日本各地に点在する里山に着目し、その文化と歴史をひもといていく【祈りの山プロジェクト】。今回のナビゲーターは、神社や暮らしの中にある信仰を独自に研究する神社愛好家で山伏でもある中村真さん。大分県・日田市の「御前岳」「釈迦岳」にまつわる山岳の原始的信仰に迫ります。
2021.04.22
中村 真
イマジン株式会社代表 / 神社愛好家
奥日田と表現される津江地区は大分県日田市南部に位置する。2005年に日田郡から日田市へ合併した地区のことであり、前津江、中津江、上津江に分かれている。特に前津江はその大部分が標高500m以上の山間部であり、地区南部に御前岳・釈迦岳など1,000m以上の山々が聳えたつ。御前岳の麓には田代という集落があり、その暮らしの中には御前岳を「神の山」と見立てた信仰が今も色濃く残っているのだが、これはその他の津江地区に多く残る信仰とは大きく異なる。今回は、この特異な信仰が残る田代集落から、信仰の対象となった御前岳、釈迦岳にスポットを当ててみたいと思う。
津江の他の地区に多く残る信仰は老松神社を中心としたものだ。これは、平安時代に力を有していた大宰府天満宮に端を発し、天満宮の主祭神“菅原道真”を勧請し祀るものである。今では学問の神として名高い天満宮もその信仰の原点は御魂鎮め、つまり当時の政治と策略に巻き込まれた菅原道真が失意のうちに亡くなった後、天災・飢餓・疫病といった形で現れた”たたり”を鎮めるため、その魂を祀り上げたことに始まる。
その後時代の流れとともに、その神徳は“たたり”の意味から生前の道真の功績をもとに、徐々に勉強の神様へと変化していき現在の“学問の神様”が育ってきた。しかし平安時代には、天満宮に祀られる道真の神徳はまだ“たたりなす神様”であり、その怨霊神をまつることで天災・飢餓・疫病を払いのけようとしてたはず。と考えると、津江地区に勧請された老松神社には、“たたりなす道真”を祀り上げることで、この土地を天災・飢餓・疫病などの悪霊的要素から守りたいといった思いがあったのではないかと想像する。
そのような信仰が多く残る津江地区においては、住民の多くが各地域に鎮座する老松神社の氏子であった。一方、田代集落に住む人々だけは他の地域と違い、集落内にある御前嶽神社の氏子としてその信仰を守ってきたという。それは立地的な要素がたぶんにあると思われるが、集落を取り囲むように存在する御前岳や釈迦岳といった神の山とともにある暮らしから発生した、至って純粋な自然信仰の名残りなのではないだろうか。
年代こそ明確ではないが、その昔から田代集落の人々は御前岳を霊山として畏れ敬い、山頂には上宮を、山中の岩屋に中宮を配し、そこまでお参りに登れない老人や子供の為に麓に下宮を立てたとされる。その下宮こそが集落内に残る御前嶽神社のことで、今はだいぶ簡略化されてしまったとはいえ、古代から受け継ぐ神々との交流としての“送迎祭”をおこなっている。集落の生活基盤はやはり農業であり、稲作に重要な種まきの春と収穫の秋には1週間の宮籠り(現在はおこなっていない)の後、上宮への登拝(神や仏を拝むために登る)を続けてきた。もともとは集落から直接に御前岳への登拝路があったというが今はそのルートも山に埋もれてしまっている。
山頂である上宮には、日本の山を司る大山祗命(オオヤマヅミノミコト)を、中宮には同じく山を司り、農業の神でもある木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)を祀り、外宮にはその両神と不動明王を祀るこの信仰形態はまさに修験道のそれであり、山岳信仰の代表的な形を残している。
話は脱線するが、大山祗命や木花咲耶姫の名前を聞いて思い浮かぶのは、やはり記紀に記された日本創生神話ではなかろうか。この国を治めるために天上世界から命をうけて地上に降臨してきた神、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が地上に於いて娶った神こそが木花咲耶姫であり、その親神が大山祗命である天孫降臨神話が有名である。しかしながら、どうやらここに祀られている両神の神意としては、天孫降臨神話からの系譜ではなく、より原始的な御山信仰、つまり山岳における神の代表格である大山祗命と木花咲耶姫のように思えてならない。
なぜなら、天孫降臨神話に紐づいたものであるならば、木花咲耶姫の姉妹とされる磐長姫(イワナガヒメ)の姿がどこかにあるはずだが、その存在は一切見当たらない。そう考えると、神話が伝わる以前から、この地には山に対する自然崇拝があり、神話が伝わった後、大山祗命と木花咲耶姫の名前が、半ば都合主義的に付けられたのではないかと想像を逞しくすることが出来る。
恐らくは、津江地区一帯に当時力をもったであろう大宰府の信仰が流れ込んで来た際にも、田代集落は原初的な山への崇拝を残し護ってきたのではないだろうか。
しかしその田代においても時代の流れとともに、太古から続いた原初的な山への信仰に山岳信仰の様々な諸派が入り混じり今の形になってきたと考えられる。それは隣接する英彦山と、山を隔てた先に存在した阿蘇の修験。その2系統の修験の面影が集落に残されているからだ。
古くは1200年程前に発生し、すでにそのころ御前岳に修行に入っていたとされる英彦山の修験者たちの存在が、もしかすると田代集落の信仰と合流し、神の山である御前岳山岳信仰を集落のものとして残した可能性も否定はできない。
その後も英彦山修験の行者の姿は各時代に見て取ることが出来、直近では明治初期までの記憶としてその存在が人々の脳裏に残されている。
がしかし、同時に集落に残る古文書には江戸時代の阿蘇修験者たちの峰入り(修行の為に山に分け入り籠り満願すること)の記録が残されており、またそのころに隣の釈迦岳山頂に阿蘇修験者が釈迦の像を設置したとも伝わる。ということは当然、田代集落の民と阿蘇修験者たちとの交流もあったと推察される。
また田代集落は津江地区における水耕栽培発祥地であり、その地名の由来として、田代の田は田圃の田、代は苗代のことだと伝わっている。想像の域はでないが、超古代、縄文・弥生時代の先人は御前岳山麓の山の恵みを受けて暮らし、年代が下るとアワやヒエ、キビなどの雑穀を、さらには稲を育てて現代の田代の地を切り開いてきたと思われる。こうした暮らしの流れの中、御前岳及び田代集落の信仰と文化は育まれてきたのであろう。
またこの御前岳はいくつもの通り名を持つことでも知られており、御前山、前山、田代山、田代権現、田代岳、権現岳、御前岳とわかっているだけで7つの呼び名を持っている。これは多くの人々の心象風景にこの御前岳が写しだされてきた証なのではないだろうか。こんなにたくさんの別名を持つ山は全国各地、そうそう存在するものではないことからも、神の山、霊山として古来、現地の暮らしの中に重層的に存在していたと考えられる。
また前山と表現されるからには、何かの前にある山と捉えることが出来る。これもまた書物や口伝にのこるものではないが、御前岳を「前にある山」と捉えれば、その奥にある縦走できる山としての釈迦岳の存在は無視できない。今では山頂に江戸時代・阿蘇修験者たちが設置したとされる釈迦像があるが、古代において山頂とは神聖な場所であり、それ自体(山頂の空間そのもの)が神の依り代と考えられていたに違いない。そう考えると御前岳の更なる奥宮的な意味合いがどこかにあったのかもしれないというのは私の妄想であるが、実際に御山に登拝してみると、どうもその感覚がしっくる来てしまうから面白い。
昔の田代集落の人々は御前岳には神様がご鎮座していると信じていたに違いない。その年、山で捕れる獲物が多かったか、田圃で生まれる稲が豊作だったかどうか、それらはみな御山が恵んでくれるものであるという意識こそが御前岳に対する山岳信仰の始まりなのではないだろうか。となると、御前岳山頂からそう離れていないもう一つの峰である釈迦岳を奥宮(もしくは奥の院)として同様に御山そのものを神や仏と見立てたとしても違和感はないように僕は感じた。
読者の皆さんには是非、御前岳から釈迦岳の縦走を田代集落の御前嶽神社を起点として楽しんでいただきたい。そしてその時、ただ山を登る、という意識に加えて田代集落の暮らしに想いを馳せていただきたい。チャンスがあればぜひ田代の人々に声をかけ、いろいろと話を聞いてみてほしい。何度もお伝えしたが、ここまで書き記した御前岳、釈迦岳及び田代集落の歴史的資料はあまりないが、それでもこの集落は御前岳と共に暮らしを成り立たせ、形を変えても今なお、その信仰を守っているという現状がある。
それは神の山である御前岳や釈迦岳の麓において、その暮らしを全うするための祈りそのものである。その祈りがあるからこそ歴史的資料はなくとも、里の人々の心象風景には、神々の山とともに暮らす情景が色褪せずに残っているのだ。御前岳、釈迦岳の縦走登山は古来より続く登拝そのものであり、その行程は常に祈りと共に守られてきたのだから。
一の山に、百の喜びと祈りあり。その山の歴史を知れば、登山はさらに楽しくなります。次の山行は、大分県・南部地方の里山「御前岳・釈迦岳」を歩いてみませんか?