登山好きとしても知られるフリーアナウンサーの大橋未歩さんが、アメリカのロングトレイル 、John Muir Trail(ジョン・ミューア・トレイル)を歩いたときの”旅の記憶”を綴るフォトエッセイ。連載第5回目では、大橋さんが心奪われた「理想のテント場」が登場します。ロングトレイルの「リアルな衣食住」は必見です!
大橋未歩のジョン・ミューア・トレイルの山旅エッセイ #05/連載一覧はこちら
2020.12.14
大橋 未歩
フリーアナウンサー・"歩山"家
人間って強いものだなとつくづく思う。非日常が日ごとに日常になってくる。2日目にして屋外で用を足すことには殆ど抵抗がなくなっていた。最中に、満点の星空を仰いで「綺麗…」と呟くくらいの余裕すら出てきた自分を頼もしく思う。
だが、3日目は殆ど歩けなかった。稼いだ距離はたった8km。
理由は2つ。1つは、前日かなりの無理をしてしまったこと。富士山に迫ろうかというほどの峠をこえたせいか、朝起きた瞬間から足に重りをつけているようだった。もう1つの理由は、ここで寝なければ後悔すると思えるほどのテント場に出逢ってしまったからだった。
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そのテント場は突然現れた。ネッシーが潜んでいそうな巨大なアルガーレイクを出発し、5時間ほど歩いて、時刻は15時を回ったくらいだろうか。荒々しい花崗岩に慣れた視界の中に、突如不思議の国のアリスが白うさぎを追いかけて迷い込んだような可愛らしい小径が飛び込んできた。
野花に導かれるように細いくねくねとした道をたどっていくと、鬱蒼とした木々の隙間に、突然それは姿を見せた。
森林帯に静かに佇む、まるでイソップ童話に出てくるような湖。傾き始めた太陽が樹々に降り注ぐ。木漏れ日が作るまだら模様が、風や太陽の角度によってめまぐるしく表情を変えている。体力的にはもう少し歩けそうだったが、その美しい光景に思わず声をあげた。
「ここで寝たい!」
この旅の醍醐味のひとつは、気に入った場所が今夜の家になること。朝陽をめいっぱい拝みたければ東向きの場所に、雪化粧した山肌をゆっくり眺めたければ山の裾野に、といった具合に、好きな場所に自分たちだけの家を構えることができる。歩を進めては「建もの探訪」よろしく、リビングや寝床を妄想するようになっていた。
さて今夜の物件はいかほどか。ほぼ心は決まっているが、じっくり内見をして見定めるとしよう。気分はもはや渡辺篤史。脳内では小田和正が再生されている。吸い込むようにあたりを眺める。
まず気に入ったのがリビングだ。針葉樹に周囲をぐるりと縁どられた可愛らしい湖の脇に10畳ほどの開けたスペース。奇妙にひしゃげた、全長2mほどの板状の木が岩石の上に渡してある。
ふと思い、マグカップを平らな上面においてみるとなにやらやけに座りが良い。なるほど、どうやらここは1組限定のキャンプ場らしい。この木板は調理台かテーブルとして使っていたのだろう。先人たちが残していった気配が愛おしく、心を落ち着かせる。ここに淹れたてのコーヒーを置きたいという欲望が沸き立った。目の前はすぐ湖。レイクビューつきリビングの完成だ。
リビングのお次は…と、視線を横に移すと、3mほど離れた場所に木が2本並んで立っている。「まあ、なんということでしょう~♪」心で呟く。この木の間に紐を渡せば立派な物干し場になるぞ。
そしてそのリビングと湖を見渡すように巨大な倒木が無造作に横たわっている。その脇にテントを張れば風よけにもなるし、朝起きてテントを出た瞬間に湖が視界に入る。最高だ。
イメージを膨らませていると、倒木の上をジリスが軽やかに横切った。きっと素敵な家になる。確信した。そうと決まったらテントの設営に夕飯の支度。3日目にして、ようやく私は夫に言われる前に、水汲みをするようになっていた。
今夜のごちそう、前菜はコーンポタージュにフリーズドライのラーメンの具を入れたコーン野菜スープ。ドン・キホーテで買ったラーメンの具は、野菜不足になりがちなキャンプでとても重宝している。スープに入れた途端膨らみ始めるワカメから漂う磯の香りが、なぜだか日本を思い出させた。
メインディッシュはアメリカの山食ブランド「マウンテンハウス」のイタリアンステーキペッパーリゾット。ミートソース味にトマトの酸味がきいている。体が疲れていると、酸味が100倍くらいに美味しく感じる。ただ、ステーキとは書いてあるものの控えめな肉片がいくつか埋もれていただけだった。
ここで初めて洗濯をした。といっても、水をなるべく汚さないように、Tシャツと下着と靴下を湖に浸してジャブジャブと手洗いするだけ。10日間の滞在予定でそれぞれ2着ずつしか持ってきていない。片方を着ている間にもう片方を洗い、乾かす。ローテーション。
大自然での生活に順応していく自分が嬉しかった。必要最低限の衣食住で心を満たす。工夫や取捨選択を重ねる中で、自分にとって本当に必要なものが見えてくる。
「シンプルに生きる」そんなよく見るタイトルの自己啓発本を持っていたっけ。目先の欲や外見の装飾に左右されない、凛としたかっこいい女性に憧れていた。もしかしたら自分もそんな人間に少し近づいているのではないか。だとしたら嬉しいな。なんて思いながら寝床に就いたら、なんとハンバーグの夢を見てしまった。
熱々の鉄板で肉が踊る。フォークを入れるとギラギラと光る肉汁が溢れてリズミカルな音が弾けた。はふはふしながらかぶりつくと、肉の弾力で歯が軽やかにバウンドした。と同時に、肉汁の旨みが口全体に流れ出て沁み渡る。身体にエネルギーが漲る————。漫画でそんなシーンは見たことがあったけど、まさが自分の夢にハンバーグが出てくるとは。
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目が覚めても、肉の味が舌にこびりついていた。朝陽にきらめく穏やかな湖面…などもはや眼中にない。肉。肉を所望している。ついに我慢できなくなって禁断の一言を声に出してしまった。
「お肉、食べたい…」
おそるおそる夫を見ると、夫も呟いた。
「ビール…」
肉とビールなんてこの世には存在しないと自分に思い込ませていたはずなのに、「お肉」「ビール」という言葉を獲得した途端、私たちは、新たに知ってしまった。この世に「お肉」も「ビール」もあることを。もはやアダムとイブだ。ここからの私たちはたがが外れたように、その幻影に悩まされるようになってしまったのだ。
朝ごはんのマッシュポテトを食べていても、パウチの底のポテトをこそげとりながら、頭の中では熱々のハンバーグのことばかりを考えていた。
一方で毎朝のルーティンは板についてきた。朝食中に寝袋をテントの上で干す。食器類やテントを片付けたら、飲み水の準備だ。500mlのペットボトルに浄水した水を入れて2粒のミネラルタブレットを溶かす。この2粒は私のお守りだ。初日はこれを入れ忘れて真水を飲んで歩いていたら、高山病もあいまって突然電池が切れたように動けなくなってしまった。
さらに補給用の真水を準備する。地図を確認して道中に水場がなければ2リットルのプラティパスを満タンに。小川や湖などの水場が確認できれば半分位。水は荷物の中で最も重い。過剰に持てば歩ける距離が短くなるし、怪我のリスクも高まる。かといって足りなければたちまち命の危険に直面する。長距離の山行において、大は小を兼ねない。何事も適量を見極める必要があるのだ。
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新婚旅行であることを忘れないように、出発前に夫婦の2ショットを撮影してから出かけるようにした。標高のせいか疲れのせいか、私の顔が日を追うごとにパンパンに浮腫んでいく。自動シャッターの瞬間を狙って、無理は承知で80年代アイドルのように頬づえをついてみたりして、顔の輪郭を必死に隠した。
それにしても夫は何故浮腫まないのだろう。10歳若いからか? 普段から代謝がいいからなのか? 口惜しい気持ちですべらかな肌をまじまじと観察してしまう。
そんなこんなで準備は整った。出発だ。
昨日は8kmしか距離を稼げなかったので、4日目の今日の目標距離は20km。歩けるだけ歩きたい。そして今夜はある大事な家族会議をする予定なのだ。これを伝えたら夫はどう思うだろう。まだ自分の中で答えが出ていないが、ひとまず歩こう。
木立や茂みで見通しの悪い場所では必ず音を出す。クマとの鉢合わせを避けるためだ。本来臆病な動物であるクマは、人間の気配を感じたら逃げると言われている。
人が襲われるのは、互いの存在にギリギリまで気付かず、近距離で鉢合わせてしまうとき。驚いたクマは反射的に人を攻撃してしまう。視界が開けていれば距離がある段階で互いの存在に気付けるが、茂みの中では話が別。
だから自分たちの存在にいち早く気付いてもらうために、熊鈴のみならず、両手で握っているストックを太鼓のバチさながら交差させてカチカチと音を出す。そして、周囲に人がいない場合は歌うこともある。
私たちは歌った。
「ある日~森の中~肉食べた~い肉食べたい~♪」
「ビビビービービービ~ル♪ビールが飲みたいよ〜♪」
ふと耳を澄ますと、私のたちの無残な輪唱の隙間から、川のせせらぎが聞こえる。歩を進めるごとに、瑞々しい音色の輪郭が鮮明になってくる。大きな水源が近くにある! ついにあの湖に逢えるんだ!!
到着したのは、Thousand Island Lake(サウザンドアイランドレイク)。その名のとおり、数え切れないほどの島々が絶妙なバランスで配置され、風光明媚な光景を生み出している。これが天然で作られたものだなんて、にわかに信じがたい。視界の奥に聳える黒い岩肌に純白の雪をたたえたバナーピークが一帯をさらに幽玄な世界へと導いている。JMTのなかでも知られた存在だというのも頷ける。そう、実のところ私たちはここでようやくJMTに合流したのである。
これまで私たちは、メインルートのパーミッション(入山許可証)が取れなかったため、名の知れないマイナールートを歩いてきた。昨日、入山3日目にしてようやく半分お尻を出した陽気な釣り人に会ったのがせいぜいだったが、やはりJMTの本線は様子が違う。
サウザンドアイランドレイク周辺にはメインルートを歩いてきたであろう多くのハイカーが腰を休めていた。体と同じくらい大きなバックパックを背負ったソロの女性ハイカーや、七色の派手なポンチョにテンガロンハットという出で立ちの男性のハイカーなど、思い思いに山を楽しんでいるように見える。
地図を広げてみると、
「No camping within 300feet of Thousand Island Lake outlet」
(サウザンドアイランドレイクの流出口から約90m以内はキャンプ禁止)
との注意書き。登山客を甘やかさない厳格な自然保護への姿勢に清々しい気持ちになり、こちらも背筋が伸びる。目に焼き付けて先を急ごう。
サウザンドアイランドレイクをあとにした私たちは、ロマンティック街道を進んだ。命名は私。なにせ街道沿いに現れる湖の名前が素敵なのだ。エメラルドレイクからルビーレイクを抜けてガーネットレイクへ。その名の通り、エメラルドレイクは深い群青色で、太陽光を受けて鮮やかに発光していた。
ルビーレイクは特段ルビーの色をしているわけじゃないけれど、宝石と宝石を繋ぐネックレスを辿っているようなトレイルに感激しながら、写真を夢中で撮影していたら、気づかぬうちに馬糞を踏んでいた。
信じられないくらい、足裏全面でべったりと踏んでいた。足を持ち上げた後、形の崩れた俵型の馬糞が「おはぎ」に見えてしまったのだから、もう私のフリーズドライ生活も限界に近づいていると言わざるを得なかった。
そんな4日目はなんと17 km歩いて、シャドーレイクに繋がる川のほとりに到着。水は豊富だし、平らな土地でテントも貼りやすそうだ。
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さて、大事な家族会議の時間である。
シワシワになった地図を手のひらで伸ばして夫の前に差し出しながら、私は勇気を出して口を開いた。
「山を下りない?」
黙っている夫を尻目に、もう後には引けないと、かぶせるように言葉を続けた。
「今いる場所から16km南に下ると『デビルズポストパイル』っていうバス停がある。そこからマンモスレイクっていうリゾート地まで直通バスが出てるの」
『リゾート』という言葉を口にした途端、今まで私たち夫婦が積み上げてきた何かが音を立てて崩れるような気がした。
ロングトレイルは衣食住の全てを担いで歩くハイキングなのだが、さすがに持てる食料は5日か6日分が限界だ。当然、10日近い行程を歩くには途中で補給することを計画に織り込む必要がある。
当初の予定では、そのバス停を過ぎてさらに5kmほど歩いた場所にあるレッズメドウというキャンプ地を目指していた。ここは町からの道が通じているため、売店がある。そこで残りの行程に必要な食料や燃料を補給する算段だった。
だが、昨日見た夢からか、脳内は、肉とビールという邪念に支配され、とうとう私は「リゾート」という言葉をやすやすと口にする人間に成り下がっていたのだ。
夫に軽蔑されるだろうか。この旅の目的はなんだったのか。なんのために電波も届かない広大な自然の中に幾日も身を置くのか。自分ととことん向き合うためではなかったのか。夫は反対するだろうか。言い合いになるだろうか。提案してはみたものの、悔恨の念が頭をぐるぐると巡る。
すると夫が口を開いた。
「グッドアイデアです」
目の前に光が射す。
よくぞ言ってくれた。思えば夫の登山ポリシーは「ノーストイック」。シビアに山頂を目指す登山には興味がなく、ゆっくり山裾を歩くのが彼の流儀だ。
一方私には、何事も我慢や忍耐あっての達成感だと信じて疑わない時期があった。だが、脳梗塞で倒れてからは価値観が一変した。人は本当に突然倒れる。明日死ぬかもしれない。いや10分後に死ぬかもしれない。人生の時間は限られているのに、我慢や忍耐ばかりでいいのか。そう思うようになった。先々の達成感を見越すばかりに、今の楽しみを犠牲にしていちゃいけないのだ。
「お肉食べたい!!!!!」
私は憑かれたように繰り返した。明日一旦下山して、我々は夢のリゾート「マンモスレイク」を目指す!!!!
ビールにお肉、シャワーも浴びたい!風呂に入っていない身体をポリポリと掻きながら、少し汗臭くなってきた寝袋の中で眠りについた。が、夢のリゾートとはいかなかったのだ。翌日、夫のある身体の異変に気づくことになる。それはまた次回。
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