江戸時代、日本人は自らの足で途方もない距離を歩いていました。そして歩き続けたことで偉人となったのが、日本初の精緻な沿岸地図を作成した測量家、伊能忠敬(1745〜1818)。取り立てて丈夫ではなかった初老の男性が、17年間、35,000kmの徒歩旅を続けられた理由を、記録を読みながら探りました。
2023.01.31
相原秀起
ノンフィクション作家
江戸時代後期の1800年(寛政12年)7月10日。伊能忠敬率いる測量隊6人は、津軽海峡を渡り、北海道南端の福島町吉岡に到着します。
現代人には東京から青森・竜飛岬までの1,000km近い徒歩旅すら大変ですが、伊能忠敬にとってはスタート地点にたどり着く前。蝦夷地(北海道)から17年、35,000kmにおよぶ、全国沿岸測量の第一歩を踏み出します。
第1回の測量での距離の算出方法は、自分の歩いた歩数から計算する歩測でした。忠敬の一歩は69cm。その積み重ねから、偉業を成し遂げる道を進みます。
忠敬は当時55歳。平均寿命が現代の半分もなかった江戸時代では、初老の域です。厳しい環境の蝦夷地行きについても、周囲から心配する声があったに違いありません。
楽隠居の道を選ばず、あえて天文の道に進んだ忠敬の真の願いは、実は地図制作ではなく、緯度1度の距離を測り、そこから地球1周の大きさを算出することにありました。
そのため、南北の距離があり、緯度の差が大きい江戸からはるか北海道を目指したのです。
忠敬自身が17年間の全国測量で歩いたのは、計約35,000km。地球一周(約40,000km)にせまる、途方もない距離を旅しました。どれほど頑健で人並み外れた脚力の持ち主だったのでしょうか。
伊能忠敬記念館(千葉県香取市)の石井七海学芸員は次のように語ってくれました。
「忠敬は皆さんが思うほど健脚ではなく、当時としては平均的な日本人だと思います。病気がちで喘息を患っており、山陰地方ではマラリアにかかって倒れています。決して丈夫な体ではありません」
忠敬の研究者であった渡辺一郎氏も著書『伊能忠敬の歩いた日本』(ちくま新書)のあとがきで、こう記しています。
「(忠敬は)偉人とか天才ではなく普通の人だった。(中略)持ち前の粘り強さと工夫に富んだ性格から、よい結果が出て、とうとう日本中を測ってしまったのだと思う」
体力的にはごく普通の日本人が、並外れた強い意志と信念を支えに17年もの歳月をかけて遺業を成し遂げた──。
江戸時代まで、一般庶民の移動手段は歩く以外にありません。忠敬の場合には、このような姿が浮かび上がってくるとともに、年齢を重ねても、歩く旅ができることを、現代人に教えてくれます。
忠敬は4回にわたる東日本の測量を終えた後、緯度1度の距離を「28里2分」(約109km)と算定しました。
この値は、当時の世界最高水準の暦学書『ラランデ暦書』をもとに計算した数値とほぼ一致。現在、緯度1度の距離とされる111kmと比べても誤差はわずかです。
当時、幕府は蝦夷地の正確な地図を必要としていました。ロシアが日本に急接近し、1792年(寛政4年)にはロシア最初の遣日使節アダム・ラクスマンが根室に来航。日本との通商関係の樹立を求めるなど、諸外国の外国船が日本の周辺海域に出没し始めていました。
正確な地図がなくてはロシアなど諸外国が蝦夷地に攻めて来たとき、現地に軍を送れません。こうした現実を利用して、地図作成を名目に測量の許可を得る、これが忠敬と師匠の天文学者・高橋至時(1764〜1804)の作戦でした。
幕府から測量の許可は出たものの、現在の貨幣価値で計2,200万円かかったとされる費用の大半は忠敬の自腹。幕府は忠敬の力量を危ぶんでいたのでしょう。
整備されたトレイルとは違い、当時の蝦夷地での測量は大変な場所も多く、靴もない時代は履物にも苦労します。
襟裳(えりも)岬近くの難所では波打ち際を歩き、岩をよじ登り、忠敬は予備の草鞋(わらじ)もことごとく切れて素足になりました。
夜になっても目的地に着かず、さすがの忠敬も困り果てていたところ、提灯を持った迎えが来て「地獄に仏」と安堵。この日の行程は「8里(32km)以上あった」と記録しています。
蝦夷地のほぼ南半分を海岸線に沿って歩いた第1次測量。移動距離は、江戸を出発して戻るまで計180日間で、約3,200kmにおよびました。
忠敬らの旅は単純計算で1日平均18km。現代のロングトレイルハイカーが平均的に歩く距離より短く見えます。
しかし、自分がトレイルを歩きながら測量もすると考えると、その苦労がわかりやすいでしょう。
忠敬の蝦夷地南半分の地図は、現在のものと見比べても違和感がありません。忠敬は幕府に対して、残る蝦夷地北半分の測量を願い出たのですが許されずに、忠敬は東北と関東の測量を命じられます。
忠敬に幕府から命じられた第2次測量は、関東の三浦半島や伊豆半島を経て、千葉の房総半島、仙台、青森の下北半島まで北上する東日本沿岸でした。
1801年5月14日に江戸を出発して、11月3日に津軽半島の三厩(みんまや)に到着するまで測量日数は230日、距離2,950kmにおよびます。この第2次測量では誤差の恐れがある歩測を止め、縄を張って距離を測りました。
この第2次測量の地図で、幕府が最も知りたかった東日本の沿岸地形が一目でわかるようになり、高い評価を得て、第3次測量から待遇も向上します。
幕府は各藩に対して、伊能測量隊への全面的な協力を指示。たとえば第6次遠征で向かった瀬戸内海の島々の測量では、芸州藩が大船団を出し、便宜を図りました。
忠敬が自腹を切って始めた全国測量と地図制作という大事業は、国家的プロジェクトの色彩を帯びることになるのです。
忠敬は第1次測量以来17年間、8次にわたる全国測量を率いましたが、全国地図の完成を待たずに1818年に江戸で没しました。
弟子たちは忠敬の死を秘し、3年後に日本全体の沿岸地図「大日本沿海輿地全図」(通称・伊能図)を完成させ、幕府に対し、縮尺が異なる3通りの地図、すなわち大図(地図計214枚)、中図(同8枚)、小図(同3枚)を提出しました。
精巧なこれらの日本地図は後に欧米列強を驚かせ、日本の文化と技術水準の高さを世界に示したのです。
精巧な伊能図を基に幕末から明治時代にかけて日本地図がつくられ、その後の地図の基礎資料ともなり、一部は大正時代まで使用されました。伊能図が完成からほぼ1世紀もの間、実際に使われたことは特筆に値します。
実は、忠敬が第1次の測量でできなかった蝦夷地の残る北半分は、弟子である探検家で、1日100kmを歩いた記録も残る間宮林蔵(1780〜1844、1775年誕生説も)に託されていました。
忠敬は第1次測量中、函館の近郊で林蔵と出会ったのですが、日記には登場しません。林蔵はここで忠敬と師弟関係を結んだと自負しているようですが、忠敬の認識はそれほどでもなかったようです。
しかし、林蔵が1808年から翌年にかけての樺太(サハリン)調査を終えて、江戸の忠敬を訪問。二人は意気投合し、正式に師弟になりました。
林蔵は、江戸で忠敬から最新の測量法を指導されて、蝦夷地へと向かいます。過酷な蝦夷地測量を完成できるのは林蔵以外にはいなかったのでしょう。九州測量に向かう忠敬は、林蔵から惜別と激励する文章を求められています。
忠敬はこれに対して「贈間宮倫宗序」(林蔵の本名は倫宗・ともむね)という題名の漢文を餞(はなむけ)として贈りました。一部を現代語で紹介します。
「幕府はいま常ならざる事業を起こそうとしているが、その事業に必要な非常の人がいるのは、すなわち君が行ってきたことが示す通りである。
飢えをしのぎ、厳しい寒さを乗り越え、そしてついに成果を上げた。このような功績を残せる人はまたとはないだろう。行け、倫宗。
よくその役目を行い、幕府がなさんとしている大きな事業の助けるとなるのだ。この言葉を贈り、別れとする 伊能忠敬」
(現代語訳は伊能忠敬記念館・石井七海学芸員、「伊能忠敬記念館年報第23号」より引用)
林蔵は、忠敬から譲られた測量器具「弯窠羅鍼(わんからしん)」を手に北へ旅立ち、1812年からほぼ5年を掛けて、忠敬が測量した南半分を含めて蝦夷地の全沿岸を歩いて測量、忠敬は林蔵のデータを基に蝦夷地の沿岸地図を完成させました。
このとき、日本史上で初めて、北海道の正確な形が姿を現したのです。
伊能忠敬研究会の調査によって興味深い事実がわかりました。忠敬は自ら測量した蝦夷地南半分の地図についても林蔵の測量データを使って補正しているのです。
つまり伊能図の蝦夷地図はすべて林蔵の測量結果を採用したわけです。日本地図の作成に残る人生を懸けていた忠敬が、林蔵の測量結果を全面的に採用していること自体、林蔵に対する信頼と評価の表れと言えるでしょう。
残念ながら林蔵が蝦夷地での測量記録を記したはずの野帳は現存していません。
林蔵から数えて6代目の間宮秀治さんによると、東京の間宮本家には林蔵の野帳が残されていたそうですが、太平洋戦争末期の1945年3月の東京大空襲で焼失してしまったそうです。
野帳には、いつどの場所を測量したのか、随員は何人だったのか、など、貴重な蝦夷地測量の記録が残されていたはずでした。
忠敬の没後200年となる2018年、測量始まりの地の北海道福島町の吉岡に異形の伊能像が完成しました。
伊能像は忠敬が暮らし、屋敷や記念館がある千葉県香取市佐原や東京の富岡八幡宮など各地にありますが、いずれも歩くか、遠くを指さすなど直立した姿勢です。
吉岡の像は中腰で、杖の先に方位盤を付けた独自の測量器具「弯窠羅鍼(わんからしん)」を両手で握り締めて、遠くの山や岬に眼を凝らしているのです。
「念願の蝦夷地測量を始めるぞ」という、像からはほとばしる忠敬の気迫を感じます。
忠敬から数えて7代目の伊能洋さんは、忠敬像の落成式に出席し、「蝦夷地に来るのは先祖の最初の夢。はるばる津軽海峡をわたり、この地に着いたときを思うと感無量です」と語っています。
忠敬が歩き続けることで達成した偉業。体が丈夫でなくても、固い意思で自らの足を動かし続けたことは、時代を超えても人々を魅了し続けています。
歩き続けることで、日本の歴史に名を残した伊能忠敬や間宮林蔵。戦乱の世が終わり、平和な時代が訪れた江戸時代は、彼らのような歴史の偉人だけではなく、一般庶民が娯楽として、現代人のように歩く旅を楽しんでいた時代でもありました。
「江戸のはるかなる徒歩旅」の次回は、江戸時代の一般庶民の旅に焦点を当て、どれほどの距離を歩いていたのか、現代のハイカーと比較しながら調べてみました。
トップ画像:伊能忠敬肖像画(伊能忠敬記念館所蔵)