アメリカのジョン・ミューア・トレイルの山旅から4年——。登山好きとしても知られるフリーアナウンサーの大橋未歩さんが、ニュージーランドの北島にあり、美しい山容で知られるエグモント山を周回する「アラウンド・ザ・マウンテン・サーキット」を歩いた“旅の記憶”を綴ってくれました。連載第1回は、出発前から始まっていた大波乱の旅の予兆について。どんな旅がスタートするのでしょうか。
大橋未歩のニュージーランド海外トレイル体験記/連載一覧
2023.02.28
大橋 未歩
フリーアナウンサー・"歩山"家
夫が10年勤めた会社を辞めた。
脱サラ後の第一関門である保険や年金の切り替えに追われて、彼は坊主頭に小さなニキビを増殖させている。しかし、私はそんな夫を横目に心の中で小躍りしていた。
これでまたあの旅に行ける。
私たち夫婦の長期休暇は5年前、私が脱サラした時に遡る。せっかく15年勤めた会社を辞めたのだから、組織の歯車から逸脱したことを実感したい。そして社会人として背徳感を覚えるくらいの長い休みに身を浸したい——。そこで夫から提案されたのが、ロングトレイルという旅だった。
その舞台はジョン・ミューア・トレイル(以下JMT)。ハイカーの聖地とも呼ばれる、アメリカのカリフォルニア州シエラネバダ山脈を歩く全長340kmのトレイルだ。夫は新婚旅行というカードを切り、会社から2週間の休みを獲得した。そうして私たちは計10日間で約120kmを歩く旅を敢行したのだ(ジョン・ミューア・トレイルの旅の様子はこちら)。
人生で初めてのロングトレイルに魅了された。
メイクもできない、電波もない、熊の存在に怯えながら歩き続ける長い長い道。照りつける日差しの中、衣食住の全てを背負って歩くという旅は新鮮だった。他人の視線から解放され、自意識で自分をがんじがらめにする必要もなくなっていく日々に、得も言われぬ心地良さを感じるようになっていた。
しかし旅には終わりがある。帰国して顔を厚く塗装し再び働き始めると、またあの日々が、夜が明けたら歩いて日が暮れたら眠った日々が恋しくなった。
そして5年の時を経て、夫の脱サラにより二度目のチャンスが来たのだった。
かくして私たちは2022〜2023年の年末年始に10日間の休みを確定させ、旅に出かけることになった。夏ならJMTの続き、冬なら南半球のニュージーランドと決めていた。なにせニュージーランドは山歩き大国だから。
ニュージーランドでは、山歩きのことをトランピング(Tramping)と呼ぶ。トレッキングやハイキングよりも、“荷物を背負って長い距離を歩く”イメージが強いらしい。
北島に3つ、南島に9つ、南島のさらに南にポツンと浮かぶスチュアート島に1つ、計13か所の国立公園を中心に、初級から上級まで無数のルートがあり、トランピングはとても盛んだ。中でも人気が高いのがGREAT WALK(グレート・ウォーク)という自然保護省が設定した10本のトレイル。雄大な自然と整備された登山道が共存し、世界中からハイカーが集まる。
そして最も名高いのが“世界一美しい散歩道”と呼ばれる「ミルフォード・トラック(Milford Track)」だ。南島フィヨルドランド国立公園にあり、氷河によって彫られた谷に沿って、古代の熱帯雨林と滝を通る。360度どこを向いても絵葉書のような景観が広がるが、特に山肌から真下に勢いよく滝が流れる光景は圧巻だとか。
このトレイルの全長は53.5km。1日10km歩けば5日で歩き切ることができる。5日なら大丈夫だ。
私が山にテント滞在出来るのは5泊6日が限界だということをJMTで思い知っていた。
フリーズドライ生活5日目の晩、肉汁溢れるハンバーグが夢に出てきた。この世にハンバーグがあることを思い出してしまって以降、翌朝から雄大な花崗岩の岩肌模様にハンバーグの合い挽き肉を重ねるようになり、その残像に心を掻きむしられ最終的にルート変更し一旦下山したのだ。
食べ物の夢を見て、心がザワつくなんてことが自分の人生に起きるとは思っていなかった。歩いてみて初めてわかる事がある。
ということで、6日目には肉にありつける「ミルフォード・トラック」に決めた。
ニュージーランドのトレイルを歩くには予約が必要だ。早速、同国の自然保護省(通称DOC=Department of Conservation)のHPで検索する。
ワクワクしながら「ミルフォード・トラック」の宿泊予約をクリックするも、規則正しく並ぶ「#」印が視界に飛び込んできた。「#」はFull or unavailable for number of people searchedとある。「満員又は利用不可」。一瞬でここには行けないことを悟る。JMTと同じく人数制限が厳しいのだ。
残念ではあるけど、国を挙げての環境保護への気概を感じてこちらも背筋が伸びる。ハイシーズンである10〜4月の予約は6月後半くらいに開始されるそうだが、開始10分ほどでほぼ満員になるらしい。2ヶ月前に予約を試みる我々の青さたるや。
ふと時計を見ると午前3時を回っていた。いつもならとっくに寝ている時間なのに旅の準備となると何故こうも時間が経つのを忘れてしまうのだろう。淹れたコーヒーもすっかり冷めてしまった。ソファから移動して布団にくるまるけれど、結局枕元でiPadを開く。
次の狙いは南島の北端エイベルタスマン国立公園にある「エイベル・タスマン・コースト・トラック(Abel Tasman Coast track)」。こちらもグレート・ウォークの1つだ。こちらは海を楽しむトレイルというのに惹かれた。
南太平洋を望みながら金色のビーチを歩き、干潮時しか渡れない場所を通るのもアドベンチャー要素があり魅力的。岩場にはオットセイが寝ていることもあるらしい。なにより砂浜にテントを張って、寄せては返す波の音で目を覚ましてみたい。
しかしこれまた人気ルートで、ほとんどのテント場の予約は既に埋まっていた。いよいよ疲れてきたのか、頬の毛穴がぱっかりと開いてくるのを感じる。「Mosquito Bay Campsite(蚊の海辺のキャンプ場)」にはまだ空きがあるらしいが、名前でひるむ。蚊が大量発生する場所に違いない。さらに、アクセスは陸上トレイルでもなく水上タクシーでもなく、プライベートボートのみ。帰りのフライトも取ってしまっているからリスクが高い。
窓の外から聞こえる鳥の囀りが喧しい。空が白んでいる。時計を見ると6時を過ぎている。朝を迎えてしまった。慣れない英文を読み続け頭は重いのに、目はギンギンである。グレート・ウォークは一旦諦め、他のトレイルを中心にもう一度注意深く見てみる。
目に留まったのが「アラウンド・ザ・マウンテン・サーキット(Around the Mountain Circuit)」。山をぐるっと一周するトレイルだ。北島エグモント国立公園にある休火山・エグモント山(マオリ語で「タラナキ山」とも呼ばれる)を周回する。山の標高は2,518m。ほぼ同じ火口が何度も噴火し、堆積した溶岩によって出来た山らしい。トレイルはその周辺52kmにわたって伸びている。
だから山の形は円錐になっていて、広大な裾野が扇のように広がり、遠目から見ると美しい二等辺三角形。どこかで見たなと思ったら、そうだ富士山だ。映画「ラスト サムライ」で富士山として登場したのがこのエグモント山らしい。
ルートの一部はシダや苔で覆われた鬱蒼とした熱帯雨林になっている。山の頂上を目指さないで、周回するのも面白いかもしれない。火山の荒々しい岩肌から原生林に充満する緑の匂いまで、1つの山が持つ多様な表情を味わい尽くすのもいいなと思った。
よし! ここに行こう!
初日の晩に泊まるテント場だけは事前予約が必要で、大人1人5ドルだった。
ルートが決まり安堵したのも束の間、夫からの一言。
「食糧計画は任せたよ」
5泊6日の山歩きに持っていく食料の準備を私に任せるというのだ。
緊張が走る。夫は私より登山経験が断然豊富。経験の浅い私を育成しようとしている節もある。万が一変な食料を揃えたが最後、選んだ理由を述べさせられて、商品ごとに理路整然と諭されていくに違いない。
そういう時の夫は声を張らないから余計に恐ろしい。夫婦旅とて容赦ない夫の姿勢は、もちろん山の怖さを知っているからだ。自分の選択の一つひとつが命の危険に直結することを、登山経験から肌で知っている。そして説教の最後に子どもに飴を差し出すように付け加えるのは決まってこの言葉。
「遊ぶなら本気で遊ばなきゃ」
そう、私だって本気。だから前回の旅からの成長を見せるつもりでいる。数日にわたる縦走で肝要なのは、カロリーと重量(食料と燃料)と楽しさの三角形をどう作るか。安全に旅するためにはハイカロリーで軽いに越したことはないけど、美味しくて温かい、そう、楽しい食卓にもしたい。
お湯を注げば食べられる炊き込みご飯などの王道系を一通り揃えてからスーパーに飛び込む。目的地は蕎麦コーナー。持って行くには少し重いけれど、大晦日は年越し蕎麦でフリーズドライ生活に彩りを加えるのだ。
「十割」や「信州」という魅惑ワードに手を伸ばすも、私はすぐにそれをひっくり返して裏を睨み付ける。どれも茹で時間は5分か6分。
時間がかかりすぎる——。
湯を5分間も沸騰させ続けるには相応の燃料が必要だ。ガスにしてもアルコールにしても固形燃料にしても、燃料は重い。フリーズドライの軽量な食料を選んでも、その調理にたくさんの燃料が必要だとしたらほとんど意味がないのだ。登山用の食品は沸騰した湯を注いで待つだけのものが大半。ただでさえ重い蕎麦を持っていくのなら、とにかく茹で時間を短くしなければならない。
パタパタと商品棚のそばをひっくり返すこと30秒。私は更科蕎麦と出会った。茹で時間は驚異の3分。私の成長ぶりに目を細めた夫の顔が浮かんでニンマリする。戦利品を得意気に買い物かごに突っ込んだものの、まさかこの蕎麦を茹でることもなく、生のまま齧(かじ)ることになろうとは…。それはまた後ほど。
その晩、かき集めた食料を廊下に並べて夫の審判を待った。
夫は計算式を見るような目線で食料達をとらえた後、理性というものを全面に押し出すように極めて抑えた声量で言った。
「ちょっと整理させて。えっと、君は1日何食のつもりでいるの?」
「そっからですか⁉︎」という心の声はぐっと飲み込んだが、動揺が止まらない。私は夫から信頼されたいのだ。一番身近な人からの全幅の信頼が欲しい。パートナーとはそういうものだろう。だからこのテストを一発で合格したい。
呼吸を整えて、前回の旅で学んだことを思いつくままに羅列していった。燃料も時間も勿体無いから火を使う食事は1日2食であとは行動食で賄う、朝はコーンスープと炭水化物系のフリーズドライ。コーンスープにはクッキーを入れてカロリーを補充する、行動食は私は羊羹であなたの煎餅も大量に買った、すぐエネルギーになるハチミツも大量に持った、夕飯はほら見て蕎麦はちゃんと茹で時間が短いものにしたし蕎麦の茹で汁が勿体無いからスープも買って一緒に飲めばお腹もいっぱいになるし……
「いや全然足りないでしょ。」息継ぎのタイミングで夫に遮られた。
確かに数え直してみると、私の旅は3泊と4日目の朝で終わっていた。
なぜだ? なぜこうなった??
スリーピングマットのせいだ。
今回の旅は寝袋の下に敷くマットを新調した。
悩みに悩んだあげく、大枚をはたいて購入したスリーピングマットは、EXPEDのシンマット ハイパーライト デュオ。頬擦りしたいくらい気に入っている。このダブルサイズマットの寝心地が今回の旅の楽しみの1つでもあった。
空気を入れると7cmの厚みがあるから背中からの底冷えが防げるし(JMTでは底冷えがひどすぎて、幽体離脱のギャグかのように一度夫の上に寝ようとしている)、何より柔らかくて快適だ。どうしても山に暮らすように歩きたい私は、テントの住環境にとにかくこだわりたかったのだ。
そうはいっても重さに対する罪悪感があった。その重量は910gで私たちにとっては少々重い。JMTで使っていたマットは113gである。どこかで帳尻を合わせようとした結果、無意識のうちにその矛先が命同然の食料を削るという、誤った方向に向かったのだった。
夫の指摘が無ければどうなっていたんだか。今までどれだけ薦められても、ソロハイクだけは頑なに避けてきた私の選択は案外正しかったんだなと、妙な感心をしてしまった。
こうして食料を追加し、ニュージーランドでフリーズドライ食品も買い足すことを見越しつつ、パッキングを終えた私のバックパック重量は13.6kg。前回のロングトレイルから4歳年を取ったがバックパックは3kg重い。前回は夫が初心者の私を気遣ってバックパックを軽くしてくれたのだ。だから彼の荷物は20kgを超えた。でも今回はある程度私に預けてくれた。それが何故だかとても嬉しかった。
出発日当日を迎えた12月28日の成田空港、私達は浮かれて互いに写真を撮り合っていた。顔出しパターンと、夫が新調したZpacsのバックパックを主役にした後ろ姿パターン等々、各種撮り終えた。成田→オークランド→ニュープリマスのエアチケットを片手に意気揚々とオートチェックイン機へ。
しかしパスポートをかざすと目を疑う文字が。
「ビザの登録がありません。あなたは受付できません」
ビザ!? ニュージーランドにビザがいるの!?
私たちはごくりと唾を飲み込んだ。結局、その場でNZeTA(電子渡航認証)を取得しことなきを得たものの、これは何かの予兆だったのか、その後、人生で初めてのビバークを体験することになる。
そして、その冒険の先には、必ずピアがいた。山小屋で、分厚い本に目を落とす美しいチリ人女性ピア。
そんな旅に少しの間お付き合いいただけたら嬉しいです。
(続く)