この連載は「体育会系」ではない「文化系」の山登りの楽しさを広めるため企画されました。「文化系の山登り」とは、山に登る時、事前にその山の歴史や文化を知ってから登る事。そうする事で、普段なら見過ごしてしまうような何気ない山の風景にも深い意味があることに気がつくでしょう。もっと山を深く楽しむために、レッツ文化系山登り!
連載第6回目のテーマは丹沢の「大山」。江戸庶民に愛され、落語の題材にもなった「大山詣(まい)り」を切り口にその歴史を探ってみましょう。
フカボリ山の文化論|登山が100倍楽しくなる、山の歴史と文化の話 #06/連載一覧はこちら
2020.05.08
武藤 郁子
文化系アウトドアライター
関東を代表する山と言うと、丹沢山地が挙げられると思います。丹沢山地は、東京からみると、富士山までの西側の山々で、相当に広い山域です。最高峰の蛭ヶ岳、丹沢山や鍋割山、塔ノ岳など有名な山はたくさんありますが、私が連想するのは「大山(おおやま)」です。子どもの頃から遊びに行っているという身近さもありますが、なんといっても大山は、関東でも最古級の山岳信仰の中心地ですからね。文化系アウトドアライターとしては注目せざるをえない重要な山です。
そして、もう一つ。ちょっといつもと違う雰囲気のものが頭に浮かんでしまいます。それが、古典落語の「大山詣り」なのです。
落語はインドアですよね。仮にも「文化系アウトドアライター」などと自称していますから、それってアウトドアじゃないでしょ、違うんじゃない?と言われてしまうかもしれません。しかし実はワタクシ、書籍の編集者もしております。長年担当させていただいている時代小説『本所おけら長屋』シリーズは、「落語のような」と称されることも多いのですが、著者の畠山健二先生は、落語や漫才の作家としても活躍しておられたので、当然と言えば当然。
そんな畠山先生が、「なんといっても古今亭志ん朝だよ。江戸落語は志ん朝で完結している」とことあるごとにおっしゃるんです。そう聞いた私は、少しでも江戸前の勉強をせねば…と合間を縫っては志ん朝の落語を聞くようになりました。中でも「大山詣り」は好きな演目の一つです。それもあって今や「大山」と聞くと、志ん朝の落語の一節を思い浮かべてしまうんです。
さて、この「大山詣り」のあらすじはー。
江戸市中のとある長屋。喧嘩っ早くてトラブルメイカーな熊公。大山詣りにどうしても行きたい熊公は、「腹を立てたら罰金、喧嘩をしたら坊主頭にする」という約束で同行することを許される。…お詣りは無事終了。しかし帰りの宿で、案の定酔っぱらって大喧嘩。喧嘩相手に酔いつぶれているところを坊主頭にされ、翌朝置いてきぼりにされてしまう。怒った熊公は、駕籠を拾って先回りして長屋に帰り、ひと芝居打つが…。
あまり書いてしまうと野暮なのでこのあたりにしておきますが、語り口が面白いのはもちろんのこと、志ん朝さんの江戸弁がとにかくカッコイイ!
江戸の粋というのはこれか~!と、ウキウキしてしまうんですよね。このお話を聞くと当時の長屋の息遣いのようなものがとてもリアルに感じられますし、江戸の庶民にとって大山詣りが年に一度のお楽しみだったことは、よくわかります。
大山へは江戸から歩いても、行って帰って3日か4日。箱根の関所を越えないため、手形の必要もなく手軽でした。階層に関係なく信仰されましたが、江戸では特に鳶職や火消し、職人や商人に人気が高かったと言います。一説によると、当時江戸からも大山は見えたんだそうで、高いところに上る鳶職や火消しにはよく見えたのかもしれませんね。さらにもともと大山は、雨や水をもたらす神仏と考えられていましたから、火消しが信仰したのには、そんな理由があったのかもしれません。また、一部女人禁制の区域があったために、男性の夏の行楽として大人気でした。この「大山詣り」も、「大山詣りは男衆で行くもんだ」という前提あってのお話です。
今はいつでも山頂に登れますが、当時は登拝できる期間は決まっていました。特に夏の山開きのとき(旧暦6月27日から7月17日)に参詣することを「大山詣り」と言ったそうで、夏の暑さを避けて、夜に出発したと言います。当時、大山信仰は関東全域で大流行しており、各地から大山詣りに向かいました。そのルートを大山道と呼びますが、江戸市中からは両国橋東詰が出発場所でした。隅田川の水で身を清めてから、出立するのが習わしだったそうです。
上の画を見ていただくと、当時の大山詣りの理想形を見ることができます。お揃いの弁慶格子柄の着物に手拭い、袖口や片肌脱いだ体には、見事な入れ墨が覗いています。これぞ江戸っ子が憧れた「鯔背(いなせ)な」男たちですね。そして、中央の人物が担いでいるのが「納め太刀」です。この大きな木刀は招福除災を祈願するもので、大山詣りには不可欠でした。この大太刀に願いを込めて奉納したんだそうです。鎌倉時代に、源頼朝が太刀を奉納した故事に倣(なら)っているとのことですが、このように武張った風習が盛んだったというのは、いかにも将軍のお膝元、関八州の文化だなあと感心してしまいます。
さて、もう一度上の画を見てみると、太刀に「大山石尊大権現 大天狗 小天狗 大々叶」と墨書されていますね。「大山石尊大権現? 大天狗、小天狗って何?」、って思われるんじゃないでしょうか。奉納する太刀に書く文字ですから、大切なことしか書けませんよね。つまりこれが当時大山に祀られていると考えられた神仏の名前なのです(ちなみに「大々叶」は、「だいだいかのう」と読み、祈願する言葉です)。
まず、「大山石尊大権現」ですが、これが当時の大山信仰で中心に考えられていた神さまの名前です。大山は、縄文時代にまで遡れる信仰の対象でいわゆる神奈備(かんなび)山、全体がご神体です。加えて山頂にある自然石がご神体と考えられ「石尊大権現」と呼ばれていました。「権現」は「異国の神である仏教の仏や菩薩が、人々を救うために日本の神に姿をかえて現われること」を言います。これを「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説」と言い、日本の神さまは、中世にだいたいこの構造を踏まえられていて、「本体」のホトケがあり、「本地」と呼びます。
大山もこの説に当てはめて考えてみますと、「大山石尊大権現」は本地垂迹説的に表現した大山の神さまの名前ということになりますね。そして、その本地は「不動明王(ふどうみょうおう)」なんだそうです。密教では、なかなか仏法に従わない人々を、恐ろしい姿でもって導くホトケを明王と言います。不動明王は、その明王の中の筆頭の存在で、密教や、密教をベースとした修験道のご本尊として篤く信仰されています。大山も修験道の中心地の一つでしたから、本地が不動明王なのは、なるほどと思います。
しかし…。なぜ「大山石尊大権現」なんでしょうか。例えば、白山の神は白山権現というふうに、一般的には「山の名前+権現」とされることが多いので、「大山大権現」でもいいわけなんです。しかし、大山信仰は関東一円に広がり各地に勧請(分霊)され、お社が建立されたのですが、その際の神名は「石尊大権現」だったという事実を見ると、この神さまの名前は「石尊大権現」ということなんですよね。つまり、「大山石尊大権現」とは「大山にいらっしゃる石尊大権現」という意味と推察できます。
もし大山大権現であれば、大山全体の神のことを指しているように思いますが、石尊大権現となると、やっぱり石を指しているように思います。全体なのか部分なのか…と、細かい話かもしれませんが、このあたりに、大山信仰の秘密が隠されてるように思うのは、考えすぎでしょうか。ちなみに、ご神体の石は本社の中に秘されていて、私たちは拝観できないとのことなんです。そう聞くといっそう神秘的。どんな姿形をしているのか気になるところです。
そして、「大天狗 小天狗」。大山は、一方で天狗の山として有名です。古来、大山にはたくさんの天狗が棲むと考えられていましたが、その中で最も偉いのが、「大山伯耆坊(ほうきぼう)」という大天狗です。その名の通り、もともとは伯耆大山(鳥取県)の大天狗でしたが、元々相模大山に住んでいた「大山相模坊」という大天狗が、無念のあまり魔道に落ち大天狗となった崇徳上皇を慰めるために、白峯山(香川県)に移住したため、伯耆坊が相模大山にやってきたと言います。
江戸時代には、山頂の本社に並んで大天狗社、小天狗社が祀られていたとのことなんですが、現在は大天狗社は奥社、小天狗社は前社と呼ばれているようです。明治の神仏分離令により、大山も大きな変化があったためなのですが、江戸時代と今とでは神さまの名前も、奥社に大雷大神、前社に高龗神(タカオカミノカミ、水神)で、だいぶ雰囲気が異なります。
さて、天狗は日本中の山にいると考えられていましたが、中でも最強の大天狗を8人挙げ、「八天狗」と呼んでいます。相模大山の伯耆坊はその八天狗の1人で、さらにもともと住んでいた相模坊も八天狗の1人なんです。つまり、八天狗中2人が相模大山がらみってことです。天狗は、妖怪・魔物とされていますが、本来山の神であったという説があります。そう考えたら、大山に関わりのある大天狗が全国でも8本の指に入る強い存在であったことは、イコール大山の神の力もとても強いと考えられていた、と読み解いてもいいのではないかと思います。
それにしても、こう見直してみると、大山には男性らしい要素が多いですね。個人的には、実際に大山に行ってもそれほど男っぽいー強い、厳しいといったイメージはなかったので、意外です。しかし、石尊大権現はどういう神様かはちょっとわかりませんが、今、主祭神とされている大山祗大神(オオヤマツミノオオカミ)は男神で、大天狗の伯耆坊も男性です。奉納されるのは太刀ですし、お詣りする人たちも男性です。大山の中腹に在った大山寺(現在の下社がある場所)までは女性も登れましたが、それ以上は女性は登れませんでしたし、浮世絵の鯔背な雰囲気にのまれているせいかもしれませんが、男っぽい印象が、特に強いように思います。
しかし、ふとここで立ち止まります。大山の主祭神は大山祗大神で、男神です。しかし日本全体で見たら、山の神は女神とされることが多いんです。よく女性の入山を禁止するときの理由として「女性がお詣りすると、山の女神が嫉妬するから」と言ったりします。そんなことから考えると、お祀りするサイドに男っ気が強く、山頂には女性が登れなかった…という大山の状況を考えると、山頂に祀られる方は女性の神なのかもしれません。つまり石尊権現さんは女神なのではないでしょうか?
そう思いつくと、ふと閃くものがありました。
じつは「大山に登らば富士に登るべし…」という言葉があるように、「両詣り」と言って、大山と富士山へのお詣りはセットで考えられていました。なぜセットで考えられたかと言うと、富士山の神は木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)という女神で、大山の主祭神である大山祗大神の娘さんだったから、…と伝わっているのですが、この木花咲耶姫のお姉さんに石(磐)長比売(イワナガヒメ)という女神がいます。この姉妹もセットでよく語られる神々なのです。
この石長比売は、日本神話上でも最も切ないエピソードで語られる女神でもあります。
天照大神の孫の邇邇芸命(ニニギノミコト)が地上に降りてきたときに、石長比売は妹の木花咲耶姫と一緒に嫁ぎます。しかし夫に醜いと嫌われて、ひとりだけ家に帰されてしまうのです。ひどい話ですが、石長比売を返してしまったことで、邇邇芸命は有限の命になってしまいましたから、ちゃんと物語のつじつまはあっています。
妹の木花咲耶姫は美しい女神です。その名の通り花のように繁栄することを表わすのですが、花が散るように有限を表わす女神でもあります。一方、石(磐)長比売は、その名の通り「石」のように変わらぬことを表わし、永続性を表わす女神。つまり「石(磐)」を神格化した存在と考えられているのです。
もうお分かりですね? そうなんです。石長比売はつまり「石の女神」。石尊大権現も石の女神だとしたら、なんだかイメージが重なる?!と閃いてしまったのです。大山全体の神様は父神で、山頂の岩(磐座)は娘神。大きなお父さん(山)に守られた娘さん(磐座)…というイメージが頭に浮かんできます。
そんなふうに考えますと、「大山にいらっしゃる石尊大権現」という意味も、何だかすんなりいきませんか?ーと、鼻息荒く言ってしまいましたが、このような説は、見たことも聞いたこともありません。伊豆半島の大室山浅間神社や雲見浅間神社のように、石長比売をご祭神とする神社はありますが、大山にはそんな伝承はありませんから、あくまでも私の妄想です。我ながら、石尊大権現が石長比売だと言うのは、さすがに結び付けすぎだろうと思いますが、石の女神なのでは?と考えるのは、遠からずではないかなと思われてならないのです。
こういう妄想を思いつくと、私は現地に行きたくて仕方なくなるんです。でも今は新型コロナの影響で、大山に行くことはできません。しかし大丈夫になったら、この妄想を胸に、満を持して山頂に登拝したいと思います。
籠もりっきりな日々はなかなかしんどいですが、文化系アウトドア的に考えたら、次の山行への脳内準備をするために持ってこいな時間です。本やweb、これまでのYAMAPデータや写真を見返して考えるのもいいですし、私のように山にまつわる落語を聞くのも趣向が変わって楽しいかもしれません。ぜひ皆さんもこの時だからできることとして、大好きな山、気になる山についていろいろ調べたり、妄想したりしてみませんか? これからの山行への思いを、ぬくぬくと育て、温めていきましょう。
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トップ画像:『相模國大隅郡 大山寺雨降神社真景』歌川貞秀筆(神奈川県立図書館 神奈川県郷土資料アーカイブより)