江戸時代の蝦夷地(北海道)。その南端部に位置し、本州からの旅人の玄関口だった渡島半島の松前(松前町)と箱館(函館)を結んだ約100kmにおよぶ街道がありました。松前藩主が通ったことから「殿様街道」と呼ばれ、いまも一部が当時のまま残り、地域住民によって大切に維持されています。そこにあったのは北海道での砂金採掘のゴールドラッシュに、キリシタン殉教や新選組、国鉄廃線などの物語。ブナの新緑や色とりどりの紅葉に癒される古道が、注目されている理由を歩きながら探りました。
2023.10.11
相原秀起
ノンフィクション作家
殿様街道は、現在の函館市と松前町を結ぶ国道228号とほぼ平行しており、松前町の東に隣接する福島町内の峠(知内峠もしくは福島峠)を越え、2本のルート(総延長7km)が現存しています。
江戸時代、茶屋峠には茶屋があり、松前藩主もここで休息したことから「殿峠」とも呼ばれていました。これが多くの人が気になるだろう、「殿様街道」の由来です。
実際、松前藩の殿様が北海道最古とも言われる名湯、知内温泉に湯治に出掛けた際に通過したとの記録があります。
2023年度にはその歴史的な価値が評価され、日本山岳会(東京)の「日本の山岳古道120」に、道内4古道のひとつとして選ばれ、北海道をはじめ、全国の古道ファンにも注目されるようになっています。
現在歩ける殿様街道は、福島町千軒の一ノ渡地区をスタート地点に、ブーメランのように2本のコースを周回して出発地点に戻る全長約7km、3時間前後のコース。最高到達地点も標高251mと、体力にあまり自信がない人でも心配ありません。
地域の活性化を目指す関係者は2002年から、通常時は春と秋にガイドツアー「殿様街道探訪ウオーク」を実施。今春で37回目を迎えた人気イベントです。
イベントに合わせて、地元千軒地区の皆さんが草刈りや道の補修、川にかかる丸太橋を直すなど整備を続け、YAMAPでも「殿様街道」の活動日記は多く残されています。今回は2023年5月に実施されたツアーに同行させてもらいました。
体力度:1(5段階中)
時間:約2時間20分
距離:4.5km
累積標高差(登り):331m
累積標高差(下り):331m
モデルコースの詳細:殿様街道
*古道としては7kmですが、一般的なYAMAPユーザーの軌跡からモデルコースを作成しています
出発地点で右手奥に目を向けると1988年(昭和63年)に廃線になった旧国鉄松前線のトンネル跡。旧松前線は木古内駅と松前駅(現在は廃止)を結んでいた鉄路で、殿様街道とほぼ平行して走っていました。
街道近くには今も鉄橋やトンネルが残り、ノスタルジーを感じられる場所として、鉄道愛好家にも人気です。
今年5月上旬、入口近くのクリ林を抜けて街道に入ると、両側に広がるブナの新緑で辺りは若葉色一色。「体が緑に染まりそうだ」と、同行者から声が漏れます。
長い冬がようやく終わり、北海道の春は一気にやってきます。道端には薄紫色のシラネアオイやニリンソウ、かわいらしいカタクリが咲き、生命がそこら中に満ちあふれています。この新緑の季節と秋の紅葉シーズンが殿様街道を歩くベストシーズンです。
道はやや急となり、しばらく進むと「砲台跡」と書かれた説明板が立つ開けた場所に出ました。
同行した福島町教委の鈴木志穂学芸員の説明では、ここは幕末の箱館戦争(1868〜69年)で松前城攻撃のため、箱館から松前へ進軍中の元新選組副長土方歳三ら旧幕府軍を迎え撃つため、松前藩が大砲2門を備え付けた場所。
街道は、翌1869年に箱館において34歳の短い生涯を閉じた土方が駆け抜けた道でもあったのです。
砲台跡近くからは、日本三百名山にも選ばれた大千軒岳(だいせんげんだけ、1,072m)が望めます。初夏近くでも沢筋には雪が残り、ホテイアツモリソウなど数多くの高山植物が咲く花の名山としても知られています。
ツアーには毎回、テーマが設定されていて、2023年は「初めて北海道を訪れた神父
アンジェリス神父帰天400年」。
北海道を舞台にした人気マンガ「ゴールデンカムイ」は、アイヌ民族が隠した金塊を探すストーリー。作品のなかでは、たびたび道内の各地で砂金掘りの話が出てきます。
実際に江戸時代初頭には、大千軒岳でも砂金が見つかり、一帯はゴールドラッシュに沸き、砂金採掘に従事する人々の中に本州での迫害から逃れて蝦夷地にやって来たキリスト教徒がいたのです。
彼らの要望に応えて、福音を授けるためジェロニモ・D・アンジェリス神父が1618年(元和4年)に来島しました。
その後、幕府を恐れた松前藩はキリシタンの弾圧を行い、大千軒岳などで100人を超える信者が殉教するという痛ましい歴史があり、中腹の金山番所跡では毎年、追悼ミサが行われているのです。
アンジェリス神父は、幕府によって1623年(元和9年)、江戸で火刑に処せられ、2023年は神父の死から400年に当たりました。
大千軒岳を望める展望ポイントの近くで、ヒグマの爪痕が生々しく残る木がありました(写真6)。前回に参加した2016年にはルート上でクマの糞と足跡も見ました。
福島町が位置する渡島半島は道内でもヒグマの生息密度が高い地域です。YAMAPの活動日記などでも北海道の山を歩き慣れた個人、グループで活動する記録はありますが、福島町などは「安全に街道歩きを楽しみたい方は探訪ウオークに参加を」と呼びかけています。
イベント以外で訪れる際にもできるだけ複数人で歩き、ヒグマとの遭遇を避けるため鈴などを鳴らすことや、福島町役場に連絡してヒグマの出没情報や街道の崩落、丸木橋や増水の状態などを確認することをぜひお勧めします。
街道を下って旧松前線の鉄橋に出ます。全長48mの「茶屋沢鉄橋」です。鉄橋向こうのトンネルの入口はコンクリートでふさがれています。
鉄橋は廃線から35年経過したいまも頑丈そのものですが、下を向くと鉄製の網越しのはるか下に沢が見え隠れし、緊張しました。新緑の季節も紅葉の秋でも赤く塗られた鉄橋は風景に映えて、コースで一番の撮影ポイントです。
街道は福島川の上流部で、何度も渡渉することから「四十八瀬」と呼ばれていた地点に出て、丸太を組んだ橋を渡って川をさかのぼります。
1800年(寛政12年)7月、伊能忠敬は17年におよぶ全国測量の第1回となる蝦夷地測量をこの福島町から始めました。後に日本初の実測による日本地図作製につながる大プロジェクトの第一歩です。
福島町史研究会の会長で、伊能忠敬研究会の理事も務める中塚徹朗さんによると、伊能の測量日記には「四十八瀬」が登場するそうです。
伊能忠敬の蝦夷地上陸地点となった福島町吉岡には2018年、伊能忠敬像が完成。「北海道測量開始記念公園」として整備されています。
測量器具をのぞき込む気迫あふれる姿は、念願の蝦夷地測量に懸ける忠敬の意気込みを見事に伝えています。忠敬一行は吉岡を出発して、歩数から距離を測る「歩測」をしながら箱館を目指して進みました。
北海道の名付け親、松浦武四郎が訪れたのは忠敬から45年後の1845年(弘化2年)。武四郎はこの四十八瀬近くの茶屋で休息しています。
翌年と1856年(安政3年)にも来訪し、「峠を下りると一軒家があり小休憩した。桃(スモモ)の木が植えてあった」と書き残し、茶屋峠に至るつづら折りの道と峠下の一軒家のスケッチを残しています。
茶屋跡にはいまも一本のスモモの老木が残り、「武四郎が見た木かもしれません」と中塚さんは解説してくれました。
茶屋峠に至る道沿いには、ブナの巨木がそそり立っていました。世界遺産に登録された白神山地(青森、秋田県)にあるような立派なブナで、力感あふれる枝を空に向けて伸ばしています。樹高24m、幹回りは昨年の計測で373cmにも達し、森の「御神木」として大切に保護され、樹齢は推定約200年とされています。
このブナが芽を出そうとした頃、茶屋峠を通過したのが、千石船の船頭大黒屋光太夫とロシア最初の遣日使節アダム・ラクスマン一行でした。
光太夫は伊勢白子(現在の三重県鈴鹿市)から江戸に向かう途中、嵐によって難破し、ロシアでの10年にもわたる漂泊の旅の末に根室に帰り着きました。
幕府との通商交渉を目的とするラクスマンとともに1793年(寛政5年)夏、箱館から交渉場所に指定された松前に向かう途中、茶屋峠を通過しました。ラクスマン一行の行列は松前藩士ら総勢450人という大規模なもので、峠で休息しています。
酷寒と荒涼としたシベリアの大地を越えてきた光太夫の目に久しぶりの日本の山河はどのように映っていたのでしょうか。
殿様街道は、福島町千軒地区の豊かな食と地元に伝わる文化あってこそ。ウォーキング終了後、地元名産の千軒そばを食べられるほか、国の重要無形民俗文化財に指定されている松前神楽の鑑賞会も堪能できます。
2023年秋の殿様街道探訪ウオークは10月21日(土)に予定されています。参加人数に限りがありますので、参加希望者はお早目に福島町観光協会にお申込みください。
福島町観光協会:https://be-happy-fukushima.com/