北アルプス登山史の謎! 戦国武将佐々成政の厳冬期「さらさら越え」に迫る

3,000m級の山々が連なり、夏場は多くの登山者で賑わう北アルプス。しかし、雪が降り積もる厳冬期、その表情は一変します。人の背丈を優に越える積雪、暴風、氷点下の低温、雪崩…。そんな厳冬期の北アルプスに伝わる英雄譚こそが戦国武将・佐々成政の「さらさら越え」。今から400年以上も前、果たしてそのような無謀な挑戦が本当に可能だったのか? 大町山岳博物館の学芸員、関悟志さんとともに、その謎に迫ります。

2020.07.07

YAMAP MAGAZINE 編集部

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北アルプスに伝わる伝説の英雄譚

北アルプスは、富山・新潟・岐阜・長野の4県に跨がる巨大な山塊だ。穂高岳や槍ヶ岳、剱岳など、標高3,000m級の名峰が連なる。登山者にとっては、いつかは登ってみたい憧れのエリアだが、同時に冬の過酷な環境は多くの挑戦者たちの命を奪ってきた。

そして、この日本を代表する山塊には、ある戦国武将の英雄譚が今も伝わっている。それは富山城主、佐々成政(さっさなりまさ)が厳冬期にザラ峠を越えたとされる、通称「さらさら越え」の伝説である。

雪の北アルプス剱岳。標高は2,999m。その難易度から、一般登山者が登る山の中では最も危険だと言われている

道具も技術も、今と比べて限られていた戦国の時代、果たしてそのような無謀な山行が可能だったのだろうか?

謎を解き明かすため、長野県大町市にあり、北アルプスの歴史や自然に関する展示物が多く収蔵されている市立大町山岳博物館の学芸員、関悟志さんに話を伺った。

取材中の風景。博物館内展示物の前にて

戦国武将、佐々成政とは

まずは本編に入る前に、佐々成政の人物像を把握しておきたい。

佐々成政は、今から四百数十年前、16世紀中盤に活躍した戦国武将だ。尾張国(現在の愛知県一帯)に生まれ、長じて織田信長の家臣となった。度重なる合戦に出陣し、武功を認められて、越中富山城主に任じられた人物だ。その勇猛果敢さをして「武者の覚え(武士の鑑)と評されたと伝わっている。

勇猛果敢な戦いぶりでも名を馳せた戦国武将、佐々成政の肖像(古川雪嶺模写)。資料提供:富山市郷土博物館

厳冬期「さらさら越え」の発端は、織田家の跡目争い

織田家中でも名うての猛将にして、出世街道をひた走っていた成政。なぜ彼は、厳冬期の「さらさら越え」という無謀な挑戦に挑まざるをえなかったのであろうか? 関さんに聞いてみた。

関さん:成政は、信長の信頼厚く、富山城主になって越中やってきます。しかし、時は戦国。 信長が本能寺の変で明智光秀に討たれてしまうのです。そして起こったのが、織田家の家督争い。

羽柴秀吉と反秀吉勢力が、跡目をめぐって争うことになりますが、成政は反秀吉側につきました。その後いくつかの戦いを経て、旗色は秀吉側の優勢。成政の居城する富山は敵の軍勢に囲まれてしまったのです。

繪本太閤記より。信長と秀吉(藤吉郎)、そして反秀吉派の筆頭であった柴田勝家。勝家と秀吉は同じ織田家に仕える武将だった(1871年 芳虎著作 国会図書館収蔵) 

関さん:窮地に陥った成政は、三河国吉良(きら)の織田信雄(のぶかつ。信長の子)と浜松の徳川家康に挙兵を求めるため、わずかな供回りを連れて富山城を脱します。しかし周囲は敵だらけ。隠密で動く必要があり、敵の目を避けるために厳冬期の北アルプス、ザラ峠を越えたと言われているのが、いわゆる「さらさら越え」の伝説です。

伝説の厳冬期「さらさら越え」の実像に迫る!

では「さらさら越え」とは、どのようなものだったのだろう? 今から400年以上も前、登山に関する装備も技術も限られた時代に、果たしてそのようなことが可能だったのだろうか?

この時代の雪山登山と言えば、カサにミノで雪を避け、足にはカンジキ、獣の毛皮を使った防寒具を身につけ…といった具合であろう。また、成政が通ったとされる「さらさら越え」ルートは、厳冬期ともなれば、人の背丈を超える積雪がある。もちろん凍傷や凍死の危険性も大きい。

関さん:当時の状況は、謎に包まれています。ただ「伝承を再現すると、こんな様子だったのだろうな」という再現イラストを山岳博物館では参考までに展示しています。

雪深い山中を越えていく成政一行。推測される装備は雪を避けるためスゲガサやミノ、歩行を助ける杖、コッパ(雪かき)などだ。 資料提供:市立大町山岳博物館

関さん:イラストの中程に箱状の厨子(ずし)を背負っている従者がいますが、この中には「大姥尊像(おおうばそんぞう)」という、立山信仰に関係が深い像が入っており、成政一行がこの像を背負って「さらさら越え」をしたという伝説上の一コマを描いています。現在、その実物は大町市内にある西正院大姥堂(せいしょういんおおばどう)というお堂に安置されていますが、この像こそ成政一行が富山から北アルプスを越え、信州のこの地まで担いで運んだものだと伝えられているのです。

大姥尊像の高さは約40センチ、片膝を立てて着物がはだけた奪衣婆(だつえば)に似た姿だ。 資料提供:市立大町山岳博物館/原資料は西正院大姥堂世話人会保管

恐ろしげな像だが、この像の存在こそが厳冬期「さらさら越え」の動かぬ証拠と言えようか。やはり伝説は事実なのだろうか。

関さん:ところが、実は成政が厳冬期のザラ峠を越えたという話は、あくまで伝説なのです。真偽定かではありません。事実としてはっきりしているのは「天正12年(西暦1584年)の旧暦12月、富山から浜松に赴いていた成政が、吉良で織田信雄と対面した。その往復に信州を通った」という記録です。そのルートが「さらさら越え」であったのか、はたまた他のルートであったのか、現在までのところ、確定的な情報はないのです。

佐々成政の移動経路には諸説がある

関さん:成政が富山から浜松に至ったルートについては、前出の「さらさら越え」を含め、大きく3つの説が推定されています。

成政の移動経路として主に伝わる3つのルート。富山を出て松本に至るまでの3つのルートを左図に、松本から浜松に至るルートを右図にまとめた。左図の各ルート詳細は下記を参照してほしい

1.さらさら越えルート【ザラ峠越え・ざらざら越え】

一般的に「佐々成政の厳冬期北アルプス越え」として語り継がれているルート。富山城を出た後、南東方向に進み、厳冬期の剱・立山連峰に入山。ザラ峠(2,348m)を越えた後、黒部川を渡り、針ノ木峠(2,536m)を越えて、大町、松本に至るルートだ。ザラ峠を越えたということで「ザラ峠越え」「ざらざら越え」といった呼び方もされる。

よっしーさんの活動日記より/獅子岳からザラ峠に向かう登山道。その名の通り、ザラザラと音を立てて崩れてしまいそうな、礫が重なった地質だ

さらさら越えルートの標高図。富山を出発して、実に2000メートルを越える2つの峰を越える厳冬期の行程。雪崩や凍傷など死と隣り合わせの行軍だ。 資料提供:市立大町山岳博物館

2.飛騨ルート

富山城を出た後、南方向に進み、飛騨国(現在の岐阜県飛騨市・高山市・下呂市・大野郡)を通り、安房峠、あるいは中尾峠などを越えて、松本に至るルート。ザラ峠ルートに比較すると、同じ山越えでも標高が低い。

安房峠は現在、国道158号線と安房トンネルが通っている。奥飛騨温泉郷(平湯温泉)と松本をつなぐ交通の要所だ。標高は1,790mとザラ峠(2,348m)や針ノ木峠(2,536m)よりはかなり低い

3.糸魚川ルート

富山城を出た後、北東に進み富山湾岸へ。日本海沿いに糸魚川まで進み、そこから一路南下し、大町を経て松本に至るルート。北アルプスの山塊を大きく迂回するため、3つのルートの中では、最も標高が低い。

関さん:この3つのルートのうち、佐々成政はどのルートを選んだのか、最新の研究によると「2.飛騨ルート」が最も有力ではないかと考えられています。実は最も知名度がある「さらさら越えルート」ではない可能性があるのです。

人々が猛将に期待した「大冒険譚」

最有力の説は「飛騨ルート」。ではなぜ「さらさら越えルート」の伝説は、これほど根強く人々の間に語り継がれてきたのだろう?

関さん:それは「勇猛果敢で知られ、武士の鑑と評された成政であればこそ、過酷な真冬の北アルプスを越えることができたのではないか?」という当時の人々の期待によって作り出されたエピソードなのではないかと思います。また、当時の立山や信州の猟師たちは、冬もカモシカなどをとるために山に入っていました。そのため、真冬の北アルプスを越えるノウハウは、過酷ながらも、地元の猟師たちの間には戦国時代以前からすでにあったものと考えられます。だからこそ、このような伝説も信じられたのでしょう。

昔の猟師が使っていた獣の毛皮を用いた防寒具なども山岳博物館には展示されている

関さん:後世、さらさら越えのエピソードは「富山城雪解清水(とやまじょうゆきげのきよみず)」という歌舞伎の演目でも演じられています。こうした歌舞伎や様々な物語にも取り上げられたことで、一般の人々が広くさらさら越えのエピソードを知ることになったではないでしょうか。

歌舞伎演目「富山城雪解清水」の佐々成政さらさら越えの場面「信越更々越」を描いた芝居絵。資料提供:富山市郷土博物館

「厳冬期日本列島縦断」という事実

関さん:ですが3つのルート、そのいずれを通ったにせよ、厳冬期に1ヶ月半で日本海沿岸の富山と太平洋沿岸の浜松を歩いて往復したということは事実。それだけでも大変な行動力だと言えます。

今で言うと、トレイルランニングの大会「トランスジャパンアルプスレース」にも例えられるかも知れません。400年以上も前の時代、徒歩によって、敵の目を逃れながら真冬の日本列島を縦断したと言うのは、とても大変なことだと思います。

確かに、どのコースを取ったにしろ氷点下の気温と豪雪の中、敵の目を避けながら日本縦断したことに違いはない。いずれにしても、過酷な旅路である。

ちなみに後日談となるが、結局この苦労は実を結ばなかった。信雄と家康は成政の説得に応じず、挙兵しなかったのである。失意の元に富山城に戻った成政は、およそ7万の敵兵に迫られて秀吉に降伏することとなる。降伏後は、領地の大半を没収され、秀吉の御伽衆として数年を過ごし、九州征伐の武功により再び領主として肥後国を任されるが、最終的には統治に失敗し切腹をさせられてしまうのだ。

戦国の徒花として咲き、激動の時代を疾走して散っていった佐々成政。今に残る伝説が事実であるか否か、はっきりとしたことは誰にもわからない。しかし、その英雄譚は今なお、成政の勇猛な武者ぶりを私たちに伝えてくれるのである。

山岳博物館とは?


日本初の山岳博物館として昭和26年に開館。北アルプスの自然と人をテーマに、歴史、動植物、地質など、充実の展示内容を誇る。「風雪のビバーク」で知られる登山家、松濤明氏の絶命直前の手記や井上靖の「氷壁」のモデルとなったナイロンザイルの現物は必見。他にも、北アルプス登山の黎明期を支えた登山家達の足跡を伝える展示や北アルプスに生きる動物達のリアルな剥製などは見応え充分。

付属動植物園ではライチョウやニホンカモシカの生体展示も行なっており、貴重な姿を見学することができる。


市立大町山岳博物館公式Webサイトはこちらから

動画で楽しむ大町山岳博物館

YAMAPのYouTube番組「山岳博物館学芸員が解説!北アルプス登山史三大ミステリー」では、 佐々成政の厳冬期「さらさら越え」を含めた北アルプスの3大ミステリーを特集!

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登山アプリYAMAP運営のWebメディア「YAMAP MAGAZINE」編集部。365日、寝ても覚めても山のことばかり。日帰り登山にテント泊縦走、雪山、クライミング、トレラン…山や自然を楽しむアウトドア・アクティビティを日々堪能しつつ、その魅力をたくさんの人に知ってもらいたいと奮闘中。