登山好きとしても知られるフリーアナウンサーの大橋未歩さんが、アメリカのロングトレイル 、John Muir Trail(ジョン・ミューア・トレイル)を歩いたときの”旅の記憶”を綴るフォトエッセイ。連載第3回目は「恐怖の九十九折りスポット」での出来事。山あり谷あり、大橋さんの山旅はまだまだ続きます!
大橋未歩のジョン・ミューア・トレイルの山旅エッセイ #03/連載一覧はこちら
2020.10.01
大橋 未歩
フリーアナウンサー・"歩山"家
「今まで食べてきたレトルトカレーで一番美味しい!」
本当はそう言いたかった。
初日の夕飯は「テングカレー」。国内屈指の人気を誇るビーフジャーキーブランド「テング」のビーフジャーキーを使ったカレーだ。
歯ブラシでさえも子供用にして軽量化した中、フリーズドライではなくあえて重いレトルトカレーを持参した食料担当である夫の気合いが垣間見える。いや、全面ガラス張りに丸見えだ。
夫の生業はテレビディレクター。記念すべき初日の締めを華やかに飾る演出だろう。
「おいしい?」
三白眼を珍しく輝かせて聞いてくる。
唾をごくりと飲む。一拍おいて
「もちろん!!!」
テンションで押し切った。
が、今白状する。味はしなかった。高山病由来の吐き気と頭痛でそれどころではなかった。でも夫の満足そうな顔を見ると、旅の初日を少しの嘘で穏便に終えることは悪いことには思えなかった。
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山火事の影響か期待していたほどの星は見えなかったが、まだ旅は始まったばかり。明日に備えて寝るとしよう。
今回の旅を共にする敷マットは日本の山道具メーカー「山と道」で購入したウルトラライトパッド。2m(226g)のマットを半分に切って一人1mずつ使う。軽い反面、厚さ1.5cmでは夜の寒さが身にこたえる。標高3,000mのシエラネバダでは8月でも夜は0度近くまで気温が下がるのだ。
そんな凍える夜のために持ってきた最強アイテムが2人用シュラフ。これを買ったがために、サンフランシスコ直通便は諦めた。WEBマガジン「トレイルズ」が日本のダウンメーカー「ナンガ」に特注したもので、2人用でも860gという驚きの軽さを実現している。夫と2人で入ってみると、やはり人肌はなにより温かい。朝まで冷めない湯たんぽだ。しかも私の寝相の悪さで夫をテントの端に追いやることももうないだろう。
山火事のせいだろうか、うっすらとベールがかかていたような空は、日が落ちると完全な闇をもたらした。周囲にはトイレの明かりも炊事場の明かりもなく、他のテントも誰かの声も聞こえない。広大な自然の中に小さな自分のテントがぽつんとあるのみ。ランタンを消すと、夜の漆黒に瞼を閉じるているのか開けているのか分からなくなる。これは現実なのかはたまた夢なのか、確かめるように何度も瞬きをしているうちに、意識は深く深く落ちていった。
翌朝、目覚めた時には7時近くになっていた。私たちのキャンプの朝はいつも遅い。日の出を見ようという気負いもいつしかどこかに置いてきてしまった。
テントから出る。半分寝ぼけつつも、空気の軽さに驚く。周囲の景色をくまなく記憶に留めたいのに、眩しくて目を開けていられない。目を閉じていても、朝陽の柔らかな熱を皮膚に直に感じてぽかぽかと気持ちがいい。よし、少しずつ体が起きてきた。とりかかろう。
山の朝は1杯のコーヒーから始まる。普段は高価だからと泣く泣く距離を置いているスターバックスの粉末スティックをサラサラとカップに注ぐ。熱々のお湯を注いだ瞬間、ほろ苦い香りが草原の風に乗ってあたりに広がる。朝陽にキラキラと光るチョコレート色の液体は、口に含むと、苦味を果実のような甘味やコクに変容させながら細胞の隅々まで行きわたり、寝起きの身体を覚醒させていく。
コーヒーを味わいながら、鳥の囀りと小川のせせらぎに耳をあずけた。そしてただボーッと自然を眺める。この時間がなにより好きだ。若草色の草原が朝陽を浴びて黄金色に輝いている。深緑の針葉樹は翡翠色に発光し、お互いを照らしている。一葉として同じ緑色がない。見上げれば吸い込まれそうな青空だった。空があって良かった。何故かいつもそんなことを思う。
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朝食はサンフランシスコのREI(アウトドアショップ)で買った「MOUNTAIN HOUSE」のマッシュポテト。2人で取り合うように完食し、寝袋を干してテントを畳んで。出発の準備が整った頃には9時を回っていた。昨日高山病で歩けなかった分、今日は距離を稼ぎたい。どうか体調が悪くなりませんように。願いながら歩き始めると、不思議なことに歩けば歩くほど、頭の痛みが小さくなっていく。これが「高度順応」ってやつか。
足取りもさらに軽くなり、草原地帯の緩やかな勾配を一定のリズムで上っていく。赤褐色や乳白色の岩石と緑の植物が絡み合う。そこに先達が刻んだ足跡がくっきり見える。踏み固められ土が露出したその先には荒々しい山肌。中腹に張りついているのは、氷と化した雪だった。岩肌のひだの細部まで入り込み、山の複雑な傾斜と一体化しているところを見ると、きっと悠か昔に降った雪なのだろう。
足跡に導かれるまま進んでいくと、突然、草原の中に小さな湖が現れた。シエラネバダ山脈にはこのような小さな湖が点在していて、トレイルからは死角になっていることがある。だから思いがけず水場に出くわすと、サプライズでご褒美をもらった気分になるのだ。水深は30cmほどで、水底の砂の1粒1粒まで鮮明に見えるほどの透明度。周囲は草に覆われているのに、不思議なことに水面を飛び回る虫もいない。不純物が丁寧に濾過された後、たった今ジャグから注がれたような美しさなのだ。
衝動に駆られ思わず「直接飲んでいい!?」と夫に聞くと、「濾過しないとだめ」と一蹴された。どんな時もはしゃがない夫の目に、いったい私はどのように映っているのだろう。
遠くで何かが動いた気がして顔を上げると、山の斜面に鹿がいた。親子なのか3頭のうち1頭は明らかに小さい。3頭とも可笑しくなるほど同じ角度で首をすっと伸ばし、くりっとした目でこちらを見つめている。しばらくすると飽きたのか、急な斜面を軽やかに下っていった。そうだ、ここは彼らの水場でもあるのだ。水がどれほど美しく澄んでいても、そこには寄生虫のリスクがある。
水底の砂を巻き上げないように、ボトル型の浄水器を使って水を掬いあげる。ぎゅっと絞って、濾過された水を直接口に注いだ。滴が舌に落ちた瞬間、スポンジのように吸収された。乾燥地帯を歩き続けすっかり干上がった体に、新鮮な水が隅々まで浸透していく。
まさしく命を蘇らせる天空の湖だった。何度掬っても、濁ることも減ることもなく、青空を映し出す湖面は風に撫でられ、ただゆらゆらと揺れていた。
英気を養い、Parker pass(パーカーパス)も越えた。順調に歩いていたはずだった。そう、ここまでは。
私は口をあんぐり開けて目の前に立ちはだかるKoip 山(コイップ)の荒々しい岩肌を前に呆然としていた。「こんな場所があるなんて聞いてないよ・・・」心の中でぼやく。いかにも脆そうなガレ場がとんでもない急傾斜で天をついている。限界森林を超えてもはや色彩と呼べるものが一切ない刺々した山肌に、うっすらと九十九折りの踏み跡が見えた。でも、その踏み跡さえ途中から散って失われているのか、見えなくなっている。
「ここを登るの・・・・・?」
私は高いところが苦手だ。ゆっくり自然に溶け込みながらただ歩きたいのだ。なるべく怖い思いをしたくない。でも何度地図を見返してもここの他に迂回路などはありそうにない。行くも地獄、帰るも地獄。でも、行かねばならぬと歩き始めたが、ものの30分で来たことを心から後悔していた。
高度が上がるにつれてみるみる風が強くなる。人ひとり通れるのがやっとの道幅で、10kgのバックパックが風に煽られ、足元がぐらつく。一歩進むごとに、足元から石のかけらがザラザラと奈落の底へ落ちていく。その転がる先を見るにつけ、良からぬ想像が頭を巡るのだ。もし滑落したら木が一本もないから、多分止まらない。そしたら、どんどん加速して石や岩に身体をボロボロにされる。ここで救急ヘリを呼ぼうにも連絡手段はない。どうしよう。どうしよう。
気付いたら「神様、神様」と呟き、汗でベタベタになった頬を涙が濡らしていた。
そして他のハイカーがいないのをいいことに、「無理だよぉぉぉ!」
恥ずかしげもなく叫んでいた。
鼻水を垂らしながら、折り返しの少し広くなっているスペースにたどり着くと先を行っていた夫が待っていた。
「貸して」
夫は私のバックパックを奪った。そしてなんと、前に背負ったのだ。
下校のランドセルじゃんけん!!!
じゃんけんで負けた子がみんなのランドセルを背負うというあのゲーム。いつか負ける時が来ると分かっていても、肩に食い込むランドセルからわずかでも解放されたあの時間が好きだった。
人間は、切羽詰った時ほど日常のなんでもない光景を思い出してしまうのは何故だろう。
いやいやここは通学路ではなく、アメリカシエラネバダの3,000mを越える山で、夫のバックパックは20kg近くある。私のバックパックと合わせると30kg近い荷物を背負って登っていけるの!?そんなことを聞く隙も与えず、夫は歩き出していた。荷物に埋もれて、丸刈りの後頭部だけがかすかに見える。もはや人間がバックパックを背負っているのか、バックパックが足を生やしているのか分からなかった。
後ろからよろよろと追いかけるが、夫はまるで忍者かのように足音も立てずスタスタと登っていく。アメリカ人がこの姿を見たら「Oh!Ninja!」とか言うんだろうか・・・。切迫した時ほどくだらないことばかりを考えてしまう自分が嫌になる。
何度折り返しただろうか。3時間かけてスイッチバックを登りきった。コイップピークパスは3,680m。約700mの急登だった。
先に着いていた夫を見ると、三白眼はいつもと変わらず冷静で涼しい顔をしている。「余裕だったの!?」と聞くと意外にも「やばかった・・・」と一言。
そうだった。夫はいつもこうなのだ。周囲を動揺させまいとその場では冷静沈着を装う。嵐が過ぎ去った後に、ようやく本音を言う。だからこそ甘えすぎないようにと思っていたのに。
「ありがとうね・・・」
そしてごめんね。心で呟く。
陽が傾き始めている。
コイップピークパスをくだったその先に、巨大な湖が見える。
「湖だ!今日はあの湖の近くで寝よう!」
さっきまでの恐怖を振り払うかのように、私たちは無駄に大きな声を出した。
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