埼玉・秩父の二子山西岳(1,165m)で、登山者がクマに襲われ、繰り返し攻撃を受ける動画が2022年に国内外で話題になりました。母グマが登山者の下山ルートにいた子グマを守るための不測の事態でしたが、クマは本来、人を恐れる性質。異常な個体でない限り、対策は可能です。そこで、過去に登山者が襲われたケースを、ヒグマ生息地・北海道の事例から掘り起こし、クマの生態や登山者の対策を考えます。
2022.12.03
中山茂大(なかやましげお)
ノンフィクション作家
登山史上最悪のクマによる獣害事件として、いまだに語り継がれているのが、1970年に日高山脈カムイエクウチカウシ山(1,979m)で起き、3人が喰い殺されてしまった「福岡大学ワンダーフォーゲル同好会ヒグマ襲撃事件」。
詳細は登山者にも広く知られているので、上記の同好会が作成した『北海道日高山脈夏季合宿遭難報告書』(1970年8月)をもとに、概略を述べます。
1970年7月25日午後4時半ごろ。すべては、野営地の九の沢カールで夕食を食べ終わった一行が、テントのまわりをうろつく一頭のヒグマに気づいたところから始まります。
しばらくして、ヒグマがキスリングザックの食料を漁りだしたため、学生たちは隙を見てザックをテント内に移動。ヒグマはいったん姿を消します。
安堵したのもつかの間。同日の午後9時に再び出没。今度はテントに穴を開けるなどし、さらに翌26日の午前4時半に再度現れ、テント内の食料を漁りました。
ここでメンバーのうち2名が他大学の登山パーティーに事情を話し、営林署への連絡を要請。他のメンバーは、漁られたテントやザックを回収します。
合流した5人全員でテントの穴の修繕と食事をして、午後4時半に寝る準備をしていると、またしてもヒグマが出没。全員が散り散りに逃げ出しました。
ヒグマはそのうち3人を次々に襲撃。残る2人の通報により、救助隊が最初の出没から3日後の7月28日に入山し、29日から30日にかけて、学生3人の遺体を発見しました。いずれも衣服はまったく身につけていない状態で、全身に無数の傷あとがあり、顔面などの損傷が激しかったといいます。
「ヒグマがエサに異常な執着を示す」という習性を知っていれば、また戻ってくることは予想され、直ちに下山するなど、事故を未然に防げたはずです。
北海道外の学生だったため、ヒグマの生態に関する知識が不足していたことが最大の原因とされています。
カムイエクウチカウシ山には、犠牲となった福岡大生の慰霊碑が今もありますが、つい3年前の2019年にも八の沢カール付近にヒグマが出没。2件の傷害事件を起こしています。
ひとりは噛まれるなどして頭と背中を約50針を縫うけがで、命は無事でしたが重傷。もう一人は突進をかわしたものの、爪で腕をひっかかれて軽傷でした。
山名のカムイエクウチカウシは、アイヌ語で「熊(神)の転げ落ちる山」に由来。ほとんど手つかずの自然が残り、多くの登山者をひきつける山でもあり、札内岳(1,895m)や幌尻岳(2,052m)、1839峰(1,842m)、ペテガリ岳(1,736m)などとともに、日高山脈の名峰のひとつに数えられています。
ヒグマがエサを求めて登山者をつけ狙う事例は過去にも確認されています。以下は同事件の7年前、北海道中央部の大雪山系で起きた事例です。
「大雪山を騒がせた熊は、前年(1963年)の夏山シーズンの後半に姿見の池のそばに現われ、登山者のテントの周囲をうろついたことのある熊。
冬を越して夏山シーズンにはいって登山者が多くなり出すと、再び姿見の池の小屋のまわりに出没。登山者の残飯をあさり出したものらしい。
はじめは小屋の近くにきて残飯を食っていたものと思われる。そのうちに熊が近くにきたのにおどろいた登山者が、あわててリュックや食料をほおって逃げることに目をつけて、『これは人間の側に行けば食物を置いていってくれるものだ』と考えるようになったと思われる。
(中略)
これがさらに昼間歩いている登山者だけでなく、夜になれば今度はテントに行き、さらにテントの壁を両手でたたいて、人間をおどかし食物をさし出させてまわるということをやって歩いた」
(「大雪山に現われたある熊のはなし」層雲峡駐在・国立公園管理員)『林』(一九六五年九月号 北海道林務部)
人騒がせなこのクマは結局、姿見の池でハンターに捕獲されましたが、一歩間違えれば、福岡大生と同じ惨事を招いた可能性も。
本来は臆病な性格ではありますが、人間が持っている食べ物の味を一度知ってしまったクマが、いかに脅威となってしまうかがわかります。
ヒグマはイヌ型亜目で、犬並みか、それ以上の鋭い嗅覚を持っているとされます。そのため登山時の食料の保管は、クマから身を守るためにかなり重要。
筆者が訪れたカナダのバンフ国立公園などでは、テント場から100mほど離れた場所に食事スペースと、食料を入れるフードロッカーが設けられていました。最近は日本人にも人気がある米国のロングトレイルでも、同様のものが設けられています。
国内では、知床のテント場にフードロッカーがありますが、ほか地域での設置は限られているのが現状。ジップロックなどの保存袋で特に防臭性の高いものやゴムパッキンのついたタッパーを利用するのは、完璧ではないものの、ある程度の効果はあるとみられます。
登山者も、テント内に食料を置いてピークを目指さないなど、厳密な安全対策が必要なことが、過去のクマの襲撃、接近の事例からもわかります。
ヒグマとツキノワグマについておさらいしておくと、ヒグマは北海道に生息し、本州のツキノワグマとは別種。
ヒグマの体格はツキノワグマよりも一回り大きく、身長は2mにも達し、しばしば人を「食害」することがあります。
ツキノワグマは上述した秩父の襲撃事例のように、「排除」のために人間を襲いますが、食害はしないと言われ、過去に以下の事例があるだけとされてきました。
「福井県下で、あるおばあさんが山菜とりに山に入ってクマにやられて死んだ事件があった。
そこでその犯行の主とおぼしいクマを射殺して解剖したところ、被害者の片足が、胃の中から出た。これが現在知られる限りの、わが国でツキノワグマが人を食った、唯一の珍らしい事例ということである」
(『くま』斉藤基夫 農林出版 昭和38年)
しかし、その後も「ツキノワグマは食べる目的では人を襲わない」という定説をくつがえす事例が、散発的に報告されています。
1988年には、山形県戸沢村で、クリ拾いなどで山に入った3人が死亡。手足をそがれるなどの状態で発見されました。
2016年に秋田県鹿角市十和田大湯の熊取平(くまとりたい)と田代平(たしろたい)の十和里山(990m)では、タケノコ採りをしていた4人が死亡した人食いクマ事件は記憶に新しいところです。
北海道野生動物研究所の門崎允昭所長によれば、「1970年~2018年末の49年間に、北海道で猟師以外の一般人がクマに襲われた事件の平均件数は、年間わずか1.2件」(著書『羆の実像』より)。
これをもとに、当時のヒグマの生息数を2,000~3,000頭として概算すると、1,600~2,500頭に1頭が、いわゆる「人喰い熊」ということに。確率で言えば、0.04~0.06%です。
これが多いか少ないかは、その人のリスクに対する価値観や登山への思いによって異なりますが、自然豊かな北海道で登山を楽しむ人が多くいることを考えると、かなりまれであることは確かです。
参考までに、日本の交通事故件数から総人口を割った「交通事故に合う確率」は、0.2%で、約500人に1人です。
北海道では福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の襲撃事件前にも、登山者がヒグマに襲われ、喰われたという事例が報告されています。
筆者は1878年(明治11年)〜1945年(昭和20年)の、約70年間の地元紙を通読。ヒグマに関する記事を拾い上げ、約2,500件に達したヒグマ関連記事をデータベース化し、これを元に『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』(講談社)を上梓しました。
この資料によれば、1918年(大正7年)に、北海道議会議員、菅野光民が十勝岳を探検中、ヒグマに襲われて命を落とした事件があり、これが北海道の登山者が襲われた初めての事件とみられます。
当時、菅野は38歳で、十勝日日新聞(現在の十勝毎日新聞)社長として活躍。冒険を好み、アイヌ2人とともに、トムラウシ原野を縦断して、当時前人未踏であった十勝岳(2,077m)を目指していました。
『新得町七十年史』によれば、1918年(大正7年)6月5日に帯広駅を出発。新得を経て、屈足(くったり)に1泊、翌6日に十勝川を遡り、十勝岳から30kmほどの密林に達したところで、先頭を行く年若のアイヌが、数mと離れない地点に、1頭の巨大なクマを発見しました。
とっさに銃を取り、一発撃ち放ちましたが、幸か不幸か弾は外れ、驚いたヒグマは密林にのがれ走りました。菅野は先を急ぐことを命じましたが、アイヌらは、ヒグマを仕止めたいと迫り、菅野が折れたといいます。アイヌ2人は銃を装備していましたが、菅野は素手でした。
ヒグマは一行を待ち構えていたかのように姿を現し、最後尾の菅野を襲いました。
「その時、菅野道議は腰にマキリ(山刀)をさしていただけで、〝あーっ〟という間に、後ろから頭に一撃を受けて頭と顔を割られ、ずるずると熊笹の中に引きずり込まれていった」
(『熊・クマ・羆』林克巳)
それを見たアイヌ2人は、転ぶようにして逃げ帰りました。
急報が伝えられると、翌早朝から10人の捜索隊が出発。現場近くで仕留められたのは、百貫(375kg)以上もある大物でした。
ただ、当時の小樽新聞によると、菅野の遺体は「引きずられた間、一面血潮にまみれ、頭部は熊の手により大きく潰れ、左手に噛まれた跡があり、その他数ヶ所に打撲傷」があり、「眼球を抜かれ、虚空をつかみ」という凄惨なものであったといいます。
次の記録は、1949年に大雪山系で秩父別(ちっぷべつ)の青年9人が襲われ1人が喰い殺された事件です。
この事件については『新版ヒグマ』(門崎允昭、犬飼哲夫)に詳しく、「本件は明治以来、今日(1992年)までの大雪山の登山史上、登山者がヒグマに襲われて殺された唯一の事件」としています。
1949年7月30日、愛山渓温泉に昼前に到着した秩父別の青年9人が、「無謀にも午後1時ころから全員無装備で」(前掲書)、旭岳(2,291m)の頂上までの往復約26キロの登山に出かけました。
しかし、予想外に距離は進まず、現在のロープウェイ終着駅付近にある「姿見の池」(約1,600m)に到着したときには、すでに日が傾き始めていたころ。そこで一行9人のうち疲労の強い4人は引き返すことにし、残り5人が頂上に向かいます。
引き返した4人が午後7時ごろに第二展望台に到着すると、登山道沿いに登ってくるのは、1頭の巨大クマ。4人は大声を出せども、クマは立ち上がり、唸り声を発して、なおもまた向かってきます。
4人は一斉に笹藪に飛び込んで逃げようとしましたが、その瞬間、クマは脱兎のごとく襲い掛かり、吉本春雄(21)を襲い倒します。苦悶する声がしばらく聞こえましたが、他の3人にはなすすべがなく、できるのは、恐怖に震えるのみ。
午後9時過ぎ、無事に登頂を果たした5人が下山してきたので、残った3人は事情を話し、一緒に岩の間に身を潜め、夜明けを待ちます。
翌早朝、別の登山者一行と出逢った8人はともに下山。捜索隊が出されました。
「第二展望台下のハイマツ帯の中で吉本氏の頭と足、雪渓の上で胴体を収容したが、いずれも筋肉はほとんど食い尽くされて骨と化していた。左足部だけがそのとき発見されなかったが、翌年の命日にこれを発見した」(前掲書)といいます。
このときに加害したとみられる巨大クマは翌年5月に獲殺。推定14、15歳のオスでした。
この事件は当時、広く道内で話題になったらしく、北海道出身である筆者の母親も人づてに詳細を聞いていたようで、細部は異なるものの、「一番足の速い人が真っ先に逃げ出したが、熊に追いつかれ、『ギャーッ』という悲鳴が遠くから聞こえたそうだ」と恐ろしげに語っていたのを覚えています。
次の事例は1962年。北海道のマッターホルンとも地元で称される名峰、芦別岳(あしべつだけ、1,726m)で、札幌商業高校山岳部員がヒグマに襲われ、一時行方不明となった事件です。
これについては、『林』(一九六二年十一月号 北海道林務部)の「座談会 芦別岳で熊に襲われた札商山岳部員は語る」に生々しい記録が掲載されています。
1962年7月25日午後3時ごろ、札幌商業高校山岳部員8人と引率の教員2人が、芦別岳山頂下のお花畑で野営の準備をしていたところ、30mほど先の雪渓にヒグマを発見します。
一同は音を出したり火を焚くなどしましたが、ヒグマは動じる様子もなく、テントから3mほどまで近づいてきました。
30分ほど様子を見ていましたが、ヒグマが立ち上がったので、一同は襲われると思い、一斉にハイマツ帯に飛び込み、バラバラに離散。
10人中7人は、午後8時半までに無事に下山しましたが、残る3人の行方が不明に。
このうち2人は、山頂に逃げて午前4時半に捜索隊に救助されましたが、残る1人は執拗に熊に追いかけられ、3mほどの岩を挟んで向かい合います。
「クマは飛びかかってくるという様子はないんですが、かなり時間をかけて石のまわりを4回ぐらい回りました。(中略)5mぐらいのところでそのまま朝までずっといました」
彼は午前6時過ぎに無事救助されましたが、一時は3人が行方不明と報道され大騒ぎに。
このときのクマは、攻撃の機会が何度もあったのに襲っていないため、おそらく3歳程度の若いクマが好奇心から戯れに来ただけだったとみられます。
いずれにしても決して背中を向けて逃げずに、最後までクマと渡り合った高校生の冷静さと度胸には見習うべきところが多くあります。
この他、戦前の登山とヒグマに関係する記事としては、以下があります。
「阿寒岳新名物 登山者に親しむ可愛い親子熊
かつて人に危害を加えたことのない阿寒の熊ではあるが、本年は雌阿寒岳の七合目から九合目の付近に親仔2頭の熊が現れた。
普通ならば人影を見るとたちまち姿を隠すはずだが、この親仔連れはいかにも平気で、登山者の群れが二十間(約36m)ぐらいまで接近しても気にとめず、ガンコウランの実を食っており」
(『北海タイムス』昭和六年十月九日朝刊)
これだけでもすごいことですが、この件についての専門家の見解がまたすごい。
「阿寒岳における熊の話は大変面白いことに思う。国立公園の動物はなるべく保護して人にも馴れさせたい。
(中略)
一定の場所に熊の食料を置いてやるようにすれば、ますます人に馴れ、後には人の手から直接食物を得るようになるかもしれない。
自分はアメリカで約6~7mほどのところで写真を撮ったし、同行のアメリカ人婦人は手から食物を熊の口に与えた。
熊は決して人が危害を加えないことを知れば、反抗もしないものと想像される」
前述のように、エサに対する執着や、子グマに強い母性愛を示すヒグマの習性を考えれば、このような対応は極めて危険。今では考えられないようなコメントではありますが、当時の社会ののどかな雰囲気が逆にうらやましくも感じてしまうのは、筆者だけではないでしょう。
ヒグマの登山者への襲撃事件でわかったのは、「エサへの執着」と「犬並みの嗅覚」、「逃げるものへの攻撃性」。
しかし、ヒグマは本来、人間を避ける臆病な動物であり、人を食べて襲う個体の割合は、0.04~0.06%。襲う場合にも、発端は食料を放置したり、存在を知らせずに驚かせたりする、人間の側にあります。
ヒグマの生息地である北海道でも、登山者が襲われることはまれであり、事実、多くの人が山歩きを楽しんでいます。人の存在を知らせる音や食料の管理など、しっかりした対策を講じることで、お互いにとって不幸な結末が避けられるという教訓が、過去の歴史からは見えてきます。
北海道では、登山者以外にも、これまで多くの人がヒグマの被害にあってきました。
本記事を執筆した中山は、戦前の膨大な資料から、歴史に埋もれたおびただしい人喰いヒグマ事件の数々を確認。「なぜヒグマは人を殺すのか」「人間はヒグマや自然に何をしてきたのか」という問いを、多角的に検証しています。