山小屋で携帯電話が自由に使えたら…安全登山に役立つだけでなく、様々な活用方法が実現するのではないでしょうか。今回はKDDIがサービスを提供し、2024年には100箇所以上の山小屋で利用可能になった「山小屋Wi-Fi」について、ユーザーとなる登山者や設置している山小屋へ実際に取材を行い、そのメリットと可能性を実感。KDDI担当者の「山小屋Wi-Fi」へ込めた想いも紹介します。
2024.10.15
鷲尾 太輔
山岳ライター・登山ガイド
かつては圏外が当たり前だった山の中も、近年は電波が届きやすい稜線を中心に通話可能エリアも増えてきました。しかしながら谷間では圏外エリアが多いのも事実です。
そこで、今回の記事では、携帯電話が山の中で使えたらやってみたいことや、携帯電話が使えるからこそできたことなど「繋がる」ことのメリットを、北アルプスで出会ったYAMAPユーザーのみなさんに取材してみました。
伊原さんご夫婦:携帯電話が使えて楽しい面としては、目の前の絶景をInstagramにリアルタイムで投稿できることですね。テント泊で長期縦走する場合、圏外エリアが多いので下山してからの投稿が多くなってしまうので…。
安心面では、最終日の下山時だけでなく、各行動日にテント場へ到着した時にも家族に連絡できること。LINEメッセージのひと言だけでも、元気に登山を続けていることを知らせることで家族も安心するはずです。
岩崎さん:まず考えられるのが、利便性の向上ですね。マイカーで遠征して縦走する場合、下山したゴール地点からクルマがあるスタート地点まで、タクシーで戻っています。もし下山途中の山中から、ゴール地点への到着時刻を予想してタクシーを呼ぶことができれば、タイムロスがなくなります。
安心面としては、やはり気象予報サイトなどの各サービスにすぐアクセスでき、情報収集できることが挙げられると思います。
小林さん、山田さん:安心面としては、トラブル時の連絡がスムーズにできることですね。以前の登山で同行者の足がつってペースダウンしてしまった際に、通話圏外で山小屋へ到着遅れの連絡がすぐにできなかったのです。
その時は、自分だけで通話可能な稜線へ移動してようやく連絡できましたが、同行者をその場にひとりで待たせることになってしまい、とても不安でした。
登山ガイド・石島竜平さん:楽しいというか嬉しい面として、家で待つ家族とコミュニケーションに役立つことが挙げられます。登山ガイドという仕事柄、夏はずっと家を留守にしているのですが、まだ2歳半の子どもとテレビ通話で会話しながら、成長を見守ることができるのは、とても助かります。
安心面としては、やはり天気予報などの情報収集ができることですね。お客さんの生命を預かるプロとして、長い区間で通話圏外だと、天候悪化を予想した進退判断が難しくなってしまいますから。
今回取材した登山者の皆さんが語ってくれた希望を叶える画期的なサービスが、アメリカ・スペースX社の通信衛星サービス『Starlink(スターリンク)』を利用した、KDDI株式会社の「山小屋Wi-Fi」です。
「山小屋Wi-Fi」が設置された山小屋であれば、携帯電話の圏外エリアであってもデータ通信が可能で、auユーザーなら、なんと「無料で利用」できます。他キャリアのユーザーは有料ですが、低額(2時間300円・24時間600円)で利用可能なとても便利なサービスです。
ここからは、2024年夏山シーズンから「山小屋Wi-Fi」を導入した北アルプス・双六小屋で、実際に利用者の声を聴いてみました。
宮本さん:僕はauユーザーですが、「山小屋Wi-Fi」は、今回初めて知ったサービスです。小屋のスタッフさんにやり方を聞いて、簡単に接続できました。
日本百名山を完登しているのですが、特に長期間の縦走では日々変化する天気情報の取得が重要になってきます。これまで繋がらないストレスを感じてきたので、今後は積極的に利用したいですね。
今日ここまでの道のりも、この場ですぐにInstagramへ投稿することができて、とても便利でした。
ふじさん:auユーザーで到着後に小屋の周辺を散策してみたのですが、どこも繋がりにくく、あきらめかけていました。auユーザーなら無料で利用できるとのことで、談話室にあったマニュアルを見ながら設定中です。
繋がったら、留守宅に小屋への到着を連絡するつもり。双六小屋には明日も連泊するので、なおさらありがたいですね。
上田さんご夫婦(ご主人):auユーザーではないのですが、明日以降の天気も気になるので利用してみました。
自営業なので、仕事に関する連絡に返信ができないと取引先へ迷惑がかかるのが心配。事前に調べたキャリアの通話可能エリア情報だと双六は微妙な場所でしたが、実際は圏外だったのでビジネスメールのチェックもでき、有料でも価値があるサービスだと感じました。
上田さんご夫婦(奥様):山小屋って到着してから夕食や消灯まで、意外と時間がありますよね。私は好きな動画を見たりしながら、山小屋での時間を充実させています。
このように多くの宿泊者から喜ばれている「山小屋Wi-Fi」によって、顧客満足度の向上に手応えを感じているのが、双六小屋の他に鏡平山荘・わさび平小屋・黒部五郎小舎を運営する双六観光有限会社の代表取締役・小池岳彦さんです。
小池さんにお話を伺う中で、「山小屋Wi-Fi」によって、山小屋の運営においても多くのメリットが生まれたことがわかりました。
小池岳彦さん
ーー私たちが運営する4軒の山小屋は、わさび平小屋はブナ林が広がる谷間、鏡平山荘は弓折岳の中腹、双六小屋は双六岳と樅沢岳(もみさわだけ)の鞍部、黒部五郎小舎は黒部五郎カールの底(そこ)と、様々な立地条件に位置しています。
鏡平山荘以外の他の3つの小屋は電波が悪く、これまでは、営業無線や衛星電話を駆使して苦労しながら連絡をとっていました。ここ数年で、電波改善があり携帯電話も使えるようになったのですが、キャリアが限定されますし、天候等の影響で通信網が故障し使用できない時期もあり、安定した通信環境とは呼べませんでした。
それが「山小屋Wi-Fi」の導入によって、安心感が増しましたし、実際今年はトラブルなく安定した通信環境で使えています。何よりキャリア問わずで使えるのでありがたいです。
ーースタッフは、実家の家族や麓の友人などと頻繁にコミュニケーションをとれるようになったと喜んでいます。シーズン中も週に一度は休日を設けているのですが、「山小屋Wi-Fi」のおかげで、たとえ雨の日でもスマートフォンを見ながらの自由な時間を楽しんでいるようです。
双六小屋が、まったくの圏外だった時代には、ひとりがスタッフ全員の携帯電話を預かって比較的電波状況が良好な樅沢岳近くまで朝一番に登って、メールを受信していましたが、今となってはすっかり昔話になりましたね。
ーーフロントや談話室には「山小屋Wi-Fi」専用のマニュアルも設置していますが、うまく繋がらないお客様には、スタッフがサポートすることも。今年の夏山シーズンだけで200人以上のお客様に対応したスタッフもいるんですよ。
ーー今年の夏、双六小屋では看護師資格を持ったスタッフが3名勤務しています。昨年、夏山診療所の期間外にご宿泊の方で意識不明になってしまったお客様がいたのですが、麓にいる山岳医の先生に電話で指示を仰ぎながら処置をして、その後、ヘリで搬送。なんとか一命を取り留めたそうです。
今後は「山小屋Wi-Fi」によってデータ通信も可能になるので、夏山診療所の期間外や医師不在時でも、小屋の診療所にある心電図の映像や傷口の様子などを麓のお医者様に共有したりテレビ通話することにより、緊急を要する登山者の病気やケガに対応ができるようになるとありがたいと思っています。
夏山診療所がない山小屋でも、「山小屋Wi-Fi」を利用することで、急を要する場合に対応できるようになっていくと良いですね。
登山の現場で好評を博している「山小屋Wi-Fi」ですが、このサービス提供開始にあたっては、どんな狙いや苦労があったのでしょうか。「山小屋Wi-Fi」を担当する西原隆浩さんに、その背景を伺いました。
西原隆浩さん
ーー私たちKDDIは、「日本全国どこにいても、どんなときでもつながる」通信環境を整備することを目標に基地局の整備などを進めてきました。その結果、4G LTEの人口カバー率は99.9%を超えています。
ただ、過疎地や無人地帯である山間部や島嶼部を含めたエリアカバー率は60%程度に留まっています。
このような状況の中で、自然保護の観点から大規模な基地局建設や光ケーブル敷設へのハードルが高い山岳エリアにおいては、特に『Starlink(スターリンク)』を利用するメリットが大きいと判断し、導入を決めました。
また、登山者の休息の場としてだけでなく、遭難救助や医療の拠点にもなっている山小屋の環境整備を行うことで、私たちキャリアも安全登山に貢献したいと考えました。
ーー私たちKDDIが「山小屋Wi-Fi」を導入してもらうことで、山小屋にもたらしたかったメリットは、以下の3つです。
①円滑なコミュニケーション環境が整えられる
周辺の山小屋や事務所との間のコミュニケーション環境が格段に円滑になります。例えばこれまでは無線や衛星電話の音声通話だったものが、オンラインミーティングも可能になり、コミュニケーションの質向上に貢献します。
②キャッシュレス決済のハードルが低くなる
最近は山にもインバウンド(訪日外国人観光客)の訪問者数が増えています。しかし、通信環境が安定しないため、クレジットカード決済やスマートフォン決済の導入に踏み切れないという山小屋が多い状況でした。「山小屋Wi-Fi」によってこの課題が解決し、手持ちの残金を気にする必要がなくなり、グッズなど物販の売り上げ増につながると考えています。
③山小屋の情報発信が充実する
山小屋からの情報発信が、さらに充実します。豪雨災害なども増加する中で、登山道の最新情報は多くの登山者にメリットをもたらします。宿泊予約の状況もリアルタイムで更新すれば、予約問合せの電話も減って、特に少人数で運営されている山小屋の負担軽減につながります。
ーー「山小屋Wi-Fi」の構想が始まったのは2023年初頭、同年5月29日に北アルプス・八方池山荘からサービスが始まりました。2023年は11箇所、それが2024年には一気に100箇所まで設置される山小屋が増えました。
それこそオンラインミーティングなどは不可能でしたから、実際に山小屋へ脚を運んでそのメリットを説明させてもらいました。私自身はそれまで登山経験がほとんどなかったのですが、ずいぶんいろいろな山へ登りましたね。
おかげで初期の導入数は達成することができました。今では山小屋同士の横の連携や口コミから「山小屋Wi-Fi」のメリットを知って、当社に設置希望の問合せをくださる山小屋もあり、手応えを感じています。
ーーもうひとつ「山小屋Wi-Fi」設置の山小屋を一気に拡大できたのは、機器の設置を山小屋スタッフだけで可能にしたことです。建物の補修や登山道整備など、山小屋には手先が器用な方が多いですからね。
具体的には山の厳しい気象条件に耐えられるような部品も含めて、山小屋に特化した機器をキット化しました。あとはこれをヘリコプターで山小屋へ空輸するだけ。工事業者を山に派遣しないと設置不可能であれば、このスピードでの整備は実現できなかったでしょう。
山小屋側としても通信環境の整備は早く行いたいので、積極的に設置していただくことができたのです。
ーー私たちKDDIが「山小屋Wi-Fi」に着手したのは、au以外のキャリアを利用している人や、海外のキャリアを利用しているインバウンドも含めて、誰もが山で通信の恩恵を受けられる環境を整備したい、という想いがあります。
すべての登山者が安全登山に必要な情報の取得や、スムーズなコミュニケーションが可能になることを目指しています。
登山者の安心・安全に貢献したいという想いで「山小屋Wi-Fi」に取り組んできたので、今後も通信環境をしっかり整えていく活動を継続していきたいですね。
執筆:鷲尾 太輔(登山ガイド・山岳ライター)
撮影:宇佐美 博之
協力:小池岳彦さん、YAMAPユーザーのみなさま、KDDI株式会社