊勢参宮をメインとして、道中の名所や周辺諸国をまわる旅をしていたことが分かりました。コースは以下のように大別できたそうです。
①京都や大阪を回る【近畿周回型】
「近畿周回型」はいわば当時の名だたる観光地を回るゴールデンコース。東北各地-日光-江戸―伊勢神宮-熊野-高野山-大阪―奈良-京都-中山道を経由し、長野の善光寺を経て東北に帰郷します。
②四国まで足を伸ばす【四国延長型】
「四国延長型」は、大阪まではほぼ同じコース。金毘羅船で瀬戸内海を渡り、四国の金毘羅神社-岡山-姫路-京都を回るオプションが加わります。
③山岳信仰の対象、富士山に詣でる【富士登山セット型】
注目すべきは、「富士登山セット型」。東海道を伊勢へと向かう途中、街道をいったん外れて富士山に立ち寄ります。
平安時代から登山による修行「修験道」の広まりとともに富士山は信仰の山として崇められ、仲間を募り、集めた資金で順番に富士山に詣でる「富士講」も広まりました。
谷釜教授によると、旅人は、山梨県富士吉田市にある北口本宮冨士浅間(きたぐちほんぐうふじせんげん)神社の宿坊に宿泊後、富士山に向かったそうです。
本宮から富士山五合目まででも約12km、高低差も約1,300mあり、さらに頂上を目指すのはかなりの難易度。
「当時、どのくらいの人が山頂に立ったのかはわからないのですが、登頂が目的ではなく、信仰の対象として富士山を拝むことが主眼の人が多かったのかもしれません」(谷釜教授)
東北各地から旅立った人々は、1日平均どのくらいの距離を歩いたのでしょうか。
谷釜教授の調査では、男性が34.9km、女性が28.6kmでした。1日の歩行距離の最長では、男性75km、女性59.7kmという記録が残っていました。
東北各地を出発して戻るまで、総歩行距離は平均2,400km、なかには3,100㎞以上歩いた旅人もいました。
この数値は距離が判明している各宿泊地間の総計です。実際の道中は街道を外れ、各地の名所や神社仏閣などに立ち寄りながらですから、本当の歩行距離はもっと長いはずで、平均40kmに達した可能性もあります。
江戸庶民の脚力は現代人の想像をはるかに超えるものだったに違いありません。旅行日数は短いもので44日、最長は142日で、5か月弱におよぶ長旅でした。
筆者の周囲には、四国八十八ヶ所の霊場を巡る「お遍路」(全長約1,400km)を一度の旅ですべて歩く「通し打ち」した人が何人かいますが、毎日の歩行距離は20〜25kmほど。
35〜40kmになると足の痛みがひどくなり、「連日の長距離移動は難しい」とのことでした。「歩き慣れない最初の頃は宿で足の裏にできたまめを針でつぶすのが日課」という裏話も聞きました。
さて、江戸時代の徒歩旅行にはいったいどれぐらいの費用がかかったのでしょうか。谷釜教授は江戸近郊の農民が伊勢参りした日記をもとに費用の算出を試みています。
記録を調べたのは、江戸近郊の多摩郡喜多見村(東京都世田谷区)の田中国三郎という男の86日の旅。伊勢神宮から四国・中国地方をめぐった旅費の合計は、5両5貫771文(3万5,771文)でした。
歴史学者・磯田道史氏が試みた賃金による換算レート(1文47.6円)を当てはめると約170万円となります。
支出で最も多いのは宿泊費で1万5,897文。総支出の44%を占めました。主に庶民が使う宿の旅籠(はたご)は1泊2食付きで130〜200文の宿が多かったそうです。
次いで食費が7,253文で、総支出の20%。当時の江戸ではそば一杯16文、うなぎの蒲焼が16文ぐらいだったのですが、国三郎の道中記録では、そばが32文、甘酒や白酒が15文、餅も15文程度と江戸より割高でした。
3番目は交通費で4,760文と総支出の13%でした。徒歩旅ではあっても、大阪から金毘羅神社参拝のため四国の丸亀まで渡る船賃(船中3泊1,300文)など、海上を移動するため船を5回使っています。駕籠(かご)に3回、馬にも乗り、橋が架かっていない川の渡り賃なども必要でした。
さらに土産代(1,752文)や寺社参詣代(1,450文)、温泉や芝居見物などの遊興費(1,094文)が続きます。草鞋(わらじ)代も746文かかっています。
旅にはかなりの費用が必要だったことは間違いなく、気になるのは、調達方法です。
庶民が旅の費用を工面する一般的な方法が「講」。皆で旅費を出し合って代表者が旅立つもので、江戸時代に数多くありました。
具体的には、世話人の勧誘によって講の参加者が集められ、3~5年を一期として、毎月一定額のお金を納め、くじで旅立つ者を決める仕組みで、期間内には誰かが必ず旅に出られるわけです。
講による積立金に加えて、親類縁者らから餞別をもらい受ける慣習もあり、これらを足して旅行費としていました。
旅人たちが長距離の徒歩旅をする上で、大切な役割を果たしたのが草鞋(わらじ)です。
草鞋は、稲わらで編んだ当時の一般的な履物。爪先から伸びた緒を足の指に挟み、別れた2本の緒を台座の両側に付いている小さな環に通してから、足首に固定します。
これによって、かかとが固定され、動きやすく、身のこなしが軽くなります。ただ、耐久性はあまりなく、長距離を歩くとちぎれてしまうのが弱点です。
谷釜教授は旅人の姿が描かれている当時の旅行本から草鞋の装着率を推計。「一部の草履(ぞうり)を履いて歩く人を除き、装着率は8~9割になり、ほとんどの旅人が草鞋を履いていた」とみています。
草鞋も「質の悪いものは足の指を痛めるので避けるように」と助言する旅の指南書もあるといい、旅の重要なアイテムだったことがうかがえます。旅人たちは草鞋を宿場や茶屋などで買い求め、道端の草鞋売りから購入するケースもありました。
旅行費用を克明に記録していた田中国三郎の日記によると、草鞋は平均15文程度、草鞋なくして江戸時代の長距離徒歩旅行は成しえなかったでしょう。
宿場の片隅には、使い古した草鞋を集める場所があり、旅人らが捨てた草鞋が山積みにされている絵もあります。地元の農民たちは、廃棄された草鞋を回収し、たい肥作りなどに活用していました。
草鞋をめぐるエコサイクルができていたことは、環境にやさしい社会であったとされる江戸時代を象徴している話です。
近年は欧米発のロングトレイル文化が日本でも定着のきざしを見せており、水平移動の歩く旅が注目されています。しかし、歴史を遡ると、日本人も古くから徒歩旅を楽しんでいたことがわかりました。時代を超え、人を魅了し続ける歩く旅は、常に最先端なのかもしれません。
谷釜教授の著書『歩く江戸の旅人たち』では、江戸庶民の現代人とは異なる歩き方や杖の使い方、鉄道が普及し始めた明治期でも人々は徒歩旅行と鉄道の旅を組み合わせていたことなど興味深い史実が数多く紹介されています。
この続編として、江戸時代の著名人の徒歩旅行に焦点を当てた『歩く江戸の旅人たち②-歴史を動かした人物はどのように歩き、旅をしたのか』(晃洋書房)が2023年1月に刊行されました。
俳人松尾芭蕉や伊能忠敬、吉田松陰、幕末の志士清河八郎、勝海舟の実父勝小吉ら、偉人たちの歩く旅に思いを馳せてみましょう。
トップ画像:東海道五十三次/掛川のイメージ(PIXTA)