太古の昔から伝わる山岳崇拝や神道・仏教・道教。様々な祈りの文化を柔軟に吸収し、独自の発展を遂げてきた日本特有の信仰が『修験道』です。その誕生は、今からおよそ1,400年前。飛鳥時代を生きた謎多き人物『役行者』によると伝わっています。今回は、役行者が最初に修行を積んだと伝わる『葛城修験』を代表する行場『金剛山(大阪府・奈良県)』に、現役の修験者とともに登った登山ツアーの様子をお届けします。
2022.01.31
Toba Atsushi
YAMAP STAFF
色とりどりのウェアを身にまとったハイカーの輪の中に、その人はいた。純白の衣装に大きな法螺貝を抱え、腰には鹿の皮、剃り上げた頭には鉢巻が巻かれている。
ここは、関西地方随一の登山スポット『金剛山』東山麓に広がる奈良県御所市の山里。早朝の空気は、痛いくらいに冷え込んでいて、凛と澄んでいた。紅葉の盛りを迎えた木々は穏やかな風に揺れ、美しい木漏れ日を地面に映している。
「修験道というのは、日本古来の山との付き合い方です。いつもの登山とはちょっと視点を変えて、今日は葛城修験の文化を感じてください」
そう語るのは、花井淳英さん。今回の金剛山登山の案内人にして、現役の修験者である。
この日、YAMAP MAGAZINE編集部が参加したのは、『修験者と登る霊峰 金剛山』のテストツアー(主催:葛城修験日本遺産活用推進協議会)。紀伊半島の和泉山脈から、葛城・金剛山、二上山系にかけてのエリアに古くから伝えられてきた『葛城修験』の文化に触れ、修験道を体験する日帰り登山だ。
修験道は、飛鳥時代に生きた謎多き人物『役行者』が開祖と伝わる日本特有の信仰。山岳崇拝に仏教・神道・道教などが取り入れられたその教えは、修験者(山伏)によって、1,400年の時を超え、受け継がれてきた。そして金剛山は、役行者が若かりし頃、修行を重ね、修験道を生み出したとされる葛城修験の中心地。山中には、修験者が修行の一環として法華経を納めたと伝わる『経塚』や、修験の教えを今に伝える寺院、日本神話の舞台となった神社などが点在している。
YAMAP MAGAZINE編集部員である私を含めた7名の参加者は今回、現役の修験者である花井さん案内のもと、そんな『修験道はじまりの地』を巡る。
同地域では2022年以降、葛城修験の文化を世に広めるため、修験者とともに行場を巡る一般向けのツアーを本格始動する予定。今回はそれに向けた試みとして、YAMAPユーザーを招聘して、実際に修験体験をしてもらおうというわけだ。
御所市側から望む金剛山一帯の山並。秋も深まり、山の木々も赤や黄色に染まっていた
「今日登る金剛山は本当に素晴らしいお山なんです。修験道の開祖と言われる役行者様が修行した場所でもあり、古くからの神話も数多く残っている。それでいて、厳しいかというと、近隣の子どもが遠足でも登るような、優しい表情をも併せ持っています。一般の皆さんに修験道を知っていただくには、まさにぴったりの場所なんです」
花井さんは優しい表情で語ってくれた。
修験体験の始まりは地元の神社への参拝から。法螺貝を吹きながら参道を歩く花井さんの後に続き、境内を歩く。拝殿前についた花井さんはおもむろに懐から小さな容器を取り出し、参加者に良い香りの粉末を配った。
「これは植物などを原料として作られた塗香(ずこう)というもの。山に入ったり神仏に詣でたりする際に心身を清めるために使います。修験道では穢れが魔を呼び込むと考えるため、このような”清め”の作法が数多くあるのです」と教えてくれた。
花井さんの真似をして、首筋や腕に塗ると、良い香りが立ち上る。香水よりももっと奥ゆかしい、和の香り。歴史ある寺院に漂っているような上品な香りが優しく身を包んだ。
一同、塗香で身を清めたあとは、いよいよ参拝。参拝の作法は、お馴染みの二礼二拍手一礼に始まるのだが、それに続く所作に驚いた。
法螺貝、九字(くじ)、身禊大祓(みそぎのおおはらい)、読経、真言(しんごん)と、神と仏に捧げる所作が次々と続いていく。「臨兵闘者皆陣裂在前…」「高天の原に神留(かむず)座(ま)り座(ま)す…」「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時…」「ナーマクサーマンダー バーサラナン…」。その声に合わせて手を大きく振りかざしたり、印を結んだりする一連のダイナミックな所作は、さっきまでの優しい表情からは想像できない迫力だ。
参加者一同は、当然その全てを真似できるわけもないのだが、事前に配布された般若心経の経本などを頼りに、できる限り花井さんの後に続く。
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参拝が終わると、いよいよ登山のスタートだ。まずは神社から爽やかな風が吹き抜ける山里を通り、金剛山の登山口を目指す。
今回の歩くルート。この日は約11kmの行程を休憩等含め8.5時間で巡った。YAMAPの該当地図はこちら
「この辺りには”高天原(たかまがはら)”という地名も残っています。これは、神主さんが唱える祝詞にも出てくる言葉。一説には、この辺りが、天孫降臨の舞台であったのではないか? とも言われているんです」
花井さんは山里を歩く間も、様々な伝承や修験道について、わかりやすく説明してくれる。中でも印象的だったのが、”葛城修験は、修験者と里に住む人々が力を合わせて守り伝えてきた文化”だということだ。
「修行というのは、ひとりでできるものではないんです。里の人が支えてくれるからこそ、私たちは山で修行をさせていただける。そして私たち修験者は、里のために祈り、山で得たものを里の人たちにお渡しする。そうやって里の人と修験者が支え合いながら守ってきたのが葛城修験の文化なんです」と語ってくれた。
歩いていると、農作業をしている里の方からも頻繁に声がかかる。この地では、今も里の生活と修験者の間に絆が結ばれている
山里に広がる田園風景を通り抜け、いよいよ登山口から美しい杉の木立に分け入っていく。登山道は整備されており快適に歩けるが、金剛山は1,000mを超える山。途中には、急な坂も多くある。
参加者一同が息を切らしてやや俯き加減に歩いている様子を見て花井さんが、修行の際に発する掛け声「掛念仏」の作法を教えてくれた。
「ろ〜っこ〜んしょ〜じょ〜」と花井さんが歌うように声を出す。それに対し参加者は「さ~んげ さん~げ~」と続くのだ。
漢字で書くと”六根清浄 懺悔懺悔”となる。これは、六根(感覚や意識を生ずる六つの根元。眼・耳・鼻・舌・身・意)を清浄にし、日頃の行いを懺悔する(悔い改める)という意味。修験者は山に登る際にこの掛念仏を口にしながら、心を清めていくという。また、規則的に声を出すことで、呼吸を整える効果もあるのではないかと花井さんは教えてくれた。
見様見真似で声を出すと、確かに登るのが幾分か楽になった気がする。それにも増して、日常の雑念が心から消えていくような気がするから不思議だ。仕事や生活のことを忘れて山登りに集中していく。
修験道の片鱗らしきものを感じながら、取材メモを取ることをいつしか失念していた。
山中に突如として現れる巨岩が第20番『常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)』経塚
山頂に向かう往路には、東大寺の大仏造立にも携わった高僧、行基が修行したと伝わる寺院跡『高宮廃寺』や、修験者が修行の際に法華経を埋めたと伝わる『経塚』などが点在する。いずれも、現在では礎石(そせき)や石碑が残るのみであり、普段なら素通りしてしまいそうな風景だ。
花井さんはそういった場所に立ち寄り、祈りを捧げた後、その由緒をしっかり説明してくれる。中でも経塚に関する説明はとても興味深かった。
「仏教の歴史には、末法思想という考え方が広まった時代がありました。”時が経つにつれ、正しいお釈迦様の教えは衰え、いつしか滅んでしまう”というものです。経塚は、来るべき末法の世に備えて正しい仏の教えを埋めて残しておこうという、いわばタイムカプセルのような役割を担っていたんです」
この取材が決まって以来、経塚という言葉をよく耳にしていたが、それが作られた理由を知らないまま当日を迎えていた。ただ漠然と旧跡を眺めるだけでは見えてこない祈りの文化を知れるのは、修験者と共に登っているからこそだ。
他にも花井さんは、修験者が身につけている衣装の詳細や、修験道で信仰される神仏の概要などについても説明してくれ、質問に対してもひとつひとつ丁寧に答えてくれた。
山中に祀られている石碑は、別の場所から強力さん(山中で荷を担いで運ぶことを生業としていた人々)が運んできたものだと花井さんは教えてくれた。いつもの登山なら気づかずに素通りする風景にも物語がある
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いくつかの場所で祈りを捧げながら登ると、あたりの風景が一変した。道が金剛山キャンプ場そばでダイヤモンドトレールと合流したのだ。ダイヤモンドトレールは、奈良県香芝市の屯鶴峯(どんづるぼう)から、二上山、大和葛城山、金剛山、岩湧山(いわわきさん)、大阪府和泉市の槇尾山(まきおさん)を結ぶ全長約45kmの人気トレイルコース。関西の登山者に愛される道だけあって、すれ違う人の数が急に多くなった。
突如として現れた修験者の姿に、すれ違う人々も興味津々。いつの間にか物怖じしない小さな参加者も増え、一行はますます賑やかになった。
ダイヤモンドトレールで興味津々に近づいてきた小さな子どもたちの質問に優しく応じる花井さん。この後、金剛山山頂までツアーに飛び入り参加することになった
一行は、キャンプ場からしばらくダイヤモンドトレールを進み、『湧出岳(ゆうしゅつだけ)』を経由して金剛山山頂付近にある『葛木神社』『転法輪寺』を目指す。湧出岳はダイヤモンドトレールからは少し外れた場所にあるため、訪れる人も少ない。しかし、ここにも役行者にまつわる伝承が残っている。
湧出岳山頂に祀られている第21番『如来神力品(にょらいじんりきほん)』経塚
花井さん曰く、湧出岳は、役行者が葛城修験特有の仏尊『法起菩薩(ほうきぼさつ)』を感得した(感じ、見い出した)場所だという。無線の電波塔が立つ山頂の片隅には、経塚が祀られているが、その他には往時の面影を残すものはない。しかし不思議なもので、伝承を知り、読経を聞きながらあたりを見渡せば、様々な想像が沸き起こる。
「法起菩薩様は、葛城修験だけでしか祀られていない特別な仏様。この先にある葛木神社に祀られている一言主(ひとことぬし)様は、本地垂迹説によると、この法起菩薩様の化身であると伝えられています」と教えてくれた。
一言主は古事記にもその名が記されている神であり、第21代雄略天皇と金剛山中で遭遇した逸話が残っている。仏と神、そして古の天皇にまで話が及び、改めて神仏習合の修験文化の奥深さを感じた。
「もうしばらく歩くと、雄略天皇と一言主様が遭遇したと伝わる場所も見ることができますよ」という花井さんの言葉に背中を押され、一行は葛木神社へと歩みを進める。
<本地垂迹説とは?>
日本の神々は、仏が仮の姿で現れたものだとする考え方。仏を本地(真実の身)、神を垂迹(仮の身)とする。
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写真:pixta
葛木神社は、今から2,000年前、第10代崇神天皇の頃に創建されたと伝わる古社。創建当時は事代主(ことしろぬし)という神を祀っていたが、前出の通り、第21代雄略天皇がこの山中で一言主に出会ったことをきっかけに一言主を祀るようになったという。そばには、かつて雄略天皇と一言主が狩りの最中に遭遇したと伝わる場所があり、祠には雄略天皇が祀られている。
「一言主様はひと言だけ願いを伝えれば、それを叶えてくれるとされる神様。地元では“いちごんさん”とも呼ばれています。また、善いことも悪いことも一言で言い放つ神様としても知られているんです」と花井さん。
そう言われると、確かに鳥居のそばには会社名や個人名と願い事が刻まれた多くの石柱が献納されている。合わせて目につくのが「千回登山記念」といった、登山回数が刻まれた石柱だ。
実は金剛山は「毎日登山」の文化が盛んな山。中には登頂10,000回を超える猛者もいるのだという。人々を魅了してやまないこの山には、やはり特別な何かがあり、役行者もそういった金剛山に魅了されたひとりだったのだろう。
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転法輪寺本堂へ続く石段。法起菩薩像は撮影が禁止されている。写真:pixta
葛木神社から今回の登山の折り返し地点となる転法輪寺までは、歩いて数分の距離。一行は金剛山山頂に立ち寄り、昼食を済ませた後に本殿へと向かう。転法輪寺もその歴史は古く、創建1,300年を数えるという。かつては、全国の修験者が参拝する関西屈指の行場として栄えたそうだ。
急な階段を登った先、本堂の奥に祀られた法起菩薩の姿に思わず息を呑んだ。五眼六臂(ごがんろっぴ・眼が5つ、腕が6本の意)の荒々しい仏を前に花井さんの祈りにも力が入る。参加者一同も、法起菩薩像の荘厳な迫力を前にやや緊張しながら花井さんの後に続いて祈りを捧げた。
本堂を後にし、花井さんは境内の一角にある小さな社に参加者を案内した。そこには『行者堂』の文字。
境内にひっそりと佇む行者堂
「ここには役行者様が『神変大菩薩』としてお祀りされていて、毎年7月には『れんげ大祭』というお祭りが行われます。役行者様の命日に当たる日に開催されるのですが、その時には数十人の修験者がこの場所で祈りを捧げるんですよ」と花井さん。大祭当日には、天高く護摩が焚かれ、修験者たちの読経が響き渡るという。一般参加も可能な火渡り修行も行われるとのことで、参加者もその説明に興味津々だ。
転法輪寺を後にした一行は、今回のツアーのゴールである御所市の菩提寺を目指し、登山道を下る。ここに至るまでは、多くを語ってくれていた花井さんだが、下山時は言葉も少なくやや足早に歩く。実はこれにも意味があるのだ。
修験道の中心には『山林抖擻(さんりんとそう)』という修行がある。“動物が水浴び後に身震いするように、日常生活で欲張って身につけたものを山に分け入ることでふるい落とすこと”を指す言葉なのだが、その修行の中で修験者は擬死と再生を体験し、霊力を得るのだと花井さんは語る。そしてその霊力を使って、里に住む人々のために祈るのだという。
そう。下山は、参加者各人が金剛山の自然、そして自分と向き合う時間なのだ。”擬死体験”とまでは行かないが、黙々と山道を歩くと、徐々に心が研ぎ澄まされていくのを感じる。
まだ午後3時前だというのに、晩秋の陽光は燈色に染まり始め、木々の間から優しく登山道を照らす。今から1,400年前、役行者もこの道を通ったのだろうか…。ひょっとしたら、今見ているこの場所から、雄略天皇は里を見渡していたのかもしれない…。神話の昔、一言主と称される神(人物)はこの山で、どのように生活していたのだろうか…。
下山時に突如視界が開け、御所の街並みが遠望できた。万葉の世から歌い継がれてきた風景が広がる
ここに至るまでに聞いた葛城修験に関する様々な事柄が頭の中を巡っていく。山林抖擻の本質とは少し違うと思うのだが、これほど豊かに思想を巡らせて登山道を歩いたことが、かつてあっただろうか。私にとっての山林抖擻は、道を介した太古への旅にも似た経験となった。
濃密だった金剛山の山旅もいよいよ終わり。ゴール地点となっている御所市の菩提寺が近づいてきた。
かつて菩提寺周辺の伏見地区には多くの僧院が立ち並んでおり、その様子は『伏見寺千軒』とも称されていたという。実際には三十数件の僧院が山中にあったと伝わっているが、今はその大半が荒廃してしまっており、僅かにこの菩提寺がその痕跡を今に残している。
菩提寺の門前で我々を笑顔で出迎えてくれた前川さん
金剛山から降りた一行を迎えてくれたのは、菩提寺を維持管理されている前川さん。葛城修験の文化を後世に伝えようと、在家の身でありながら地域の中心となり、貴重な仏像や文化財の保護活動に取り組んでおられる方だ。
室町時代に作れらた金剛力士像がそびえ立つ山門をくぐり、庫裡(くり)にお邪魔すると、そこには役行者像が祀られていた。1日を通して、役行者に関する逸話を聞いてきたが、その姿を拝する機会はなかったので、感慨もひとしお。他の参加者もその姿に見入っている。
菩提寺に祀られた役行者像。両脇に座るのが前鬼と後鬼だ
「役行者様の左右に小さい鬼が2人座っていますが、これは前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)といって、行者様のお世話をしていた式神とも弟子とも伝えられています。私はこの前鬼・後鬼は、行者様の修行を支えていた里の人ではなかったかなと思っているんです。
今朝もお話ししたんですが、修行というのはひとりではできない。里の皆さんの支えがあってこそ修験者は行に打ち込むことができるんです。役行者の左右に前鬼と後鬼が祀られているのは、”修行を支えてくれる里の人の存在を忘れてないけない”という教えなのではないかと私は考えています」
と、役行者像とその前に座る前川さんの方を見ながら花井さんは語ってくれた。
最後は、温かいお茶とお菓子を頂きながら、参加者一同で、今日の感想を共有する時間だ。
「今までは、ピークハントを楽しむ登山ばかりをやってきたけれど、文化と触れ合う登山の楽しさを知ることができた」
「登山の際に神社やお寺はよく見かけるけど、その裏にこれほどに濃厚な文化があるとは知らなかった。新しい山の楽しみ方を知ることができた」
「修験体験というから、厳しい登山になるのかと想像していたけれど、とても穏やかで文化的な時間を過ごすことができた」
といった意見が参加者から共有された。その言葉、ひとつひとつに笑顔で耳を傾けていた花井さん。最後に、葛城修験の大きな特徴である「里と修験の関係」について語ってくださった。
旅の締めくくりには、参加者に「金剛山峰入体験修了証」と記された木札が渡された
「修験者は基本的に、半僧半俗で(出家しないで社会生活も営みながら)修行をするものです。役行者様も出家はされておらず、在家のままで修行に励んでおられました。私も日頃は会社勤めをしています。修験の信仰というのは、山に入って修行するだけではないんですね。里と山を行き来しながら行う修行もあれば、里にあって修験の文化を守り支えるのも立派な修行のひとつ。前川さんがやられていることも修験のひとつのかたちなんです。葛城修験は、このように里の方と修験者がつながりながら守ってきた文化。山ばかりではなく、里の営みにもその奥深さがあるんです」
今回は金剛山を巡る旅にご一緒させていただいたが、その言葉を聞くと、次は里を巡り、修験を守り伝える人々の暖かな絆に触れてみたくなった。
葛城修験の旅はまだまだ奥が深い。
了
写真:西條 聡