「これまでの山の10年、これからの山の10年」をテーマに、山を守るプロフェッショナルにインタビューするYAMAPの10周年特集。お話を伺ったのは、東京都唯一の村(島しょ部を除く)、檜原村を拠点に活動する林業ベンチャー「東京チェンソーズ」の代表、青木亮輔さんです。
30年先を見据えた苗木の育成体験プロジェクト「東京美林倶楽部」など、既存の枠にとらわれない業界のアップデートに挑み続けている青木さん。日本の山と景観を守るための、次の10年で浮かび上がる林業の課題とともに、自然を愛する一般の人にも協力できる取り組みなどについて伺いました。
2023.05.05
武石 綾子
ライター
ー青木さんはもともと林業を志していたわけではなかったとお聞きしています。これまでの経歴と、自然とのつながりを教えてください。
東京チェンソーズ代表 青木亮輔(以下、青木):子どもの頃から外で遊ぶのが好きでした。特に自然や冒険へに強い憧れを持つきっかけという意味では、中学時代に映画『植村直己物語』(1986年、西田敏行主演)を鑑賞したことでしょうか。「大人になっても、冒険しながら暮らす人がいるんだ」と衝撃を受けたことを覚えています。
鹿児島大ワンダーフォーゲル部出身の親から、「(国内外で数々の功績を残していて)東京農業大学の探検部は有名」という話を聞いて、東農大の林学科に進学しました。林業との出会いはそこが始まりなのですが、当時は「とにかく探検部に入りたい」という一心でした。
探検部で国内各地の川を下ったり、山に登ったりする生活の中で、自然環境の破壊について考える場面はよくありましたね。
遠征でチベットのメコン川の源流を川下りした際には、ゴール地点にダムや街が作られていたり、豪雨をせき止めるための森林が伐採されていたり。森と共存している日本の自然の豊かさが世界では当たり前ではないということを、海外に身をおくことで実感することはよくありました。
いずれにしても子どもの頃から探検部時代まで、自然の中で活動することがめちゃくちゃ面白かった。それが自然を仕事のフィールドとする原体験になったことは間違いないですね。
ー大学での専攻というより、探検部での活動が、林業を志す原点なんですね。卒業後はどのような道に進まれたのでしょうか。
青木:探検部を続けたくて、卒業した後も研究生という位置づけで1年間大学に残って活動していました。探検部での活動に頭が支配されていたので、就職へのモチベーションはゼロです。
遠征費のためにアルバイトをする発想はあったものの、人生のために仕事をすべき、という発想は全然無くて…。
当時は就職氷河期。卒業後1年経過してから、なんとか英会話教材を販売する電話営業の職についたのですが、1年ほど勤めた後に性に合わず、結果も残せずに退職。卒業3年目にしてようやく仕事というものに向き合ったタイミングだったかもしれません。
ーそこからどのような流れで林業に入られたのですか?
青木:社会人3年目になるタイミングで、同年代の皆と同じことを後追いでやっても仕方が無いし、自分に何ができるのかあらためて考えていたんです。
そこで頭に浮かんだのが「林業」。学生時代、遠征費を稼ぐために造園のアルバイトをしていたことがあって、足袋で土を踏む感触がすごく好きだったことを思い出したんです。
「また足袋をはいて仕事がしたい。なら林業しかない」
インターネットも今ほど普及しておらず、採用情報も検索できない時代。思い立ってからは関東近辺の林業会社や森林組合に電話をかけまくりました。電話営業で培った度胸やスキルが役に立った瞬間でしたね(笑)。
ただ、どこも門前払い。「街の若者に何ができる」という感じで相手にされず、全く門戸が開かれていませんでした。
途方に暮れつつ、ハローワークを訪れた際に知ったのが、失業者を救済するために働き口を用意する「緊急雇用対策事業」。東京・多摩地区の6市町村にある森林組合が事業の対象となっていました。
もちろん迷わず応募しました。第1希望は当時から知っていた奥多摩町で、第2希望が檜原村。それが私と檜原村との最初の出会いです。
結果的に檜原村の森林組合に拾ってもらい、半年限定でしたがようやく「林業」の入り口にたつことができました。とにかく森林組合の方に仕事でやる気をアピールをして、半年だった契約期間がさらに半年延長になり、それが終了する頃にアルバイトとして採用してもらえました。
その頃が25歳。当時の現場の班長が50代半ばぐらいだったのかな。あとは65歳超のメンバーが4人ぐらい。今思えば、おじいちゃんとお父さんと、家族で仕事しているような感じでしたよね。
当時は山の現場で働けることが単純にうれしくて、毎日楽しかったです。戦後すぐに植林された人工林の間伐を繰り返して整備していくことが主な仕事でした。木々の間に光が入って山が蘇っていくことが実感でき、やればやるだけ技術が向上するし、山の仕事における所作や文化を学ぶことも新鮮でしたね。
ただ、それは若かったぼくにとっての話で、高齢の職人たちは誇りを持って仕事をしているとは言えない状態。業界全体にどこか諦めに似た空気感があったように感じました。
ー高齢化の問題も含め、業界にはどのような課題があったのでしょう?
青木:後継者不足は当時から深刻な問題でした。林業を子や孫に積極的に継がせたいと思える業界ではなかったんですよね。
私も「大学まで出たのになんで林業なんだ?」と言われたほど。林業の従事者自身が「街で働けない人たちの受け皿」という認識を持っていたんです。危険であること、雇用が不安定であることなども、そう思わせる一因でした。
人材の確保・育成のため、林野庁が2003年に「緑の雇用」という林業事業者への助成を始めたことで、少しずつ状況は良くなりましたね。若い働き手が増え、働き方も過去と比べれば改善されたと思います。
ただ、現在にも言えることですが、国の施策には予算があります。予算には期間と限度があるので、持続安定的、かつ根本的な後継者不足の解消につなげるのは難しいところです。
「待遇面を改善して若い人が安心して働ける環境を作ろう」「業界を良い方向に変えていこう」という想いで、私が29歳だった2006年、檜原村でともに林業に従事していた同年代の仲間3人と「東京チェンソーズ」という会社を立ち上げました。はやいもので17年目になりますね。
ー拠点とされている東京の山林にはどのような特徴があるのでしょうか?
青木:東京の山は全国と比較しても急しゅんで、環境が厳しいゆえに良質なしっかりとした木が育ちます。東京都は環境意識の高い自治体で、保全のための予算は高くついている方だと思いますね。各地に視察に行きますが、他と比べても東京の山は実際によく整備されている印象です。
会社の理念に含まれている「東京の木の下で」という言葉は、東京の木を扱い、東京の森をフィールドとして、「地域にしっかりと根を張った仕事をしていこう」という意思を表現しています。山地が東京ということもありますが、東京の水源地である埼玉・飯能もフィールドと捉えています。
ー創業以降、林業という業界の変化は感じますか?
青木:業界における大きな変化は、ネットでの情報発信やSNSの普及もあり、情報共有がされるようになったことですね。それ以前は各地域での取り組み、雇用の状況などが全くわかりませんでした。
「怪我と弁当は自分持ち」などと言って、良くも悪くも自己責任、かつ地域のしがらみやルールが絶対でしたから。情報が流通することで、自分たちの林業の状況を客観視できるようになったことは大きな変化だと思います。
一次産業に密接した大手含め、企業が林業の大切さに気付いたのはここ数年のことと感じています。林業って一次産業の中でも人目につかない山での仕事で、一般の人の日常生活では感じにくいし、何をやっているのか具体的なイメージがわきにくいんですよね。
もしかしたら行政にとってもそうだったかもしれない。そのせいか、国における優先順位も高いとは言えなかったと思います。
ただ、山を守ることは、森林資源や水資源の確保、土砂崩れなどの防災、ひいては生態系の保全や温暖化対策にもつながる、社会全般の公益になる活動です。環境意識の高まりもあり、教科書の話ではなく、社会的な課題として共有されるようになったと感じます。
ー良い変化の一方で、解決されていないと感じる問題はありますか?
青木:林業に限った話ではないかもしれませんが、国の政策に左右されたり、補助金に頼る体質はなかなか変革が難しく、業界の多様化が進まない要因の一つかと思います。
業界の変化に対して、国や自治体の補助金の性質や金額は変わっていません。環境保護のために森林整備は必須ですが、そのための資金を補助金だけで賄うのは難しいのが実情です。
対策として有効なのは税金なのか、もしくは企業の社会貢献活動なのか…。林業は経済性と社会性、両方の観点でニーズがあります。後者の足りない部分に対してはどのように資金をまかなうのか。それが課題です。
そういう意味では、様々な企業が社会貢献活動の一環として自然や山に目を向けてくれているのは良い流れだと感じます。
ー国土の7割が森林と言われる日本ですが、木材の供給は海外に依存しているイメージが強いです。東京の山林はどのような状況なのでしょうか。
青木:東京の山は戦後まもなく植林された木が樹齢60年、70年になってきて、高層帯には資源として必要な針葉樹、下層帯には環境のために必要な広葉樹があり、それぞれがバランスよく共存しているように感じます。
日本は世界第3位の木材消費国ですが、木材の6割を海外からの輸入に依存しています。花粉症や荒れた人工林などの影響でネガティブなイメージはまだまだありますが、木材自給率を上げるためにも、人工林である針葉樹を健全な状態に成長させることが今やるべきことだと思います。
今後は非住宅市場である公共建築物や学校などの建て替え需要などを中心に、国内の木造需要に対応できる仕組みづくりが急務です。それが今後10年の課題であり、大きく変わってくるところだと思います。
ー具体的には、どのようなことになるとみているのでしょうか。
青木:例えば流通している木材を国産材に変えようと思うと、産地に求められることは安定供給と乾燥などの品質管理力です。そう考えた際に人手不足は深刻な課題です。
今は林業の労働人口が全国で4万5000人と言われていますが、木の「育成」と「利用」が混在している林業では、労働人口がそれぞれ適正に分布されているとは言い難い状態です。日本は山が急しゅんなこともあり、林業のための作業道が拓きにくいという面もあります。
高齢化が進む中、高度な技術を保有している人材の減少も懸念点です。それらの問題と向き合うには、中長期的目線での人材育成やインフラの整備が必要です。
特に、伐採・搬出などの木材生産技術のある人材の育成や、木材の生産だけでなく、森林の管理、顧客の案内に使える作業道などを開設する技術者の育成は、国策レベルで考えていく必要があると思います。
ー木のおもちゃの製作や、ワークショップなど個人向けの事業も充実されています。一般の方に対しては事業を通じてどのようなメッセージを伝えたいですか?
青木:例えば、都心で子どもたちに向けて丸太切りなど体験の場を提供する機会がよくあります。「これは檜原村の木を切ってきたんだよ」などと話しながら木に触れ合ってもらうと、子どもも先生もなんとなく良いことをしている気持ちになるでしょう
でも、本質的なぼくらの想いは伝えきれていないと感じています。何が言いたいかというと、断片的な経験や感覚ではなく、社会生活の全体を「流域」という概念で捉えてほしいということです。
たとえば東京という地域には、多摩川という大きな流域があります。そこに住む人は、その流域で採れた野菜や魚を食べ、流域で育った山の木を使う。これらの消費は、流域に暮らす人たちの社会的な権利のようなものです。しかし、ワークショップのような一時的に木に触れ合うだけの経験だけでは実感しにくいものだと思います。
地域材を活用するときに、僕らの流域の木だと認識して使うことで、山から海まで流域全体の自然が一体であることへの理解が深まると思います。同じ流域でつながった人たちはみな仲間であり、地域の森の健全さは皆で保っていくべきものであると。
また、多くの業界・企業が自然資源を活用して経済活動を行っています。企業の環境保護活動を、特別なことをしている「社会貢献」と捉えるのではなく、流域内での自然との当たり前で対等な関係として捉え、山や森に還していくのが理想だと思います。
川から海までが近い日本では、実際に体感できる距離に流域が広がっています。これは日本の素晴らしいところですよね。もちろん、SDGs(持続可能な開発目標)やサステナビリティ(持続可能性)という発想はグローバルの視点で語られることが多いように感じます。もう少し身近な、流域というローカルに目を向けてみても良いと思いますね。ローカルあってのグローバルですから。
ー最後に、青木さんが描いている林業、そして山の未来についてお聞かせください。
青木:林業における課題について色々とお話しましたが、今の子どもたちが大人になる頃には戦後間もない時期に植えられた木が樹齢100年を迎えるわけで、それらの人工林が日本各地に広まっている状態になります。
そうなれば山の見え方が大きく変わると思います。現時点では育成中の森林が成熟することで、資源の国内供給が増えていくでしょう。日本において山と人の距離がより近いものになっていくんです。
そんな未来を見据えてよく口にしますが、映画館や美術館に行くような感覚で、もっと気軽に山や森に入っていけるような文化が根付くと良いですよね。そのために、子どもたちにもっと自然に触れる機会を作ってあげたい。
若い頃から日常的に森に入ることが、自然について考え楽しむトレーニングになり、自然を楽しむ大人が増えることが文化形成にもつながります。出張型のワークショップ「森デリバリー」や、木と親しむ体験施設「檜原 森のおもちゃ美術館」にはそんな想いも込められています。
30年後、日本各地に広がる樹齢100年の森に人が入り、触れることが文化として根付いているといいなと思いますね。そんな文化を作るために、今からできることをしたい。山と人が流域の中で共存し、自然の豊かさを保ちながら資源が循環する。そんな未来を目指していきたいですね。