都市生活の便利さに慣れ、大人も子どもも昔のように自然と触れ合う時間が減ってしまった今、公教育として子どもたちに等しく「自然の原体験」を届けようと奮闘する自治体がある。
舞台は和歌山県・田辺市。子どもたちの好奇心を引き出しながらフィールドへと連れ出すのは、市民メンバーで構成される「八咫烏(やたがらす)インタープリター」。
本記事では、行政・教育機関・市民が力を合わせ、官民一体で進める全国的にも珍しい「森林環境学習」について、その取り組みの裏側をレポートします。
2026.03.27
武石 綾子
ライター
傾きかけた陽が反射し海面がキラキラと、まぶしいくらいに強く輝く。潮が引いた岩礁では子どもも大人も時間を忘れて大はしゃぎしながら水の中を覗き込み、木の枝で作った釣竿を片手にエビやカニを探すのに夢中になっている。
風光明媚なこの場所で行われているのは、紛れもなく学校教育の一環である。ただし、子どもたちを率いるのは「先生」ではなく、「インタープリター」と呼ばれる大人たちだ。

フィールドワークを行った天神崎。対岸には南紀白浜の街並みと連なる山々を臨める
和歌山県・田辺市。紀伊半島の山懐に抱かれたよみがえりの地、熊野の玄関口として親しまれ、近畿地方において最大の面積を有する自治体だ。
おおよそ9割が森林という自然資源に恵まれたこの地で営まれている「森林環境学習」が、進化を続けている。冒頭のシーンはその一環であるフィールドワークの一場面だ。今年で5年目を迎える本事業は官民一体の取り組みとして公教育に組み込まれ、現在市内25の小学校のうち20校を対象に展開されている。2026年度には全小学校が対象となる見込みだ。全ての企画や運営は行政と連携のもと、観光ノウハウを有する「一般社団法人田辺市熊野ツーリズムビューロー」の手腕により賄われている。

前方で指を指している2人がインタープリターのてんちょう(左)とりーくん(右)。インタープリターたちは子どもたちからは親しみを込めた愛称で呼ばれている
フィールドワークの話に入る前に、「インタープリター」の役割について改めて紹介したい。「インタープリター」は、自然の声を子どもたちに届ける「翻訳者」。田辺市においては「八咫烏インタープリター」と称され、年に1回公募および養成講座が行われている(本記事では以下、インタープリターと表記)。長年に渡り自然教育に携わってきたYAMAP専属ガイド・ひげ隊長(前田央輝氏)の認定を受けた人のみが名乗れる肩書きだ。自然や安全管理に関する知識、企画力、子どもたちをワクワクさせ、全力で一緒に楽しむことができる人間力など、求められる要件はとても厳しい。現在5期生まで公募が進んでいるという。

先頭はインタープリターの「ぜんくん」。自身も一緒に自然を全力で楽しむ
今回は秋口の2日間、2つの小学校で各日行われたフィールドワークに同行した。
初日はK小学校の5年生30名。向かう先は美しい景色が広がる岩礁地帯「天神崎」だ。「日和山(標高36m)」を中心とした丘陵部と岩礁で構成され、満潮・干潮で全く異なる表情を見せることから景勝地としても名高い。

日和山の入口。豊かな植生と景色が楽しめるハイキングコース

フィールドワークでは4つのグループに分かれ、それぞれがインタープリターの案内のもと、森・磯・海の循環、生態系について学ぶ。
子どもたちは事前の座学で地域の山林について学習をした上でフィールドに出る。手元にはその日のミッションとおおまかなマップが挟まれたバインダー。それぞれのポイントで見つけたものを拾い上げ、感じたことなどを書き出し、最終的には模造紙でグループごとの手書き地図を作り上げていく。

子どもたちの手元では、個性あふれる手書き地図ができあがっていく
「常緑針葉樹と落葉広葉樹をそれぞれ見つけて教えて!クリアできんと次に行けんよ~」とインタープリターが投げかけると「これは?」「触りたい!」「針葉樹はこの形やろ?」「あ、でかい虫がおる!」などなど、子どもたちの素直な反応に思わず顔がほころんでしまう。
「日本初のナショナルトラスト運動っていうのがあってね。地域の人たちがリゾート開発に反対して、この景観を守ろうとしてお金を出し合って、今でも保護活動は続いているんよ」初めて聞くエピソードにうんうんとうなずいたり、少し難しそうに首をかしげたり、子どもたちは様々な表情を見せる。

フィールドワークの最後には、岩礁付近の岩壁で立ち止まり、改めて「山と海の循環」についての解説が行われた。ここでは森に蓄積された雨水が岩壁の隙間から流れ出し、磯を通じ海へと運ばれていく様子を直接目にすることができる。天神崎は、生態系のあり方を目の当たりにすることができるという意味でも貴重なスポットなのだ。

岩壁から染み出る水の塩分を計測し、雨水が染み出し海水と混ざり合うことを説明する

締め括りには思い思いに仕上げた手書き地図をグループごとに発表。同じコースを歩いているが、内容が全然違って面白い。
発表を聞いていて、ひげ隊長が子どもたちを自然に誘うことを「タイムカプセル」と独特に表現することを思い出した。すぐに理解ができなくても、原体験がよみがえったりつながったりして、カプセルの蓋が開く瞬間が来るという意味だ。例えばこの日のインプットが、もう少し大人になった時に「なるほど、そういうことか」と気づきになる日が来るのかもしれない。そんな狙いもあってか、自然に親しむだけで終わらず、学び、考える要素が多分に組み込まれている。
2日目のフィールドワークは、A小学校の5年生8名を2人のインタープリターが案内する。市街地から約5kmと近接していながら、絶景と奇岩の群れが楽しめ、田辺の「低山」として有名な景勝地「ひき岩群」を散策するプログラムだ。

子どもたちが準備していたのは、行き先のマップと、予め絵具で自由に作った「自分の色」。様々なものに触れて観察しながら自然の中にある「自分の色」を探していくのだという。

子どもたちが自由に絵の具で彩った「自分の色」

グラデーションの雰囲気まで共通する葉っぱを発見。「色を探す」という行為により観察眼がより深まりそうだ
標高が高いわけではないが、十分歩きごたえのある山道を一歩一歩踏み締めるように登っていく。「あった!全く同じ色!」「これは?」「この色の方がキレイ!」など、自発的に葉っぱを触ったり、あちこち歩いたり。最初は緊張からか表情が固かった子も、いつのまにか一緒に走り出してはしゃいでいる。

ロープはインタープリターのてっちゃん(中央)が事前に準備したもの。安全対策も抜かりない
途中、おそるおそる砂岩の斜面をよじ登って洞窟を体験。声をかけあいながら、石壁の感覚を確かめて精一杯手足を伸ばすプチアドベンチャーだ。

思いの外深く、一面が砂場の洞窟内ではしゃぐ子どもたち
終盤にはじっくり自然を感じる時間も設けられている。ハンモックで揺られてみたり、落ち葉が広がる地面にマットを敷いて寝そべり、深呼吸してみたり。わいわいと騒いでいた子どもたちがしんと静まり返って、風の音だけが響き渡り、自然に体を預ける。本当、山で寝転ぶのって気持ちいいんだよなぁ、そんなことを想いながら横に並んで目をつむる。

インタープリターのなおさん(左上)の掛け声で一斉に上を見上げる

木々と葉が譲り合うように風になびく様子が美しい

下山後、模造紙にそれぞれの思い出を書き込む時間。子どもたちがこんな声を漏らした。
「なんか…、自然と仲良くなれたって感じがした!」「留年して、もう1回参加したいな」
引率していたインタープリターのてっちゃんも「留年はだめやなぁ」と言いつつ満面の笑みを浮かべる。これ以上嬉しい感想はないだろう。その様子から、この日はきっと子どもたちの心に「原体験」として刻まれるのだろうなぁと、しみじみ感じてしまった。


素直で柔らかい発想を持ち、大人もドキッとさせられるほど時に鋭い観察眼をのぞかせる子どもたちを相手に、特別な体験を贈る。その難しさを考えると、インタープリターに認定されるハードルの高さにも納得がいくところだ。
養成講座の講師であるひげ隊長と、ひげ隊長に全幅の信頼を寄せられているという1期生の「やまちゃん」こと山西秀明さんに、田辺におけるインタープリターの現在地について聞いた。
「インタープリターに挑戦しようと思ったのは、ひげ隊長の『学校教育であれば全員が等しく体験できる』という話が強く印象に残ったから。ぼく自身、これまで子どもたちにガイドをしたり教えたり、という機会はよくあったんです。やりがいは感じていましたが、一部の子どもたちにしかアプローチできていない、どうしても家庭環境によって体験に差が出てしまう実感があったので『等しく体験を提供して、子どもたちに自然を好きになってもらいたい』という方向性には、強く共感しました(やまちゃん)」

「やまちゃん」の愛称で親しまれる1期生の山西さん。フィールドワークの企画もリードする
「子どもの頃から生きものに興味があった」というやまちゃん。大学院での研究の後、水族館に勤務し、現在は「ヒロメラボ」の屋号で田辺名物である海藻の一種「ヒロメ」を広める活動を行っている「海のプロフェッショナル」だ。生態系に関する幅広い知識と柔和な語り口で、子どもたちにも大人気なのだそう。
となりで話を聞いていたひげ隊長も「自分の想いを引き継いで、自走してくれるメンバーが育ってきた」と話す。ひげ隊長はインタープリターの取り組みを全国に広めるという壮大な夢を持つが、田辺市はその先進で、1期生、2期生がリーダーとなり、インタープリターという言葉自体も徐々に根付き始めているという。

YAMAPにとっても先進事例である田辺市の取り組みについて、楽しそうに話すひげ隊長
そんなふたりが共通して「感動した」と話すのは2025年8月に「KUMANO KIDS CAMP」と銘打って田辺市にて行われた親子向けのアウトドアイベントだ。
「ひげ隊長とインタープリター2名が案内役で入った、1泊2日のプログラムです。ハイキングから始めて、川遊び、次の日またトレッキングして最後はカヌー体験。最初は子どもたちも親から離れようとしないんですけど、特に水のアクティビティが子どもたちの距離をすごく縮めて、親御さんたちも、インタープリターがいるから安心して任せられると言ってくれていました。人見知りでモジモジしていた子どもが手放しで『楽しかったー!!』って喜ぶ様子を見て、お父さんが泣いてたりして(やまちゃん)」

「もう涙の連鎖よね(笑)自然の力を親御さんにも感じてもらえたと思うし、2日間でこんなに変容するんやって、仕掛ける側も心が動かされたよね(ひげ隊長)」
「たった1日〜2日でも、自然に触れて楽しかった思い出って大事なんですよね。大人になってからなんらかのタイミングで『やみくもに自然を傷つけてはいけないと、やまちゃんが言ってたな』と思い出してくれる時がくるかもしれない。そんな想いが合わされば将来的に自然はもっと守られるかもしれない、そうなれば理想ですよね。やっぱり自身の中に何も体験がなければ、自然を守るという発想にすらなり得ないだろうと思います(やまちゃん)」
「原体験を提供したい」という想い。田辺市のインタープリターたちにはその根っこの部分が継承されているということが、ふたりの阿吽の呼吸からも伝わってきた。
教育の現場ではこの取り組みをどのように捉えているのだろうか。田辺市教育委員会・教育長の野田泰輔氏にその印象を伺った。

田辺市教育委員会の野田教育長
「教科書で読むだけだと机上に留まってしまうけれど、実際に手で触って、目で見る。それによって子どもたちが表面だけではなく、体験を通じて自ら考えることができるという点で、非常に有効な手段であるという風に感じます。インタープリターの良い点は、やはり自然に関する専門知識ですよね。例えば担任がフィールドに連れて行くとしても、細かな知識や、生態系を大きく捉えて教えることはなかなか難しいと思います」
今年の夏には、教育長自ら天神崎でのフィールドワークに足を運んだという。日和山から天神崎のどこに水が流れるのか、具体的な場所をこの体験ではじめて知った。水の美しさに改めて驚かされたーーそんなエピソードを交えつつ、田辺市の教育の未来についても語ってくれた。

「社会人になってから解決の糸口が見えないような課題にぶつかることもありますよね。そのような局面では、人とのつながりや自分の知識を総動員して解決していく力が求められていくと思います。与えられた知識だけを覚えるのが勉強ではないということ、その前提で子どもたちが自分で判断して行動していく力が身についていけばいいと思います。
わかりやすく言えば、『今日は楽しかったんや、山へ行ってこんなものがあって…』と家に帰って報告しながら明日へのエネルギーにつなげられるようなそんな体験、そんな教育環境を作っていきたいですね」
最後に、森林環境学習の仕掛け人でもあり、立役者でもある田辺市熊野ツーリズムビューローの多田稔子代表理事に、これまでを振り返ってもらった。現状は「予想以上に順調」とした上で、ただし実現までには多くの壁があり、とてもチャレンジングなことだった、そう振り返った。
「安全性の担保や授業時間の確保、カリキュラムの妥当性など、学校での検討事項は数多くあったと思います。教育委員会の後押しと学校現場における努力の賜物であり、田辺市の環境や財源など、諸条件やタイミングが合致したことで無事実現にこぎつけることができました」
活躍しているインタープリターたちには、開始当初からの意思がしっかり引き継がれているという。そもそも、この取り組みはどういう経緯で始まったのだろうか。

「きっかけは、コロナ禍でインバウンド需要が約3年間止まったことです。インバウンド以外での誘客を考える必要に迫られた時に、『教育旅行ならやれるかもしれない』と思い立って。
当時、修学旅行はなんとかして行かせてあげようという気運があって、私たち(田辺市熊野ツーリズムビューロー)も随分お手伝いしたんです。そこにビジネスの芽を見出そうとしていた時に、いや待て、まずは地元の子どもたちへの教育が先だという話になって。教育委員会にもかけ合って、さらに森林環境学習だったら市役所内の森林局にも一緒に入ってもらおうと、座組を考えました。
加えて森林環境譲与税がはじまるタイミングで、環境教育学習に使える財源を確保できたこと、さらに田辺市熊野ツーリズムビューローという事業を推進する団体があったこと。様々な条件やタイミングがうまく揃った、と言えると思います」
多田氏が話す通り、「自治体独自の恵まれた条件」や「偶然のタイミング」はあるのかもしれない。しかし、その偶然を逃さず掴むためには日ごろからアンテナを張り、アイデアと工夫で実現に導くリーダーシップがあったことは明白だ。
「観光も自然教育も、その地域に合ったやり方を模索していくことですよね。地理的なことや文化風習なども踏まえた上で、どんな風に子どもたちを育てていくかは地域によって本来全部違うもの。だから、大事なことはまずその土地について知ることです。田辺という場所を深く理解していて、あとは自分の人生も踏まえた個性、自分自身をどうインタープリテーションに投映できるかだと思います。この部分は平均化したり、再現性のあるものにしたりするのは難しいところですが、それぞれの個性を出しながら地域ごとのマニュアル化できないスピリッツを継承していくということですね」
今後の展開として、インタープリターともさらなる連携を図り、企業向けの自然研修などの事業を検討されているという。また新たな壁に挑戦するんですね、と問うと、壁は超えていくものだから。と、からりと笑いながら話してくれた。その姿勢こそが官民問わず、人を動かす原動力となるのだろう。

山も海も近く、すぐそばに雄大な景色が広がる田辺市の自然環境
圧倒的で稀有な自然環境、官民の強力な連携、そして一人ひとりが持つ土地への誇り。世代を超え、すべてが有機的につながり文化は作られる。田辺市の、そして八咫烏インタープリターの今後がとても楽しみだ。

2025年8月、田辺市にて行われた親子向けのアウトドアイベント「KUMANO KIDS CAMP」。世界遺産の地・熊野の大自然に抱かれ、親子で五感をフルに使いながら自然の中で遊び、学び、挑戦する絶好の機会だ。田辺市で活躍する八咫烏インタープリターがメインガイドとなり、川遊び、ハイキング、カヌーなど、大自然のなかでしか得られない体験と感動をお届けする。
そんな「KUMANO KIDS CAMP」が、2026年は5月2日(土)~5月3日(日)の一泊二日の日程で開催決定。場所は、田辺市のなかでも清流や深い森に囲まれた自然豊かなフィールド「龍神エリア」。季節ごとに異なる熊野の魅力を体験できるシリーズイベントとして、展開していく計画だ。
自然の中で「感じて、遊んで、知る」。忘れられない自然体験を子どもたちに届けたいと考えるすべての親に打ってつけの、一生モノの自然体験プログラムになるだろう。
「KUMANO KIDS CAMP」企画・運営:田辺市熊野ツーリズムビューロー