皆さんは役行者(えんのぎょうじゃ)をご存知でしょうか? 修験道の開祖と伝わる7世紀後半(飛鳥時代)の山岳修行者であり、鬼神を使役したとも、多くの奇跡を起こしたとも言われる謎多き人物です。そして、その役行者が修行を行い、法華経(仏教の教典)を埋めたと伝わるのが、葛城山系周辺に点在する28の経塚。今もこの地には、役行者にゆかりが深い寺社仏閣や滝、巨石などが残っており、それらを行場(ぎょうば:修行を行う場所)とした「葛城修験」の文化が脈々と受け継がれています。今回は、そんな葛城修験の行場の中から「友ヶ島」「御所市」「金剛山」を歩き、役行者の足跡を辿るちょっとミステリアスで文化的な山旅をご紹介します。
2022.03.29
武藤 郁子
文化系アウトドアライター
私たちは、国土の7割が山という島国に暮らしている。どんなに広い平野にいても、遠くに山が見える。このように、どこを見ても視界に山容が入ってくるのは、日本ならではのことだ。私たちは、山とともに生きてきた。生活の面でも心の面でも、山が私たちに与える影響はとてつもなく大きい。
奈良県と大阪府にまたがる二上山(雄岳標高517m)の夕景。この山も葛城修験の行場の一部だ
そしてもうひとつ、同じくらい重要なのが海だろう。島国である日本は、周囲を海に囲まれている。もちろんすべての地域に海があるわけではないが、東西南北いずれかに進んでいけば、遠からず海に出る。
山と海は、日本人にとって、なくてはならない存在だ。「山と海の国」。それが「日本」なんだと思う。そんな日本を最も強く感じさせてくれる、とっておきの聖地がある。それが「葛城山系」だ。
葛城山系は和歌山県、大阪府、奈良県にまたがる峰々で、日本独自の山岳宗教である「修験道」が生まれた場所である。修験道の開祖とされる役行者は、大和葛城山山麓に生まれて、初めて修行したのは現在の金剛山を中心とした「葛城山系」だと伝わる。この葛城山系を行場として発展してきたのが「葛城修験」。日本中に修験道の行場はあるが、開祖・役行者に最も縁が深いこの地は、極めて特別な場所だ。
葛城山系には、役行者が仏教の経典である『法華経』二十八品 (品とは仏教の教典の章や篇のこと)を埋めたと伝わる。お経を埋めた場所を経塚と呼ぶが、葛城修験ではこの経塚を「葛城二十八宿」と呼び、二十八宿を巡ることが、行の核となっていた。
最初の経塚は、和歌山県の友ヶ島という島にある。「葛城修験」が特別な個性を持つのは、修験道の始まりの場所ということもあるのだけれど、それに加えて、出発点が海の島にあるということではないかと思う。
和歌山県和歌山市の友ヶ島から大阪府柏原市付近にかけて、葛城山系沿いに配置された28の経塚。経塚の場所には諸説あり、上記地図では、第三・第十四・第二十八経塚は、2ヶ所づつ記載している
友ヶ島は、対岸の加太港から定期船が出ていて、観光客にも人気のスポットだ。ハイキングコースもあり、明治時代以降に建造されたレンガ造りの砲台が、不思議な美しさを醸し出している。
船に乗る前に、加太港近くの高台にある阿字ヶ峰行者堂から、友ヶ島を遠望してみた。コンパスを見てみると、行者堂からほぼ西方に、友ヶ島が位置している。
阿字ヶ峰行者堂。修験者が友ヶ島に渡る前に訪れる
行者堂から眺める紀淡海峡と友ヶ島
行者堂のほど近くに鎮座する淡嶋神社は、友ヶ島の神島に鎮座していた神(少彦名命・すくなひこなのみこと)を遷したと伝えられていて、その根源が友ヶ島であったことを伝えているが、この地形を見ると納得だ。友ヶ島は紀伊半島に付随する小半島の突端近くにあるのだが、このように尖った地とその先にある孤島は、古来聖地とされることが多いのである。
そして、行者堂から加太にかけてのエリアと、神島や友ヶ島東側の湧水地周辺から、縄文時代の遺物が確認されている点も気になる。関西は弥生以前の遺跡が少ないが、この地域には集中している。広大な紀伊半島の中でも古くから人々が生活した痕跡が確認されているということも、この友ヶ島と対岸の加太の町に特別な何かがあるのではないかと、想像が膨らむ。
友ヶ島は、本島(沖ノ島)と神島、地ノ島、虎島があり、この虎島に、第一経塚「友ヶ島 序品(ともがしま じょほん)」がある。残念ながら取材した時期は虎島に渡ることができなかったが、船から序品のあるエリアを遠望できた。そそり立つ岸壁が荒々しくダイナミックだ。海を見ると、紀伊半島と島々の間がかなり狭く、水の流れも速そうだ。今は定期船に乗れば、簡単に友ヶ島に渡れてしまうが、昔はそうはいかなかっただろう。
フェリーから眺める虎島。島の左奥に第一経塚「友ヶ島 序品」がある。海流は荒く、渦を巻いている
役行者は、この海を渡ったんだろうか。
実際のところ、役行者が友ヶ島に上陸したかはわからない。というのも、出発点である第一経塚「友ヶ島 序品」は、12世紀ごろには対岸の阿布利寺(廃寺)にあったらしい。14世紀ごろの書物には「序品窟 島の岩屋(にある)」とあるので、その時期には今と同じように、島に置かれていたことがわかる。
なぜ最初の経塚を友ヶ島に遷したのかは不明だが、勝手に想像するならば、当初は「聖なる島」を遥拝する地点である加太が出発点となっていたが、いつしか聖なる島そのものに、より近づきたくなる心情が生まれ、出発点を島に遷したのではないだろうか。
ほかの経塚も、時代によって場所を遷していた可能性がありそうだ。実は現在確認されている28の経塚も、戦後になってから特定されたものがある。というのも明治5年に発布された「修験道廃止令」により、1,000年以上にわたって人々の傍らにあった修験道は一度断絶させられてしまい、「葛城修験」の行も途絶えた。そのため、寺社が近くにあるもの以外の経塚の多くは、場所がわからなくなってしまったという。そのあたりについてご教示いただくべく、私は和歌山県立博物館の大河内智之さんを訪ねた。
県立博物館学芸員の大河内智之さん。仏教や修験道に関して研究・調査を行っている。同氏写真提供
「ほかの地域の修験でも、同じように危機がありましたが、管理する主体が明確な行場では、割と早い段階で再開できた。しかし葛城は、行場全体を一元的に管理する集団がなかったために、ポイントとしては残ったんですが、線としては途絶えてしまったんです」
大河内さんは、そう言うと深く息を吐いた。一度失ってしまったものを取り戻すのは大変なことだが、戦後、修験道が復興されると同時に、開祖・役行者以来の葛城修験を再興しようと、多くの方々が尽力してこられた。資料や伝承から経塚を探し、特定する。そこに標を立て、行を行う…。こうして「葛城修験」は、再び動き始めたのだ。そして努力の積み重ねが、一つの実を結んだ。2020年、「葛城修験」が日本遺産に選定されたのだ。
日本遺産 葛城修験のWebサイト。葛城修験の歴史やモデルコースなどについて広く情報がまとめられている
「日本遺産に選定されたことが、新しい出発点になると期待しています。日本遺産をきっかけに葛城修験という非常に貴重な信仰、文化があることを、ひとりでも多くの人に知ってもらいたい。かつて葛城修験は、日本中の行者にとって、一生に一度は行きたい、行かなければならないという最高峰の行場でした。長い年月、何十万という行者さんが祈りながら歩いてきた。それほど貴重な場所でありながら、里からちょっと行けば、私たちも同じように歩けます。歩くという同じ動作をすることで、先人とつながっていけるんです。そんなふうに想像しながら、歩いてみてほしいですね」
人が歩くことで、道ができる。歩き続けていくことが、道を継続させる。自然の力は圧倒的だから、人が訪れなくなれば、すぐさま道を飲み込んでしまうだろう。日本遺産に指定されたことで、たくさんの人が歩くようになれば、これからの「葛城修験」の道も再生されていくのではないか。そのお話を聴いて、私はホッとした気持ちになった。
中津川行者堂。葛城修験(本山派)の中心をなす行場で「中台」と呼ばれる。聖護院門跡が山伏の位階を受ける儀式「葛城灌頂」を行う。裏手の山上付近の山道脇に第七経塚「中津川 化城喩品(なかつがわ けじょうゆほん)」がある
第八経塚「犬鳴山七宝瀧寺鈴杵ヶ嶽 五百弟子受記品(いぬなきさんしっぽうりゅうじれいしょがたけ ごひゃくでしじゅきほん)」。役行者開基と伝わる真言宗犬鳴派総本山にある。女性も修行できることから女人大峯と呼ばれてきた。現在も一般人向けに一日修行体験を設け、広く門戸を開いている(要予約)。写真:PIXTA
続いて我々は、友ヶ島から一路北東に移動し、奈良県に入る(時間の関係上、残念ながら車だ)。いよいよ役行者が生まれた御所市を歩いてみよう。金剛山・大和葛城山山麓に位置する御所市には、大和朝廷の草創期にまつわる遺跡や寺社が点在し、神話のような物語が、事実として立ち上がってくる。その事実が醸し出す空気は、めまいを感じるほど濃密だ。
役行者の出生地と伝わる金剛寿院吉祥草寺。山号は茅原山。境内には役行者の産湯の井戸があり、母の白専女像などもある
役行者が生まれた7世紀頃、 葛城山系には、強力な神を祖神とする豪族が割拠していた。役行者は、中でも有力で呪力に優れた氏族・賀茂(鴨)氏の出だ。賀茂役君 小角(かものえだちのきみ おずぬ)、ともいう。実際の役行者は、仏教伝来以前から存在した山岳信仰と関係の深い山林修行者だったのではないかと私は考えている。仏教や道教など、中国大陸から伝わった、当時最先端の学問や技術を身につけ、呪術を自在に操り、薬草に詳しく民衆に施した。
民を惑わしていると讒言され、流罪になったりもするのだが、流刑先でも自由に飛び回り、多くの伝説を残した。伝説にある役行者の姿は、権力の思惑も軽々と飛び越えてしまうような強さを持つ「超人」だ。そんな「超人」像は、庶民にとって理想像であり、憧れの対象だった。
そしてその憧れは、葛城山系で修行する修行者たちの目標となり、その後成立していく修験道の中に受け継がれていった。この地に伝わる役行者の逸話を紐解くと、そういった人々の役行者に対する思いが見えてくる気がする。
役行者に憧れ、理想とした人々は、役行者の歩いた道を同じように歩こうとした。その道が、吉野や大峯、葛城の修験の道につながる。役行者の伝説は不思議な力を示すものが多いが、中でも「ほとけ(仏尊)を感得した(感じ、見い出した)」というエピソードが印象的だ。最も有名なのは、「蔵王権現(ざおうごんげん)」だろう。役行者が吉野の金峯山で修行中に感得した蔵王権現は、吉野修験の大本山、金峯山寺の本尊像はじめ、日本中の修験系の寺社で祀られている仏尊だ。
東京国立博物館所蔵の蔵王権現立像。蔵王権現は、険しい山中で修行する山岳修験において信仰される日本独自の仏尊。出典:国立博物館所蔵品統合検索システム
同じく役行者が感得しながら、あまり知られていない仏尊がある。「法起菩薩(ほうきぼさつ)」という。金剛山周辺にしか祀られておらず、立体の全身像は金剛山山頂に位置する転法輪寺にしかない。
転法輪寺の本尊である全身像は、平成23年に復刻されたものだ。というのも、前述した明治の修験道廃止令の折、転法輪寺が一時廃寺にされてしまい、多くの仏像や建物が壊されてしまった。その際に、本尊の仏頭だけは、金剛山山麓の菩提寺に遷されたという。復刻する際には、菩提寺の仏頭を大いに参考にしたとうかがっていたので、この機会にと、訪れてみた。
御所市伏見地区にある菩提寺。山間にひっそりと佇む牧歌的な雰囲気の山門
菩提寺は、金剛山東麓に位置する。段々に田畑が広がる風景の中、坂道をぐんぐん登っていくと、高台に山門が見えた。お寺を代々管理されている前川さんが、温かく境内へと誘って下さる。山門には立派な仁王像が安置されており、この伏見一帯から山頂にかけて広大な寺域を有していたという往時が偲ばれる。
可愛らしい本堂の奥の庫裏に上がると、祭壇の中央に役行者像が安置されていた。
役行者・前鬼・後鬼像。前鬼・後鬼は役行者の式神とも弟子とも言われる。斧を持っているのが前鬼で、左の水瓶を持つのが後鬼
役行者像は仙人のような老人の姿で表わされることが多いが、こちらのお像は覇気に溢れ、もう少し若い年齢の男性像に見える。そして祭壇に向かって右手に弘法大師像、左手に法起菩薩の仏頭が鎮座していた。
私は思わず息を呑んだ。ものすごい迫力だ。そして、とても美しい。五つの目、逆立った髪、口元からのぞく二本の牙、そしてふんわりと柔らかそうな頬が、見事に調和している。
法起菩薩は、葛城山の地主神・一言主神の本地仏とも考えられた。本像は室町時代の作と推定される
憤怒の表情に5つも目がある「異形」、しかも首だけの痛々しい姿だ。怖ろしいと思ってもいいはずなのに、厳しい中に温かさを感じてしまうのはなぜだろう。転法輪寺で今のご本尊を拝観した時にもそう感じて胸が熱くなったが、やはり、元々のお像も同じように、包み込むように優しい。
私たちを温かく迎えてくださった前川さんの笑顔が、そこに重なった。帰り際、ずいぶんと長居して…と恐縮する私たちに、おやつに食べてと袋いっぱいのお菓子を持たせてくださった。もっと何かしてあげたいけれど…というような優しい気持ちが、全身から放出されるように感じられて、ありがたさで胸がいっぱいになった。私が金剛山・葛城山が好きだと思ってしまうのは、こういう温かさがあるからなんだとジーンとしながら、「必ずまたお邪魔します!」と何度も頭を下げながら、お寺をあとにした…。
菩提寺を管理されている前川さんと筆者
翌日は、御所市にある賀茂氏ゆかりの古社・高鴨神社にお詣りしてから、金剛山山頂を目指して出発。金剛山登山で最も一般的なのは、大阪からのアプローチだが、今回は御所市から山頂を目指す。このルートで歩けば、第二十経塚の「石寺跡 常不軽菩薩品(いしでらあと じょうふぎょうぼさつほん)」を経由することができる。
当日の登山ルート。YAMAPの該当地図はこちらから
のどかな里を抜けて、杉の林を登っていく。枝打ちされた杉が整然と植えられた林を抜け、山道を1時間半ほど歩くと、少しひらけた場所に第二十経塚があらわれた。大きな石の側に白い道標があり、いくつかの石碑と左脇には小さな碑伝(ひで。峯入りした修験者が名前や入峯の日付、回数などを書いて納めた標識のこと)が置かれている。一同で拝礼すると、再び山頂を目指す。山頂の手前の湧出岳という小さな嶺に、次なる目的地、第二十一経塚があるのだ。
1時間ほどでダイヤモンドトレールとの合流点に到達。ここからは少々のアップダウンはあるものの、金剛山山頂までの緩やかな山道になる。途中の展望台で、吉野の峰々から河内平野までぐるりと一望し、参道に戻って20分ほど進むと、湧出岳に到達した。
湧出岳は、役行者が法起菩薩を感得したと伝わる場所だ。第二十一経塚の「金剛山 如来神力品(こんごうさん にょらいじんりきほん)」もすぐそばにある。さらに奈良と大阪府の電波塔や無線中継所が設置されているので、小さな山頂は、様々な要素が混在する坩堝になっている。
金剛山は、この湧出岳と、葛木神社本殿の裏手にある葛木岳、大日岳の三つのピークの総称だ。心地よい風に疲れを癒されながら、葛木神社に参拝し、転法輪寺へ向かう。
転法輪寺では、ご住職の葛城光龍師が、温かく迎えてくださった。本堂でまずご本尊の法起大菩薩に参拝する。菩提寺でお詣りしてきたお像と同じお顔だ。そして、やっぱり今日も優しい。
私は葛城師にどうしてもご教示いただきたいことがあった。それは葛城修験の出発地と終着地についてだ。なぜあの場所から始まり、終わるのか…。特に終着点、第二十八経塚「亀の尾宿 普賢菩薩勧発品(かめのおしゅく ふげんぼさつかんぼっほん)」は、大和川の「亀が瀬」にある「亀石」という石なのだが、実際に訪ねてみて、困惑してしまったのだ。なぜこの場所が終着点なのだろう?と。
大阪府柏原市峠、大和川の中に位置する第二十八経塚「亀の尾宿 普賢菩薩勧発品」(川の中にある丸い岩が亀石)
「あくまでも想像ですよ。僕は禊(みそぎ)やないかと思っているんです。最初の場所、友ヶ島は“海の禊”。最後の亀の尾は“川の禊”やないかなと」
私は、思わず膝を叩いた。「葛城修験」は、葛城山系全体が行場で、聖域だ。その聖域の入口と出口で、禊をするという意味だとすると、すっと腑に落ちる。入口(海)で身を清めて、聖域(葛城山系)を経て、出口(川)で身を清めて終わる…。
しかし海での禊と考えると、友ヶ島に渡らなくてもできるのではないだろうか。前述したように、古くは加太のほうに出発点があった。なぜ友ヶ島に?と首をかしげる私に――。
「それは結界だと思う。仏縁が結ばれたものだけ、許された者だけが、島に渡ることができるということやないかと。今は定期船がありますけど、自分が巡り始めた頃には、漁船にお願いして、着岸してもらってたんです。その時、波が荒れましてね。たった30分ですけども、命の危険を感じました。渡してくれた漁師さんは、あそこは潮が非常に速くて、手で漕ぐ船では絶対たどりつけないと言っていました。ただ潮目を分かっている人は漕がなくても行けるんだと」
不思議な話だが、分かる気がする。陸上と同じで、海にも道があるのだ。
今回の取材とは別のスタッフが虎島の磯場を第一経塚「友ヶ島 序品」に向かう様子。虎島は磯場が連続し危険なため、ガイド同伴でないと立ち入れない。この日はYAMAPメンバーも専門ガイド同伴のツアーに参加した
「第一経塚に行けないと葛城修験の修行を始められませんからね。島に渡れた人は、行をする許可(こか)をもらえたということではないかと思います」
その言葉に、思わず胸を抑えた。私たちは渡れなかった。ということは…。
「武藤さんたちは、虎島に渡れなかったんですよね。僕たちは5月の大潮の時にしか渡らない。この令和の時代になってもそうやって人の足を踏み入れさせないという、ひとつの結界が張られているんですよ。それだけ大切な場所なんです」
今回虎島へ渡れなかったのは、台風の影響だった。通常時は、案内者(専門ガイド)がいれば渡れるという。しかし、葛城師のお話を聴くと、やはり生半可な気持ちで足を踏み入れてはいけない場所なんだと、思わず背筋を伸ばした。
にわかに「葛城修験」の厳しさを感じて姿勢を正したが、しかし一方で葛城山系は標高も高くないし、一般の人にも歩きやすい山のように感じる。
「僕もね、修行をする人間には厳しく言います。でも一般の方には、自分のペースで行けるところまで歩いてみてくださいと言う。ゆっくり歩くのでも、行なんです。僕はそれが葛城修験が目指すところだと思います。里からも近くて、低い峯が連なるでしょう。だからそういうことをさせてくれる。歩幅を合わせてくれる峯が続いている、それが葛城かもしれない。しんどく歩こうと思えばいくらでもできるんですけど、ゆっくり歩けばほんまに優しい山やなって思うんですよ」
「歩幅を合わせてくれる…、わかります!」
私は思わず声を上げた。一番高い金剛山でも標高が1,125mで、ゆっくり登っても1日で降りられる。ルートも多く、強度を調整することもできるだろう。
「葛城修験の成り立ちや意味合いを思いながら、歩いてみてほしい。するといろんなことに気付きます。山には人生のすべてがある。小さな双葉の葉っぱたちは、倒れた老木の側に芽吹いている。双葉もいつか老木になって倒れて、次の芽吹きの栄養になります」
「私たちも生まれた時は何にもできなくて、みんなに助けてもらって、大きくなる。独り立ちしてエラそうなこと言いながら、いずれはみんなに助けてもらいながら枯れていって、土に戻る。そうやって関わり合いながら命が巡る、それが自然な成り行きなんだということが、山に入ったらよくわかります。山を歩きながら、そういった自然の営みに気づき、森羅万象に感謝する。そして山へ来られたのも、自分ひとりでできたことではない。家族やお友達、皆さんのおかげです。そのことにも感謝しながら“山へ入れたことがありがたい”そういった思いで歩いていただけたらと思います」
私は葛城師の言葉に深くうなずいた。修験道はとても深く、厳しく難しい面もあるだろう。しかし、本格的な行を行えなかったとしても、葛城修験を思いながら、感謝を胸に、一生懸命歩けばいいのだ。葛城の山は、きっと優しく包んでくれる。
「ご住職、私も5月の友ヶ島に行きたいです」
口から言葉がついて出た。その自分の言葉を聞いて、自覚した。私は虎島に行ったほうがいいんだ、やっぱり行きたいんだ、と。
「じゃあ、一緒に歩きますか」
葛城師は、そう言うと、笑って頷いてくださった。
私はがぜんやる気になっていた。葛城師にお供して、友ヶ島の序品へ参詣して、葛城の峰を歩きたい。そしてまた、菩提寺にお詣りして、前川さんにご挨拶しよう……。
思い返せば、初めて金剛山に登拝したのは3年前で、その時にも友ヶ島へ誘っていただいたことがある。諸事情があって行けなかったが、すでに準備が始まっていたということではないか。そしてこの時、最後の一押しをいただいた気がしたのだ。
見送ってくださる葛城師にご挨拶をして、山を下りる。体力づくりをしよう、仕事も調整して…と思いを巡らせながら、進んでいく。我ながら、下山時にこんなに元気だったことはない。疲れていたはずなのに体が軽い。
来年の5月。葛城の山々に再会できるかと思うと、ますます心が浮き立つ。こんなふうに心が動かされることが、葛城修験が1,000年以上にわたって多くの人を惹きつけ続けてきた理由ではないだろうか。そしてその魅力・求心力は、今これからも力強く続いていくと確信した。
下山時に目にした石仏。その優しげな面影が、今回の旅で出会った葛城の人々と重なった
了
YAMAPでは、2022年3月29日から「葛城」の峰々に点在する28の経塚を巡るデジタルバッジを実装。デジタルバッジコレクターの方はもとより、文化的な登山や修験道に興味がある方のご参加をお待ちしています!