自然と文化、歴史に触れながら歩く「ロングトレイル」。欧米発の歩く旅のカルチャーは、日本でも徐々に人気を呼んでいます。しかし、国内では、四国のお遍路や、伊勢神宮への伊勢詣など、楽しみながら歩く文化が昔からありました。そこで、今回は江戸時代の「徒歩の旅」に注目。現代のハイカーでは考えられない、超人的な脚力を持ったある侍の旅路を、ロシア極東の大地に追いました。
2022.12.29
相原秀起
ノンフィクション作家
北海道最北端の宗谷岬に、1人の侍の立像があります。江戸時代の測量家、間宮林蔵(1780〜1844、1775年誕生説も)。その視線は目前の宗谷海峡を越え、約40km先のサハリン島(日本名・樺太)を見つめています。
日本全土の実測による地図の作成をした伊能忠敬(1745~1818)は知っていても、北方の測量に貢献した間宮林蔵という侍について知らない人がいるかもしれません。
実はこの人物、日本史上でも有数の健脚家。その凄まじさを理解するために、まずは、彼の業績を理解することから始めましょう。
林蔵の像が見つめる先にある樺太は、南北約1,000kmの細長い島。氷河期には北海道やユーラシア大陸とつながっていました。
1800年代初頭、世界には地図上で空白の地域がいくつかあり、その一つが、樺太と隣接したユーラシア大陸東沿岸周辺。当時は「樺太が大陸とつながる半島なのではないか」とする説が根強かったのです。
諸外国の幾多の探検隊が船による現地調査をしても、霧などの悪天候と激しく変化する潮流、浅い水深に阻まれ、半島か島なのか、結論が出ずじまいでした。
当時、 強大な国力を誇った帝政ロシアは江戸幕府に開国を迫り、千島列島の択捉(えとろふ)島(現・北方領土)や樺太の日本人番屋を襲撃するなど、武力に訴えてきました。
幕府は、ロシアの進出状況を含めて不明な点が多かった北樺太の地理や状況を調べるため、下級役人であった林蔵を派遣します。
林蔵は、2年がかりで樺太を南から北まで自らの足で歩いて踏査。樺太と大陸を隔てる、後に「間宮海峡」と呼ばれる海峡の存在を世界に先駆けて実証します。
樺太に向かう前年の1807年、ロシア軍艦の択捉島襲撃事件で惨敗した日本守備隊の一員として屈辱を味わっており、樺太の調査に侍の誇りと命を懸けていました。
樺太の詳細な地図を作るだけでなく、北方先住民の暮らしぶりや交易の状況も多く記録。日本人による世界の探検史の中でも輝きを放つ功績を多く残しましたが、それが実現できたのは、林蔵の類まれな健脚なしには語ることができません。
林蔵は身長157cmと現代人に比べて小柄でしたが、素晴らしい脚力の持ち主だった記録が残っています。現在の東京から、北海道への船が出る青森の津軽半島・三厩(みんまや)まで、10〜14日間程度で歩いたとのことです。
出発地点を日本橋とすると、約800km。1日あたり歩いた距離は約60kmから80kmに達し、江戸時代に徒歩旅の男性が歩いた平均距離の2倍に相当します。
ちなみに、東北の太平洋沿岸をつなぐロングトレイル「みちのく潮風トレイル」(青森県八戸市〜福島県相馬市)は約1,000km。通常のハイカーなら少なくとも1カ月以上はかかりますが、林蔵なら半月ほどで歩くと考えられます。
林蔵の師である伊能忠敬でも、全国測量の第1回となる蝦夷地測量時、同じ行程を歩測測量と天体観測しながら20日間かけており、1日の平均距離は40kmでした。
林蔵は1日100kmを歩いたとの逸話も残されており、まさに超人とも言える脚力の持ち主だったのです。現代人の平均的な歩行速度は時速約4km。100kmを歩くためには単純に25時間かかる計算です。歩く速さも相当なものだったとみられます。
林蔵は足の裏に大変気を遣っていたという記録があります。林蔵と親交があった幕府の高官・川路聖謨(かわじ としあきら)は日記の中でこのように記しています。
「夏の炎天下、素足で歩いている林蔵を見て、『なぜ、さようなことをなさる』と問うと、林蔵は『足の裏が軟らかくなっては困りますから』と答えた」
林蔵の足の裏は、登山靴の底のように硬かったに違いありません。当時、草鞋(わらじ)を履くのが一般的でしたが、性能的に現在の靴とは比べものにはなりません。しかも草鞋は1日か2日でボロボロになるため、そうした弱点を、林蔵は足の裏を鍛えることでカバーしたのではないでしょうか。
当時、樺太には樺太アイヌのほか、現在のニブフ、ウイルタといった北方先住民の祖先にあたる人々が少数暮らし、いくつかの集落が点在するだけでした。江戸の庶民が旅を楽しんでいた東海道や中山道のように、整備された街道も宿場もありません。
そんな厳しい環境下で長期間にわたる行動ができたのは、林蔵が脚力だけではなく、サバイバル技術にも秀でていたからでした。
筆者は1995年から1年間、サハリンの州都ユジノサハリンスクに駐在。以来、サハリン各地や間宮海峡(現地名・タタール海峡)などを取材しましたが、特にサハリン北部は1本の幹線道路のほか整備された道路はありませんでした。
現代でもこのような状況。林蔵が生きた約200年前ともなれば、見渡す限りの大自然だったはず。様々なサバイバルスキルを駆使せずに、道なき道は進めません。
林蔵は出発前、北方探検のスペシャリストの最上徳内(1775〜1836)と会い、教えを請います。
徳内は蝦夷地調査8回のうち、2回は樺太にも渡った経験の持ち主。卓越した技量と体力、知識を兼ね備えた探検家でした。
徳内はアイヌの人々から暮らしの術を学ぶことを勧め、氷が付きづらい犬の毛皮や軽い干魚を持っていくことを助言。林蔵は樺太で現地の人々と同じような食事をしていたようです。
実はこれが、林蔵の冒険を成功させた大きな要因。アイヌの知恵に学び、質素ながらバランスが取れた食事を取ることで、水腫病(壊血病)を予防できたのです。
当時、樺太や蝦夷地ではロシア軍艦の襲撃事件が相次ぎ、津軽藩などの侍が宗谷や、知床半島に近い斜里に駐屯しました。しかし、越冬中は寒さに加え、白米中心の偏った栄養の食事を続けていたため、水腫病で死者が続出していました。
林蔵の樺太調査は1808年と翌1809年の2年がかりでした。1808年5月12日に宗谷岬対岸のシラヌシを出発した林蔵は、樺太アイヌの案内人らとともに丸木舟で東へ進みます。
まずは樺太南部のアニワ湾から、湖沼と森林地帯を抜けて東海岸へ。オホーツク海に出ます。そこから海岸線を北に進みますが、北知床岬(テルペニア岬)の先は波が高く、北上を断念。
来たルートを戻り、樺太の東西が最も狭まる部分で山越えをし、日本海沿岸を北上。海峡(後の間宮海峡)の入口まで達した後、一度宗谷まで戻ります。
林蔵はこの年の調査では不十分と考えて、調査を継続。1人で宗谷海峡を渡り、越冬しました。初年度の移動距離は計2,900km、行動日数は220日。1日平均14kmになります。
このときに林蔵が越冬した場所は番屋と思われます。樺太の冬は現在でもマイナス30度にもなり、乗用車のエンジンが始動しづらくなり、手足や顔の凍傷には十分注意する必要があります。
後年、林蔵と会った者が林蔵の手を見て「手指盡く(ことごとく)腐壊痂結(ふかいかけつ)す。その苦楚(くそ・苦しみのこと)を思うべき也」と記述しています。つまり、林蔵の指は腐って形を変えてくっ付いていたという意味です。凍傷によってその指は変形し、癒着していたとみられます。
林蔵は防寒用の装備や寝具としてクマの毛皮3枚と、夜具1枚を現地調査に持参しました。
生誕の地である茨城県つくばみらい市の間宮林蔵記念館には、林蔵の生家や林蔵愛用の「探検用頭巾(ずきん)」が展示されていますが、厚手の木綿を2枚縫い合わせて裏地を付けた簡素なもので防寒というより風を防ぐぐらいの効果しかなさそうです。
その横には「蝦夷布」と書かれた厚手の毛布のような織物が展示され、説明には「林蔵が毛布として使用。布地はアツシという木の皮をはぎ、水に浸して織ったアッシ織りで、林蔵が現地で調達したもの」とあります。
林蔵の肖像画は、ズボンのように股が割れて動きやすく、脚絆(きゃはん)が縫い付けられている裁着袴(たっつけばかま)姿。その上に羽織を重ね、足袋と草鞋を履いています。
この服装は北方諸民族に対して日本の侍の権威を示すために選ばれたと伝えられますが、寒さ対策としてはほぼ無力。満足な暖房器具がなかったはずの番屋で寒さに耐える林蔵の姿に思いをめぐらします。
肖像画は樺太調査を行った30歳当時の林蔵を想像して後年に描かれたもので、海峡発見の英傑として美化されたものであり、実像は異なっていると筆者は考えています。
林蔵の樺太調査の最北地点は、当時ナニオーと呼ばれた集落。ナニオーは間宮海峡に面し、アムール川河口対岸に位置するニブフの村ルプロワ村と判明しています。
林蔵は、アイヌの漕ぎ手らとともに海峡が最も狭まる部分を抜けて、1809年6月12日にナニオーに到着。砂丘に立ち、北には海が大きく口を開け、潮流が北へと流れていることから海峡が終わり、樺太が島であると確信します。樺太南部のトンナイを3月14日に出発してから102日後でした。
林蔵の幕府への報告書「東韃地方紀行」には彩色を施したナニオーの絵が掲載されています。現場に立ち、絵と見比べると、対岸の大陸の形、沖に浮かぶ島の位置関係など完全に一致しており、林蔵がここで原図を描いたことがわかります。
村には昔、一人の日本人がやって来たという伝承がありました。男は数日間、村に滞在して再び南へと去ったというものです。この最果ての村までやって来た日本人とは林蔵しかいないと筆者は考えています。
林蔵は都合3回にわたり、海峡周囲を調査して詳細な地図を制作、後にドイツ人医師で博物学者のシーボルトによって世界に紹介され、「間宮海峡」と呼ばれることになったわけです。
江戸時代は「鎖国」の時代とされていましたが、実はアムール川から北海道に至る北ルートで絹織物や毛皮、千島列島に沿ってラッコや鷲の羽などを運ぶ東の交易路も存在していました。
林蔵がたどった北の交易路は、アムール川から松前まで川と海の道となるため、痕跡はありません。唯一、同川と間宮海峡を最短で結んだ峠越えの陸地部分が存在し、林蔵はムシボー(現・タバ湾)という海峡に面した地点から舟を引き上げて峠を越えてアムール川本流に出ています。
林蔵は「夏は多くの人が行き交い、道はまるで街道のようだった」(「東韃地方紀行」)と記録しています。筆者はタバ湾に林蔵が書き記した通りの山道が残されていることを発見しました。
北東アジア史の専門家の佐々木史郎・国立民族学博物館名誉教授(現・民族共生象徴空間「ウポポイ」の国立アイヌ民族博物館長)は取材映像を見て、「道は当時の人々が整備した可能性があり、林蔵も通過した可能性が十分にある」と話しています。
デレンの絵の中に林蔵が中国清朝の役人から接待を受けている場面があります。林蔵は、ひげ面で武士のたしなみである月代(さかやき)もそらず、髪も伸びたままで、みすぼらしい着物姿で描かれています。この唯一の自画像こそが、林蔵の実像であると筆者は考えています。
デレンまでの旅の記述の中で、林蔵は木の実や根を食べて腹痛に苦しみ、蚊の襲来に悩まされたと書き残しています。
林蔵ら一行は、舟にかける樹皮の雨除けを外して、その下で身をかがめて夜を過ごしています。冬の旅の大敵を酷寒とすれば、夏は蚊。これでは蚊の襲来を防げません。
現在、北極圏をフィールドにするロシア人研究者は野外で食事する際、スープに蚊が次々に入り、いちいちすくって捨てていると汁がなくなるので、蚊入りのスープを食べられるようになってこそ一人前。
筆者も北極圏のサハ共和国ヤナ川で野営したとき、無数の蚊がテントに群がり、メッシュの部分から息を外に吐くと、蚊たちが針先を網目の間から一斉に刺し込んできました。
林蔵の時代にはテントや防虫ネット、蚊よけスプレーもありません。寒さにこごえ、空腹と腹痛に苦しみ、容赦ない蚊の襲来に寝付かれぬ野宿の日々、身だしなみに気を遣う余裕などはなかったはず。林蔵にとって樺太とアムール川の旅は、驚きと同時に苦難に満ちたものだったに違いありません。
林蔵が目撃したアムール川の交易の道は、幾多の民族の手によって中国と日本をつないでいた文化の道であり、北東アジアのロングトレイルと言えるものでした。筆者はアムール川の河畔に立ち、林蔵の旅と忘れられた壮大な北のシルクロードに思いをはせました。
林蔵の旅については、筆者が2020年に上梓した『追跡 間宮林蔵探検ルート サハリン・アムール・択捉島へ』(北大出版会)をご覧ください。次回は、間宮林蔵の師匠であり、日本で初めて実測による日本地図を作った伊能忠敬の17年におよぶ徒歩の旅を紹介します。