アウトドアの世界で常に実験的な商品を開発し続けてきたパタゴニアが「ダウンラボ」と名付けられた新しい挑戦をはじめました。
この冬、自然界で最も軽く、最も収納しやすいインサレーションの可能性を探る実験室「ダウンラボ」から生まれたのが『アルプライト』と『ウルトラアルパイン』のふたつのシリーズ。アウトドアライターのホーボージュンさんが、未来に向けた壮大な実験に迫ります。
2021.10.14
ホーボージュン
全天候型アウトドアライター
「始祖鳥の時代から、鳥たちは大空を飛ぶために1億5000万年以上も試行錯誤を続けてきました。そうして出来上がったのがあの美しい羽根であり、フワフワの羽毛なんです」
高分子化学の専門家であり、アウトドアウェアに使われるインサレーション素材の開発スペシャリストとして知られるA博士はゆっくりとそう言った。
「そんな天然ダウンをお手本に、私たちはありとあらゆる方法で研究開発を続けてきました。しかし……。残念ながら天然のダウンを超える保温素材はいまだ完成していないと私自身は思っているんです」
博士は苦々しい顔で、しかしどこか吹っ切れた口調で僕にこう告白した。
「でも産業革命が起こったのは今から約200年前、ナイロンが発明されたのはたった85年ほど前の話なんですよ? そんなヨチヨチ歩きの現代科学が鳥類1億5000万年の歴史を超えようなんて考えてみればおこがましい話ですよね。……あっ!これはオフレコにしておいてくださいね」
そういって博士は笑い、僕は手元のレコーダーを止めた。数年前に山岳雑誌の取材で、最新のポリマー技術とダウンに変わるインサレーション素材について取材していた時の出来事である。
“人類は400年以上もダウンを利用して温かく過ごしてきました。私たちは自然界で最も軽く、最も収納しやすいインサレーションの可能性を探り、ダウンとは何であるかだけでなく、それが何であり得るかについても考え直しています”
先日パタゴニアが発表した『アルパイン・ダウンラボ』プロジェクトの冒頭に記された宣言文を読み、僕はあのときのA博士の言葉を思い出した。
そう、どんなに科学が進もうとも人類はまだまだ自然の神秘を超越できないでいるのだ。
それならばその力をどう利用すればいいのだろうか? パタゴニアはこの偉大なる素材をどう料理しようというのだろうか? それが今回の僕の大きな興味だった。
さて、まずは『アルパイン・ダウンラボ』の概要について述べておこう。
LABO(実験室)という名称から解るように今回のラインナップは非常に実験的だ。販売ルートも限定的で、生産数もそれほど多くない。用意されるモデルはぜんぶで6つ。大きくわけると『アルプライト』シリーズが4モデル、『ウルトラアルパイン』シリーズが2モデルである。
まず『アルプライト』だが、これは高所クライミングにターゲットを絞った製品群で、ハイキングやキャンプでの使用はまったくといっていいほど配慮されていない。使い勝手よりも軽さ、汎用性よりも専用性を優先させた非常に尖ったモデルである。
メンズ・アルプライト・ダウン・ジャケット | ウィメンズ・アルプライト・ダウン・ジャケット |
メンズ・アルプライト・ダウン・プルオーバー | ウィメンズ・アルプライト・ダウン・プルオーバー |
スタイルはジャケットとプルオーバーで、それぞれに男性用と女性用があるが、男女モデルではデザインも仕様も大きく違う。今回はクライミングアンバサダーの意見や考え方をダイレクトに具現化したので、男女それぞれ個別に開発が進んだらしい。実験的な試みであることがそこかも感じられる。
ウルトラアルパイン・ダウン・クルー | ウィメンズ・ウルトラアルパイン・ダウン・フーデッド・ベスト |
いっぽう『ウルトラアルパイン』はそこからさらに軽さを追求したもので、2モデル用意されている。ひとつは丸首セーターのような形をした「クルー」で、こちらはユニセックスモデル。もうひとつは「フーデットベスト」で、こちらは女性用のシルエットだ。ベストといってもハーフジップのカブリモノにして徹底的に軽量化を図っている。
さて、それではこのシリーズ、なにがそんなにスペシャルなのか? 僕らが大好きなパタゴニアの『ダウンセーター』や『フィッツロイジャケット』となにが違うのか?まずはそこから見てみよう。
一番の特長は「超軽量で必要最低限」ということだ。クライミングやアルピニズムに特化し、無駄を徹底的に削ぎ落としてある。
象徴的なのは保温ウエアにも関わらず、ハンドウォーマーポケットを備えないことだ。これはクライミング・ハーネス装着を想定してのことであり、基本的にシェルやビブの下に着込むのだからポケットは不要だろう、という考え方からだ。
唯一、女性用のフーデット・ベストだけはハンドウォーマーを備えるが、これはビレイやビバークの時にアウターシェルの上から羽織って使う場合、冷えて凍傷にかかりやすい指先を暖めたいという意図からだ。(クライミングアンバサダーのジョシュ・ワートンがダウンジャケットの上にベストを重ね着してレストしている右の写真に、そのヒントを見ることができるだろう)
じつはプロトタイプにはハンドウォーマーはなかったので、これはあとから急きょ追加された機能だろう。発売ギリギリまでリサーチ&デベロップメントが続くあたりもいかにも“ラボ”っぽい。
ちなみにフィッティングは丸首の「クルー」だけがレギュラーフィットで、それ以外はすべて細身のスリムフィットである。
ダウンウェアの要であるダウン素材には、800フィルパワーの超高品質なものだけを採用している。もちろん、強制給餌や生きたまま羽毛採取が行われていないことが保障されている「NSFインターナショナルの認証済み素材」だけだ。
高性能なだけでなく動物愛護の観点からも非常に進んだ製品だと思うが、じつはパタゴニアは本シリーズだけでなく、テクニカルなダウンウェアのすべてにこの「グローバル・トレーサブルダウン」を使用している。だからパタゴニア愛用者にとって、これはもう、それほど驚くポイントではないかもしれない。
ちなみにタウンウェアやトラベルコートなどに使われる700フィルパワーのダウンには、ダウン製品から再生されたリサイクルダウンを100%使用している。天然資源であるダウンに対するパタゴニアの姿勢はこのふたつの素材調達にはっきりと示されていると僕は思う。
外観上のもうひとつの特長は肩まわりの処理だ。じつはこの部分だけキルティングチューブが細かくなっているのだ。これは中のダウンを安定させてアーティキュレーション(ハッキリとした区切り)をつけ、肩まわりを動かしやすくしたもの。クライミングでは上腕を大きく振り上げる動作が多いのでこうなった。
同時にこの部分のダウンは身頃よりロフトの膨らみが制限されるので、そのぶん熱が籠もりにくくオーバーヒートを防ぐ効果もあるという。女性モデルはダイヤモンド型のキルティングで同様の効果を狙っている。
またよく見ると腹の横のキルティングにも斜めにステッチで区切りがされ、三角形になっている。これもダウンの片寄りを防ぎ、動きやすくする工夫である。
さらに腕もラグランスリーブ(首から脇にかけて斜めに縫製し、袖を付ける仕様)になっているだけでなく、ステッチがスラント状(斜め)になっていることに気がついた。これも筋肉の動きに合わせたアーティキュレーションで、よりスムーズに腕を動かすための試みのようだ。このようにいっけん単純に見えるキルティングだが、細かく見ると新しい試みを随所に見て取ることができるのが面白かった。
ダウンを包み込むシェルは極限まで薄いものを採用しているのだが、じつはこのシェル素材に非常に有意義な試みをしている。『アルプライト』に使われるリサイクルナイロンは、なんと南米の漁場から回収された使用済みの漁網なのだ……!
ご存知の人もいると思うが、プラスチックゴミの中でもとくにやっかいなのが漁網だ。不要になって捨てられたり、台風などで流出した漁網は頑丈で海水や紫外線にもビクともしない素材を使っているため、何十年、何百年に渡って海中を漂い、そこに生きる生き物たちを苦しめ続ける。細かい網目にかかって身動きが取れなくなる魚や、首や足が引っかかったウミガメなどの海洋生物はいったん網にかかってしまったらあとは苦しみ抜いて絶命するしかないのだ。
こういった悲惨な漁網汚染に終焉をもたらすために創設されたのがブレオ社である。ブレオはパタゴニアが出資支援しているベンチャー企業で、南米の共同体と協力して廃棄漁網を集め、洗浄、分類してリサイクルナイロンを生産している。ブレオのリサイクル素材は『ネットプラス』と呼ばれ、完全に追跡可能で100%が漁網を原料とした再生品だ。
こういったPCR(消費者使用済みリサイクル)素材はバージンプラスチックに比べると品質や性能が劣るのではないかという心配があるが、それはまったくの間違いだ。ネットプラスは製品テストと技術研究により、その耐久性や機能性、素材特性がバージンプラスチックとなんら変わらないことが証明されている。
パタゴニアは今季、10モデルにこのネットプラスを採用したが、それがカジュアルな街用ウェアではなく、アルパイン向けの高性能モデル、しかもブランドの象徴ともいえるハイアルパインのトップモデルに採用されたことに僕は驚きと感動を隠せない。これぞパタゴニアである。環境保護を最大のミッションとし、さまざまな問題に真正面から取り組むパタゴニアの“気概”を感じたのだ。
これは個人的な話になるが、僕は神奈川の海辺の町に暮らし、毎週のように海に出ている。そしてSUPやシーカヤックの時には漂流プラスチックゴミを漕ぎながら拾い、潜る時にはバケツや漁具を泳ぎながら拾い、ビーチを歩く時にはペットボトルや釣り糸を遊びながら拾う。この町ではビーチクリーンはイベントでもボランティアでもなく、日常の行為だ。でも個人がどれほど拾おうともいまの状況では焼け石に水。海洋プラスチックはどんどん海に入りこみ、海とそこに生きる生き物を殺し続ける。僕はこの問題はもう個人の良心に訴えるのではなく、もっと大きな視点、大きなアクションで取り組むべきだと強く思う。
そのひとつの答えがブレオとパタゴニアの取り組みである。『ネットプラス』がダウンラボに採用されたのは本当に意義のあることだと感じている。
9月のよく晴れた週末、僕はキャンプ道具一式を背負い、北アルプス立山連峰へテント泊登山に出かけた。僕が住む海辺の町はまだ海水浴客やサーファーで賑わっていたが、北アルプスはもう秋の気配に満ちていて、雷鳥沢のテン場から見上げる雄山には草紅葉が色づき始めていた。
浄土山から竜王岳のピークを踏み、一ノ越を乗り越えて雄山山頂から再び室堂平に向かう頃、太陽は雲海の中にゆっくりと沈み始め、気温は急激に下がり始めた。昨夜は3℃まで冷え込んだ。まだ日没前だが、3,000mの標高はやはり厳しい。
僕バックパックのポケットからアルプライトプルオーバーを出すとシェルの上にそのまま羽織った。800フィルパワーのダウンがすぐに身体を暖めてくれる。僕は1億5000万年の叡智に守られながらゆっくりと稜線を辿り続けた。そして同時に広い海とそこに生きる生物たちのことを思った。
我々人類は浅はかで無遠慮で自分勝手な存在だ。科学の力を乱用して地球環境を破壊し続けている。しかし同時に知恵と科学で地球の未来を(たとえほんの少しでも)よい方向に向けることもできる。
環境保護とアウトドアウエア、資源再生とテクノロジー、母なる海とハイアルパイン……。海抜0mと3,000mを繋ぐ服を身に纏い、僕の中で両者が繋がった。“ラボ”という名のついた今回の試みは、未来に向けた壮大な実験の幕開けのような気が僕はした。
(了)
原稿:ホーボージュン
撮影:永易量行、大塚伸(北アルプス)
協力:パタゴニア