米国3大トレイルを踏破し、現在は西伊豆に暮らすハイカーの河戸良佑さん。伊豆半島の南端の海と山の絶景からなる「伊豆トロピカルトレイル」を紹介してくれた前回に続き、今回は伊豆観光のついでや家族連れでもトレイルの魅力に気軽に触れられる「岩地歩道」のほか、とっておきのサンセットポイントなどを教えてくれた。
2023.09.25
河戸 良佑(かわと りょうすけ)
「HIKER TRASH」ディレクター
伊豆半島の南端、南伊豆にある「伊豆トロピカルトレイル」を前回(海から山、また海へ|南伊豆トレイルで感じる絶景のリズム)の企画で歩いたハイカーの河戸良佑さん。「実は、伊豆の絶景と歴史文化が凝縮した入門コースもあるんです」と誘ってくれて向かったのは、次に提案するトレイルのスタート地点、岩地歩道の入り口。
穴場のビーチに始まり、海からせり出した山の頂で夕陽や富士山を拝んでゴールとなる今回のトレイル旅で、国内外で「歩く旅」を続けてきた河戸さんが、伊豆のトレイルに魅了されている理由が見えてきた。
コース情報
体力度:1(5段階中)
時間:約4時間20分
距離:6.8km
累積標高差(登り):730m
累積標高差(下り):790m
モデルコースの詳細:岩地新道〜烏帽子山サンセットトレイル
伊豆半島の南西部に位置する港町、松崎町。街から海沿いを南に進んで小さな峠を少し登ると、下田方面をつなぐ東海バスの萩谷バス停がある。
1時間に1本ほどの時刻表がついた、1本の柱だけの簡素なバス停。その目の前には、車を5台ほど停められる広場があり、ここが今回のハイキングの始点。約40分弱で一周できる岩地歩道の入り口だ。
海水浴シーズンには多くの人が押し寄せるが、海開き前の西伊豆のこの場所を歩く人は少ない。
僕はバックパックを背負い空を見上げた。雲一つない青空を一羽のトンビが旋回しながら地に這いつくばる僕を見下ろしている。
岩地歩道を歩く前に、この場所から萩谷の岬を周回するトレイルが僕は好きなので、まずはそちらを歩くことにした。
歩き始めるとすぐにアロエの群生が僕を出迎えた。その脇には古い石積みの段々畑の跡が続いている。トレイルは細いが綺麗に整えてられていて歩きやすい。
太陽がさんさんと降り注いでいた道は、すぐに木々が生い茂る下り坂になった。足元が滑らないように注意しながらリズミカルに坂道を駆けていく。すると突然視界が開け、眼下に壮大な海原が現れた。
駿河湾からの気持ち良い潮風が抜けていく。トレイル脇には背の高い笹が生えていて、その2mほど先からは切り立った崖になっている。転落すると助かりそうにないが、落下防止のロープがしっかりと設置されていた。
太陽の光を海原がいっぱいに浴びて煌めき、波のさざめきが遠くに聞こえる。その美しい光景に目を奪われながらゆっくりと歩く。少し行くとこじんまりとした展望台に辿りついたので、少し足を止めて景色をじっくりと見ることにした。
目の前には長い水平線が伸びていて、その先には海に急峻な西伊豆の山脈が連なっている。
その中に一際目を引く、急勾配の烏帽子山(162m)が見えた。そこが今回の旅の終着点であるが、果たしてあのような急峻な山を登ることができるのだろうか。
海を背にして、この先の萩谷海岸を目指し、再び森の中のトレイルへ潜っていく。シダが生い茂る階段を下っていくと3mほどあろう笹が群生する。一本の木製の橋がその中を割って伸びていた。シダの塀の先には青い海と濃い緑の山が小さく見える。
それはまるで一枚の絵画のようで、僕は別の世界に吸い込まれるような感覚で足をすすめた。
笹林を抜けると一面小石の浜が広がり、そばにはひっそりとあずまやが佇んでいた。僕は波打ち際でバックパックを下ろして座る。
小さな湾になっている海は穏やかだ。気持ちの良い風を感じながらエナジーバーをかじって、水を飲む。波が石を優しく撫でる音を聞きながら、ただゆっくりとした時間を楽しむことにした。
どれくらい時間が経ったのだろう。長かった気もするが、ほんの一瞬だったかもしれない。僕は再び歩き出すことにした。
海岸には一ヶ所鎖場があるが、ちょうど干潮時であったので、その脇を普通に歩くことができた。再び森に戻ると再び石積み段々畑が現れた。
さきほどより、その段が幾重にも上まで続いている。そこに植物が力強く絡み、鮮やかな緑の葉を生やしていた。
その景色はどこか荒廃した遺跡を彷彿させる。まるでその場所を探索しているような気持ちになり、高揚してトレイルを駆けた。
するとあっという間に歩き始めた岩地の広場に戻ってきてしまった。
萩谷を後にして舗装路を少し歩くと脇に階段があり、すぐに少し荒れたトレイルが始まる。岩地の集落を背にどんどんと登っていく。
そして、かつての生活路であったトレイルを辿りながら、萩谷のバス停から約2km南に位置する石部の集落へ向かった。
石部には漁港があるだけでコンビニエンスストアはおろか小さな商店もない。その補給の不便さが旅情を醸し出し、どんどん前進しようという気持ちにさせる。
僕はすぐに石部の細い路地を抜けてトレイルに戻ることにした。ここから終点の雲見までは20分弱であっという間に到着してしまう。だからこそ、残りの時間は存分に楽しもうと決めた。
石部の次の集落である雲見に向かって下る途中に、ふとトレイル脇が気になった。今までずっと左右に木が覆いかぶさるように生えていたのに、この場所だけ少し開けていて違和感を覚えたのだ。
その先に何かあるように思えて、目の前にある大きな岩を回って奥へ進んでみる。すると急に薄いオレンジがかかった巨大な岩壁が出現した。
よくみると不自然な黒い影が見える。近づいてみるとそれは岩壁に開いた大きな空洞なのがわかった。
しかも洞窟という雰囲気ではなく、人工的に切り取られた空間で、そこだけ不思議な力によって消失してしまったかのような、異質で奇妙な感じがした。なるほど、これが江戸城の建築のために使われた石切場であることはすぐに分かった。
巨大な古代遺跡のような空間に圧倒されて、しばし呆然とする。さらに奥にはいくつもの空洞がある。一体どこまでこの石切場は続いているのだろう。
かつて、この場で沢山の職人たちが「エイヤエイヤ」と声を掛けあって凝灰石を切り出している姿を想像し、自分もその一員になった気持ちに浸って楽しんだ。
石切場からは道路の脇のトレイルを進むとすぐに雲見の町が見えてきた。町に降りるとすぐに民宿が軒を連ね、そこを縫うように進む。
趣ある建物を眺めながら歩くと「とばやストアー」という薬屋に着いた。僕の知人の親族が経営している店なので、僕は以前からこの場所を知っていた。そして、この薬屋が今回のトレイルの重要ポイントであると僕は考えていた。
松崎の街から古の生活路を繋いで歩いてきた今回の旅。ここにきてやっと補給ポイントに到達したのだ。
ただの薬屋に見えるが、ここはそんな単純な店ではない。店内に入ると、食料から生活用品、もちろん薬剤も揃っている。
さらに驚くことに、ここには生簀(いけす)があり、鮮魚も販売しているのだ。
なぜこうなったかはとても興味深い。昔はこの地域の人たちが身近に通える薬屋がなかったため、魚屋だった店主は薬種商の資格を取得して薬を販売しはじめたのだ。
そんなディープなストーリーを持つ「とばやストアー」で食料補給をすることこそが、西伊豆の暮らしや文化を知れるこのトレイルの楽しみ方なのではないだろうか。
店でアイスとコーラ、そしてガスの切れかけていたライターの替えを購入する。アイスはその場で開封し、食べながらのんびりと今回の旅の最終地点である烏帽子山に向かう。
烏帽子山は標高160mほどしかないが、雲見の海岸から突如空に向かって突き出た姿はとても巨大。遠くから見るとロッククライミングでもしないと登れないのではないかと思うほどに急峻だが、近づくにつれて一般のハイキング装備で問題なく登れるルートだと分かり安心する。
しかし山頂の雲見浅間神社へ続く石段はあまりにも急で、目を細めてもその先が見えないほどだ。
このような登りは心を無にして、ただ右足と左足を交互に動かすのみだ。あとどのくらいで頂上に着くかなど考えてはいけない。ただひたすらにリズミカルに、そして足に蓄積する疲労を楽しみながら進むのみだ。
いくつの石段を登ったのだろうか、気がつけば地面を木の根が縦横無尽に這っているトレイルになっている。木の根につまづかないように気をつけて進むと、雲見浅間神社の本殿が現れた。その脇には本殿よりも大きな巨石があり、登るための階段が作られていた。
その階段を登って岩の上に躍り出る。目の前の西伊豆の海の壮大さに圧倒されて鳥肌がたった。そこから北を見るとスタート地点だった岩地が見えていて、その先には富士山がそびえて美しい。
日本神話では、ここに祀られている磐長姫命(いわながひめのみこと)は富士山をご神体とした浅間神社に祀られている木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の姉。二人は天照大神の孫に嫁いだが、磐長姫命は容姿が悪いために里に返されてしまった。
そのことで姉妹には確執が生まれ、富士山をほめると怪我をするという言い伝えがある。
だから、富士山が美しいと思う気持ちは声にはせずに心に留めて、ただ美しい自然を静かに眺めていた。
日の入りが近づき、刻々と赤く染まっていく空と海をただ眺めていた。そして今回の旅の充実感を味わいながら、同時にこのままずっと南伊豆まで歩きたいという欲望を抑えることにした。
僕は沈みゆく太陽が今回の旅の終わりを告げているようで少し寂しさを抱いた。ただ、自分がなぜ伊豆のトレイルを歩き続けているのか、この夕陽を見て分かったような気がした。
烏帽子山の詳細:往復モデルコース
写真撮影:宇佐美博之
文・イラスト:河戸 良佑