圧倒的な山行日数を誇る山岳/アウトドアライターの高橋庄太郎さんが、知られざる【山の名・珍スポット】をご紹介。今回の舞台は、世界自然遺産・白神山地のブナの森。この地のアイコン的な存在として親しまれる、推定樹齢400年の巨木「マザーツリー」をめぐる物語をお伝えします。
高橋庄太郎の「いつかは行きたい!」山の名スポット、珍スポット #07/連載一覧はこちら
2020.10.20
高橋 庄太郎
山岳/アウトドアライター
1993年12月、日本で初めて“世界自然遺産”に登録されたのが、青森県と秋田県にまたがる「白神山地」。その理由は「人間の影響をほとんど受けていないブナの原生林が世界最大級の規模で残されている」ということで、まさに「ブナ」という樹木こそが、白神山地の宝というわけである。
しかし1本1本のブナの木、そしてブナの森はとても美しいのだが、正直なところ、ちょっと地味なことは否めない。まったく同じタイミングで世界自然遺産に登録された屋久島の「縄文杉」のようなキャッチーな“アイコン”が白神山地にはないことも、地味さに拍車をかけているのかもしれない。
いや、ちょっとしたアイコン的な存在ならば、ないこともないのだが……。
さて、以下の写真は白神山地の一角にそびえる日本200名山の「白神岳」山頂だ。遠くに見えるのは日本百名山の岩木山で、その間と右手にうねる山々が白神山地というわけである。
じつは、先に述べた「ちょっとしたアイコン的な存在」とは、白神山地内に立っているブナの巨木で、通称“マザーツリー”。樹齢は推定400年程度とみられ、樹齢こそ縄文杉には及ばないものの、高さ30m、幹囲は4.65mもあり、すばらしく堂々とした姿を持つ立派な木だ。個人的には、由緒正しい日本古来のブナ林のなかに立つ大木に、カタカナ英語の“マザーツリー”いう名前はあまりふさわしくないと思う。しかし、そうは思いつつも“母なる木”として、ブナの大木を“マザーツリー”と呼びたくなる気持ちもわからなくはない。そんな存在感をたしかに持っている木なのである。
マザーツリーが立つ位置は169.71km²という広大な面積の白神山地のなかでは中央付近にある。海に近い白神岳からは離れているが、林道が通っている地蔵峠というポイントからはそれほど歩かなくても見に行ける場所だ。
マザーツリーは白神山地のちょっとしたアイコン的存在、またはシンボルのひとつとして、多くの観光客も訪れる場所だ。そのために、津軽峠からは簡単に誰でも足を延ばせるように遊歩道がつけられている。しかも駐車場からの距離は、たった270m。一応は歩いてしか見に行けない場所とはいえ、登山に比べれば格段にラクだ。
僕がマザーツリーを見に行ったのは、過去3回。初回は1998年あたりで、デジカメで撮った写真はないのが残念だ。直近の3回目は昨年2019年。これからお見せしていくのはそのときの写真だが、マザーツリーが立つ場所には次のような看板が存在していた。
以前来たときにもあった看板だが、なにやらボロボロになっている。その理由は、看板に張られた説明文の内容から容易に類推することができた。じつは……、白神山地のシンボルのような存在だったマザーツリーは、すでに折れてしまっていたのだ!
説明文によれば、平成30年(2018年)9月4日の台風21号の暴風により、地上から9mのところでマザーツリーが折れてしまったらしい。おそらくその際に、この看板もいっしょに傷んでしまったのだろう。
なんでもマザーツリーは台風が襲来する以前から一部が腐っていたんでいたとのこと。だからあの記録的な台風の前には成すすべがなかったに違いない。
もともとは高さ30mほどもあったマザーツリーが高さ9mのところで折れたということは、1/3以下の高さになってしまったということだ。残念ではあるが、自然の営みの一環として仕方ない。ただ、詳しく眺めていてうれしくなったのは、折れた部分がそのまま放置されて腐りやすくなっていたわけではなく、人の手できれいにカットされていたのがわかったこと。おそらく腐敗を防ぐ薬品なども塗られたのではないか? 老樹を守ろうという心が伝わってくるばかりか、見た目も痛々しくなくて感心してしまった。
ところで、先の看板には左側に先の説明文があったが、右側には写真が貼られていた。それは「折れる前のマザーツリー」であった。これがあれば、マザーツリーがいかに存在感たっぷりの大木だったのか、訪れた人は想像しやすいだろう。
初回は1998年ごろ、3回目は昨年2019年にマザーツリーを見に来たことがある僕だが、その中間の2回目は2012年。そのときに撮影した写真には、当然ながら健在だったころのマザーツリーが映っている。参考までにお見せしておこう。
折れる前のマザーツリーは、やはり今よりも立派だ。以前、白神山地のマタギ兼ガイドの方に聞いた話では、ブナという木は一生のうちに400万個もの種を付けるとのこと。そのなかで大木(平均樹齢250年ほど)にまで育つのは、たったひとつ。その奇跡的な一つの種がここまで育ったのが、マザーツリーだったのである。
その姿を見ることは、やはり人間にとって貴重な経験だ。折れる前にマザーツリーを体験できた僕は幸運だったが、折れてしまったマザーツリーだって、見る人の心をひきつける何かを持っているように思う。
マザーツリーはたしかに見ごたえがあったが、じつはマザーツリー以上にデカくて太いブナの木は白神山地内にはけっこうあるらしい。だが、実際に見に行くのは難しいという。マザーツリーのありがたさは、地蔵峠というアクセス容易な場所から誰でもすぐに見に行けることにあったともいえるかもしれない。
マザーツリーほどではないが、周囲を歩いていると他にもブナの大木を見つけられる。そのまま成長していけば、どれも次世代のマザーツリーになれる可能性をもっているわけだ。そこまで育つのは、あと何十年、何百年かかるのか……。自分が生きているうちではないことは確かだが、そんな悠久の時間に思いをはせるのも悪くはない。
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