都心から近く、標高2,000mに満たないものの,その自然環境から3,000m峰のような山岳風景が味わえる谷川岳。なかでも歩行距離約25km、谷川連峰東面の主稜線をつなぐ馬蹄形の縦走は、谷川の魅力をたっぷり味わえる、充実のロングコース。今回は、クラブツーリズムと地元である群馬県みなかみ町、そしてYAMAPが共同で企画したツアー登山に同行。みなさんに馬蹄形縦走の楽しさをお伝えします。
2021.01.14
麻生 弘毅
フリーランスライター
午前4時、10月初旬の土合登山口はきりりと冷えこんでいた。深く息を吸いこむと、体内がみるみる覚醒してゆく。ヘッドライトをつけた私達は、5人の地元ガイドに率いられて山へと踏み出そうとしていた。第一関門である白毛門(1,720m)への標高差は1,000mほど。それに加えて、周囲の森はにわかに白く煙りはじめた。
霧…ですね。
参加者のひとりがぽつりつぶやくと、女性ガイドの明るい声が返ってきた。
「キリキリ舞いしちゃいますよね!」
その言葉に、張り詰めそうになった空気がふわりとほどける。それでも、ヘッドライトに照らされた夜の森には、ある気配が満ちていた。このあたりには動物たち…考えたくないけれど、たとえばクマなどは棲んでいるのだろうか?
「でもこの人数だと、彼らのほうがクマったクマったって言ってますよ!」
打てば響くといわんばかりに、ガイドの松原美成子さんがふたたび応える。その言葉は温かくグループを包みこんだ。私達は湯桧曽川の源流をぐるりと囲む標高2,000mに迫る稜線、谷川岳馬蹄形を1泊2日で縦走しようとしていた。
白毛門への登り坂は緩みなく続いていた。今回の登山では6人の参加者に対して5人のガイドがついている。交互に配列されていることもあり、安心して歩を進めることができる。速くも遅くもない、絶妙のペースで歩きながら、適宜、休憩を入れていく。途中途中で、興味深い話を聞かせてくれた。
「白毛門の尾根はブナとクロベ、谷川岳側はブナとミズナラの木が多いんです。ちなみに、ブナの木から抽出する木(もく)クレソオートは正露丸の主成分。さらに正露丸はもともと征露丸と表記し、日露戦争の頃につくられた軍の御用薬で…」
松原さんが笑顔で教えてくれる。次第に周囲は明るくなってゆき、谷川岳のザンゲ岩が見えてきた。右手には白毛門大滝が姿を現す。標高1,200mに達する頃、朝日が昇ってきた。
「白毛門山頂の手前に見える岩がジジ岩とババ岩です」
大きいほうがジジ岩といわれるが、かかあ天下として知られる上州のことなので、大きいほうがババ岩との声もあるとか…。
ようやく白毛門の山頂にたどりつくと、朝靄の間から谷川岳の山頂をなす双耳峰、トマノ耳(1,963m)とオキノ耳(1,977m)が姿を現す。足下には、季節を間違えたのか、春に咲くはずのイワカガミがにぎやかに笑っていた。
完全に夜が明けると,私達はいつの間にか紅葉に包まれていた。ガイドリーダーの長田厚実さんによると、気温が8℃を下まわると紅葉がはじまり、一日で標高にして50mずつ下がっていくという―そんな話をうかがいながら、稜線歩きを楽しんでゆく。
登る一方だった白毛門までとは変わり、ここから先は波のような凹凸を繰り返しながら、山道はゆっくりと朝日岳(1,945m)へと登り詰めていた。右手には穏やかなウツボギ沢の源頭が広がっている。笠ヶ岳(1,852m)の山頂からは、テーブルマウンテンのような平らな山頂をもつ苗場山(2,145m)の姿がよく見えた。そして、3つのピークを従えた朝日岳、その湯桧曽川側の斜面にはみごとな秋色の絨毯が広がっていた。
周囲の景色を楽しみながら、のんびり歩いて朝日岳の山頂へ。ボリュームたっぷりのお弁当をいただきながら、長田さんに周囲の山を教えていただく。その声音にはお孫さんを愛でるような愛情がにじんでいた。
「赤城山、武尊山、日光白根山、至仏山、蝶ヶ岳、平ヶ岳、会津駒ヶ岳、中ノ岳、越後駒ヶ岳、八海山、牛ヶ岳、妙高火打山,苗場山、平標山、岩菅山、浅間山…今日はいろいろ見えるねえ」
朝日岳から北へ、巻機山へとまっすぐ延びる稜線が、とても美しい。
朝日岳から先は、それまでの山容と趣が異なっていた。豪雪地帯にある山ゆえ、標高2,000m弱ながら、3,000mの世界に彷徨いこんだようなダイナミックな稜線から、可憐なキンコウカが揺れる、池塘と草原が織りなす優雅な世界へ。かつて上越国境の要所であった清水峠には、その気配が濃厚に漂っていた。
「これはミヤマクルマバナ。明治18年、国道8号として清水峠が開通したときに、発見された種なんです」
長田さんが問わず語りに教えてくれる。こちらはジョウシュウアズマギクでこっちはオニシオガマ、そこを這っているのはチャイロヒダリマキマイマイ。いま見えるあそこの鉄塔の横には、格好のよいクマ穴があってね…。
地元の山を愛する人の言葉は、土地に深く根ざしており、聞かせてもらうこちらの胸まで温かくなる。そこには、旅人としてあちらこちらの山を歩きわたることでは、とうていたどり着けない厚みがある。
七ツ小屋山への登りは笹原に囲まれている。そこに風が吹き渡ると、草原が波のようにうねった。やがて霧が出たかと思うと、今度は雲間から夕日が差す。草原が金色に照らされ、そこにひと筋の風がると、現実感が遠のくような神々しさが立ちのぼった。
ああ…。
グループの間にため息が漏れる。振り向くと、これまで歩いてきた朝日岳の稜線を背後に光の人型―ブロッケン現象が現れていた。
蓬ヒュッテに泊まった翌日は、谷川岳の山頂を踏まずに旧国道(清水街道)を通って下山した。元々のコース設定では馬蹄形を完全縦走し、天神平から谷川岳ロープウェイで下山する予定だったが、2020年9月の豪雨により、ロープウェイは運休していた(その後、10月28日より再開)。
馬蹄形の縦走は全長25km近くにわたり、累積標高差が6,000m近くある。また、営業小屋がロープウェイ近くの肩の小屋と蓬ヒュッテしかないため、土合~蓬ヒュッテ間の歩行時間がどうしても長くなってしまう(コースタイムで9時間ほど)。そのため、馬蹄形の縦走はなかなか敷居が高く、ここを案内するツアーは少ないという。
「そういう背景もあって、憧れのコースでした。紅葉のタイミングもよかったし、残りは自力で歩きたいと思います」
参加者の小川さんはにこやかにそう話してくれる。
旅のご褒美は,ガイドの長田さんが特別の水だと太鼓判を押す「ブナのしずく」だ。
「ここの水は沢水ではなく、上に広がるブナ林が醸した湧水なんですよ」
おいしい水をいただいてひと息つく。色づく森には、ひと足早い冬の気配が漂っていた。
ガイド・長田厚実さん
谷川岳を登り続けて53年になりますが、ハイキングから縦走、岩登りまで、あらゆるレベルの登山者の要求に応えられる希有な山だと思います。なかでも馬蹄形は、樹林帯や岩場、草原や池塘など、地形の変化に富んだうえに展望にも優れる、すばらしい縦走コースだと思っています。山好きならぜひ一度、挑戦して欲しいですね。
ツアー参加者の声
大島さん
今回はガイドさんが5人ということで、至れり尽くせりのフォローをしてくださり、安心して登山を楽しむことができました。谷川岳の山頂を踏めなかったのは残念ですが、普段歩けないような長いルートを歩くことができ、満足です。
千種さん
朝日岳からの下りで、それまではずっと左手に見えていた燧ヶ岳が正面に見えました。3年前に登ったこともあり、その景色が印象的でした。谷川岳や一ノ倉岳のネームバリューが強いですが、馬蹄形のバリエーションに富んだ景色はすばらしい。稜線歩きの楽しさを満喫できました。
谷川岳山岳資料館
谷川岳ロープウェイ駅のすぐ隣にある谷川岳山岳資料館。登山黎明期から数々のクライマーに愛されたこの山の歴史、ヒマラヤ登山の資料などが収められている。スタッフの馬場保男さんは、谷川岳山岳警備隊長を長年勤めるなど、谷川岳に精通。不安なことなどがあれば、ぜひ、訪ねてみて。
住所/〒379-1728 群馬県利根郡みなかみ町湯桧曽
電話/0278-72-6446
谷川岳ドライブイン
谷川岳ロープウェイから水上へと向かう一本道・国道291号線沿いにある、山に最も近い食事処。谷川岳の登山道開拓者でもある中島喜代志さんのご一家がつくる心のこもった食事が自慢。上質な赤城牛を溶岩プレートで焼き上げた「赤城牛ステーキ御膳」(1,980円)が人気。地元のりんごを使った蒸しケーキ「谷川の月」(130円)は行動食にも最適。
住所/〒379-1728 群馬県利根郡みなかみ町湯桧曽220
電話/0278-72-5222
原稿:麻生弘毅
撮影:宇佐美博之
協力:環境省・みなかみ町観光協会・クラブツーリズム株式会社