亡き父から娘へ。想いつながる、地図になった登山道|森田裕子さん

YAMAPユーザーさんに等身大の登山ライフを伺う「ユーザーインタビュー」連載。今回は、愛する地元の山「矢岳(福岡県)」を整備し続けた、今は亡き登山者「民(たみ)さん」のお話を、娘の裕子さんにお伺いしました。個人の情熱が荒れた登山道を甦らせ、そしてYAMAPにも登録される人気の道になるまでのエピソードをご覧ください。

2022.12.20

吉玉サキ

ライター・エッセイスト

INDEX

2021年の初め、YAMAPでとある山の投稿数が一気に増えました。福岡県の那珂川市にある矢岳(385m)という里山です。当時のYAMAPには矢岳の地図はありませんでしたが、活動日記の投稿数が増えたことを受けて、2021年4月に地図を新たに追加することになりました。

登山道が地図上に引かれた矢岳(福岡県、385m)

その少し後、YAMAPの地図担当者は、矢岳に関するある活動日記を見つけました。ライフワークとして自主的に矢岳の登山道整備をしていた方が亡くなり、その娘さんが追悼登山を行ったという投稿です。亡くなったのは「民さん」と呼ばれる70代の男性。

「ひょっとしたらこの男性が生前に取り組んでいた整備活動が、矢岳の登山者数増加に結びついているのではないか…」。何気なく目にした活動日記でしたが、その小さな気づきが今回の物語を見つけるきっかけになったのです。

そこでYAMAP MAGAZINEでは、追悼登山の投稿をした森田裕子さん(ユーザーネーム・ルビーゆうこ(民さんの娘))にお話を伺うことにしました。ご自身も登山やトレランを楽しむYAMAPユーザーの裕子さんに伺った民さんの生前の活動、そして矢岳に対する思い。お話を伺う中で見えてきたのは、ひとりの男性の絶え間ない努力が生み出した小さな奇跡の物語でした。

日課は毎日のプロギング(ゴミ拾いランニング)

―裕子さんが登山を始めたきっかけを教えてください。

きっかけは父です。父は子どもの頃から山に親しんで育ち、九州の有名な山にはほとんど登っていました。私が幼稚園児の頃に両親が離婚して、私は母と暮らしていたんですが、父に会うたび山に連れていかれましたね。その頃は、山登りはキツいから嫌でした。

年頃になると、父と山に行くこともなくなって。その後は早くに結婚・出産したこともあり、しばらく山から離れていました。

―再び山に登るようになった理由は?

30歳くらいから、体力づくりのために熊本県にある自宅から行ける距離にある3,333段の石段でトレーニングするようになったんです。そうすると脚力がつくから山にも登りたくなって、気づけば子どもの頃嫌がっていた山に戻っていました。そして、5年前にトレイルランニングを始めました。

普通の登山もしていますが、トレランの大会でボランティアをしたり、あとは朝のランニングもしています。熊本には花岡山(132m)という山があるんですが、そこに毎朝走りに行ってるんですよ。ランニング仲間がたくさんできて、会う約束はしていないけど、行けば誰かしらに会いますね。

―毎朝! それはアクティブですね。

毎朝の花岡山では、プロギング(ゴミ拾いをしながらランニングする活動)をやっています。花岡山は夜景が綺麗なスポットなので、たくさんの若者が車で来るんです。そのせいか、よくファストフード店やコーヒーショップのゴミが落ちていて。朝に私たちがゴミを拾っていると、夜遊び明けの若者が一緒に拾ってくれるんですよ。一見悪そうに見える子でも、喋ればいい子が多くて、一緒にゴミ拾いをしながらお喋りしたりしています。

―頼まれてもいないのに毎日ゴミ拾いをするのは、なかなかできることじゃないと思います。

それは父の影響もあります。父も、誰に頼まれたわけでもないのに毎日のように矢岳の整備をしていましたから。私は2020年に熊本県の球磨川が氾濫したときも泥掻きのボランティアをしました。父の背中を見て育ったから、「自分の力を貸せるときは貸す」ということが染みついているんだと思います。

「有名な山だけが山じゃない」

生前の民さん。登山道を遮る倒木や草などを日々整備していた(写真は、ルビーゆうこ(民さんの娘)さんの活動日記より。以下も同様)

―民さんは矢岳の登山道整備をライフワークにしていたそうですが、それは何年前から行っていたのでしょうか?

10年くらい前です。父は65歳で退職して時間ができて、運動がてら近所の矢岳に行くようになったんですね。当時の矢岳は荒れ放題で、木が倒れて歩けない場所や、藪漕ぎしないと通れない場所もあったそうです。

父は、邪魔な枝を片付けたり、工具を持って行って足場が悪いところに段差をつくったりするようになりました。いつしかそれが日課になって、「明日はここを整備しよう」「明後日はあの辺を整備しよう」と、自分の中でスケジュールを組むようになって。そうして父が整備しているうちに、だんだん矢岳に歩ける道ができていったんです。

矢岳山頂付近の登山道。熊手などを手に歩く民さんの様子はお馴染みの姿だった

―登山道整備って、専門的な知識がなくてもできるものなんですね。

父は鉄工所勤務だったんですが、うんと若い頃は大工をしていたんです。だから手先が器用でなんでもつくれたんですよ。

登山道整備をしていると、通りすがりの方にお礼を言われるじゃないですか。父はそれが嬉しかったようです。

―そういう話を、裕子さんは民さんから聞いていたんですか?

聞いていたし、見てもいました。私はときどき熊本から父に会いに行って、一緒に矢岳を歩いていたんです。父の登山道整備を、私も一緒に手伝いました。

―頼まれたわけではないのに自主的に登山道整備をするなんて、民さんはよほど矢岳を愛していたんですね。

父はよく「有名な山だけが山じゃない」と言っていました。誰もが知っているメジャーな山って、ある程度の気合いを入れないと登れないじゃないですか。そういう山だけを登山の対象にしてしまうと、登山が億劫になってしまう。ちょっと運動したいときや気軽に歩きたいときは、近所の里山がいい。父は、そんな身近な里山を大切にしていました。

突然の別れと、追悼登山の反響

矢岳山頂からは、長いトンネルを抜けて博多駅に向かう新幹線や、海岸沿いの百道(ももち)エリア 、海の中道まで望める

―民さんの整備活動の甲斐あってか、矢岳のルートがYAMAPに追加されたのが2021年4月。そのすぐ後の5月に、民さんは急逝されました。

父は、3月頃までは矢岳の整備をしていました。その後、ちょっと心臓の調子が悪くなって、矢岳に行けなくなったんです。

ちょうどその頃、私はYAMAPのユーザーさんから「矢岳のルートを地図に載せてほしいとYAMAPに申請した人がいるよ」と聞いたんですね。それで父に「矢岳がYAMAPの地図に載るかもしれないよ」と話したら、父は「自分はもう毎日は矢岳に行けない。でも、地図に載るなら安心だ」と言っていました。

そして5月のある日、急に亡くなったんです。

―急だったんですね。

たしかに心臓の具合が悪くて短期間の入院はしたけど、退院してからは元気だったんです。だから私も驚いてしまって。親が先に死ぬのは当然かもしれないけど、かなりショックでした。

―裕子さんは、民さんの追悼登山をしていますよね。

矢岳でよく父と顔を会わせていた方たちに、父が亡くなったことをお知らせしたいと思いました。YAMAPに活動日記を投稿したら、父のことを知っている人たちが気づいてくれるかもしれないと思って。どうしてもGPSの軌跡をつけて投稿したかったので、父が死んでバタバタしている中、姪っ子を連れて矢岳に登りました。

追悼登山の投稿をすると、多くの方から反響をいただいて。矢岳で父と会ったことのある方たちから、たくさんのコメントやメッセージをいただきました。

―民さんと話したことがある方からのコメントもけっこうありましたね。民さんは人懐っこい方だったのでしょうか?

お喋りが好きなんですよね。登山者の方に道を聞かれたり、挨拶の延長でお喋りをすることが多かったみたいです。それで「自分はほぼ毎日ここに来てます」「ぜひまた来てください」なんて言っていたそうで。

「矢岳に行くと必ず民さんがいた」というコメントもありましたし、父のためにわざわざお線香とお花を持って矢岳に登ってくれた方もいました。


追悼登山の活動日記に寄せられたメッセージの一部

―本当に、多くの登山者の方が民さんの存在を認識していたんですね。

それだけではなく、父の遺志を継いでくださる方もたくさんいます。私がYAMAPに「これからは私が矢岳に通って登山道整備をする」と投稿したら、多くの方が「自分も手伝う」と言ってくれました。追悼登山の投稿がきっかけで親しくなったYAMAPユーザーさんもいて、父が繋いでくれた縁に感謝しています。

「人がしてくれることは素直に受け取れ」

民さんが残した筆跡を目にするたび、裕子さんは民さんの在りし日に想いを馳せるそう

―裕子さんから見て、民さんはどんな方でしたか?

かっこいい父だったと思います。生きているときは気づかなかったけど、いなくなってから、「私は父に憧れていたんだろうな」と気づきました。

たとえば、父は大型バイクに乗っていたんですね。私も若い頃からバイクに憧れていたんですが、父は私がバイクの免許を取ることにはずっと反対していました。だから私は、父が亡くなってから大型バイクの免許を取ったんです。登山もバイクも父が好きだったことなので、きっと私は父の影響を受けているんだと思います。

裕子さんは民さんが愛用していた道具を使って、定期的に矢岳で作業を続けている

―民さんとの思い出で印象に残っていることは?

小学校3、4年生の頃、父と兄と志賀島という半島に行ったんです。父が私と兄をひとりずつバイクで運んで、砂浜で花火とかして遊んでいたんですが、そのうちすっかり遅い時間になっちゃって。そうしたら父が、「もうこのままここで寝よう」と言い出したんです。テントも何も持っていないのに。それで、3人で砂浜にごろりと寝て、満天の星空を眺めながら眠って朝を迎えました。子ども連れで野宿するなんて、今思うとすごく大胆ですよね(笑)。

―子どもの頃、よく民さんに言われたことはありますか?

「人がしてくれることは『ありがとう』と言って素直に受け取れ」と言われました。人って何かしてもらうとき、遠慮して「いえいえ、大丈夫ですよ」とか言っちゃうじゃないですか。父に言わせれば、「そういう遠慮は人付き合いを狭くするし、世界を小さくするからよせ」と。相手の「してあげたい」という気持ちを無下にするなよ、と。

―人間関係が希薄になりがちな現代だからこそ、本当に役立つ教えですね。

父に教えられたとおり、私も誰かがしてくれることは心の扉をフルオープンで受け取るようにしています。

朝ランに行くと、花岡山の近くでウォーキングをしているおじいちゃん・おばあちゃんが畑で採れた野菜をくれることがあるんですね。「ありがとうございます!」ってニコニコ受け取ると、また野菜をくれたり、私が福岡に行っている間、花岡山に顔を見せないと心配してくれたり。40代になってもこうやって可愛がっていただけるのは、父の教えを守っているからだと思います。

裕子さんが手にしているのは、花岡山で出会った方からいただいた「かぼす」だそう

―他に、民さんの教えで心に残っているものはありますか?

趣味やライフワークを持つことの大切さも父が教えてくれました。父も、晩年の矢岳の活動がなかったら寂しかったと思うんですよ。仕事を定年退職して、毎日やることもないし、人と会う機会もないし。

私も出産が早かったぶん、早くに子育てを卒業して自分の時間ができたんですね。だから、もし登山やトレランがなかったら、家庭以外に居場所がなくて時間を持て余したかもしれない。トレランの大会でボランティアをしたり、花岡山でプロギングをしたりしているから、毎日を楽しく過ごせていると思います。

トレイルランニングの大会ではボランティアとして運営の手伝いも

―仕事と家庭以外に居場所を持つことは大切ですよね。

本当にそう思います。私は子育て中ずっと「〇〇ちゃんママ」と呼ばれていたんですけど、今は趣味を通じて知り合ったたくさんの方たちが私を「裕子さん」と呼んでくれる。私個人とお付き合いをしてくれる方たちのことは、一生の宝物だと思っています。

仕事と家庭以外に見つけた自分の居場所が、父にとっては矢岳だし、私にとってはトレランやプロギングだった。こうしてライフワークの大切さを知ることができたのも、そもそも山を好きになったのも、父の背中を見て育ったからです。私に一生ものの趣味を授けてくれた父には、言い尽くせないほど感謝しています。

森田裕子さんのすべての活動日記はこちら

※山の整備に際しては、実施前に地権者や管轄の行政機関へ問合せをするようにしましょう。

吉玉サキ

ライター・エッセイスト

吉玉サキ

ライター・エッセイスト

北アルプスの山小屋で10年間働いていたライター・エッセイスト。著書に『山小屋ガールの癒されない日々(平凡社)』がある。通勤以外の登山経験は少ない。