穂高岳とホタカと海の民 | フカボリ山の文化論 第3回

この連載は「体育会系」ではない「文化系」の山登りの楽しさを広めるため企画されました。「文化系の山登り」とは、山に登る時、事前にその山の歴史や文化を知ってから登る事。そうする事で、普段なら見過ごしてしまうような何気ない山の風景にも深い意味があることに気がつくでしょう。もっと山を深く楽しむために、レッツ文化系山登り!

連載第3回目のテーマは「穂高岳」。安曇野(あずみの)という地名の謎から古代の海の民に関する壮大な物語が見えてきました。

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2020.01.31

武藤 郁子

文化系アウトドアライター

INDEX

 

安曇野に漂う「海」の気配

先日、たまたまつけたテレビで「北アルプスとドローン大縦走~天を突く白き槍ケ岳~」という番組を放映しておりまして、そのあまりの美しさに思わず息を呑みました。

北アルプスと言えば、やっぱり槍ケ岳なんでしょうね。憧れますよね。しかし、北アルプスと聞くと私がまず連想するのは穂高岳→上高地→安曇野、そして「海の民」なのです。

子どもの頃、両親に上高地へ連れて行ってもらうたびに、「安曇野」という地名に疑問を感じていました。古代史ファンだった私は、「安曇(アヅミ)」は「海人族」を代表する氏族を指す言葉だと認識していたからです。「海人族」とは、海を航行する技術を持った「海の民」のことで、安曇氏は、古代日本において「海の民」の統括をしていた氏族の一つなのです。

りすさんの活動日記から/上高地はかつて「神会地」「神垣内」などとも表記されてきた場所で、とても古い聖地

海の近くでしたらわかりますが、これだけ内陸の高山近くに、海人族ゆかりの地名があるのは不思議です。そして「穂高岳」もそう。「穂高」という名前も、日本神話に登場する海の神・穂高見命(ホタカミノミコト)を連想させます。3000mを超す内陸の高山に、どうして海の神の名前が付けられているのだろう? と不思議に感じていました。

しかしその謎の答えは、大人になって調べてみたら、意外にシンプルでした。遠い昔、現在安曇野と呼ばれる地域に、「海の民」阿曇(アヅミ)族(氏)が移住してきたから、ということなんですね。そういえば、穂高見命は阿曇(以下アヅミ)族の祖神(おやがみ)です。つまり、穂高岳はこの神の名をとってつけられたということなんだな、なるほど!…と思いました。

でも、でもですよ。だとしても、内陸の高山の麓に、海の民がやってきたということの答えにはなっていません。なぜ、海の民がこの地にやってきたんでしょう。

中国江南部から志賀島へ――海の民の系譜

さて、ここでアヅミ族について、ちょっとフカボリしておきましょう。

アヅミ族は、古代を代表する氏族の一つで、福岡県の志賀島とその対岸地域を発祥地とし、本拠地としていた海人族でした。

志賀島と聞くと、日本史の授業を思い出す人もいるかもしれません。あの「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」の金印が発見されたところです。この発見で、古代中国の正史『後漢書』に登場する「奴国(なこく)」が、実在していたことがわかったという話。何となく覚えている人もおられると思います。この金印が出たあたりが、アヅミ族の本拠地。そのため、アヅミ族とは、奴国王の流れではないかと考える人もいるのです。

コックンさんの活動日記から/志賀海神社は「海神の総本社」と称えられた古社。綿津見三神を祀り、阿曇氏が代々宮司を務めている

さらにさかのぼるとその大元は、中国大陸の江南地域(揚子江下流周辺)ではなかったかと考えられています。このあたりには、爬虫類の「ワニ」をトーテム(祖神)とし、龍蛇信仰を持った海人族が住んでいたらしいのですが、その人たちが日本にやってきて、そこからアヅミ族も派生したということのようです。ちなみに彼らの一派は「和珥(わに)」氏と言い、大王の后妃を出すような氏族となり、ヤマト朝廷で大活躍しました。アヅミ族とは同族で、海人族全体を指すような氏族名でもあります。

アヅミ族や和珥氏は、最先端の航行技術を持っていましたが、同時に水稲耕作や養蚕、青銅器文化といった当時の最先端の技術も日本にもたらしました。「技術」とは、「人」ということです。彼らは優れた航行技術でもって、多くの「人」をももたらしたのです。

実のところ、当時(春秋戦国時代、紀元前8世紀~紀元前3世紀ごろ)の中国は、戦乱と環境破壊で疲弊しきっていました。そんな当時の人々にとって、日本列島は「海の向こうの別天地」といった認識があった可能性が高いのです。

おそらく段階的に、多くの移住者が海を渡りましたが、彼らを導いたのが、海人族――後代に阿曇氏、和珥氏と呼ばれた人たちだった。そして、日本列島各地にいくつも入植地を開きました。安曇野もそんな入植地であり、重要な拠点の一つだったということなのでしょう。

海の民が穂高の山麓を選んだ理由

それにしても、どうしてこの場所だったんでしょうか。海人族なら海の近くのほうが便利じゃない? やっぱりそう考えますよね。

奴国王族の末裔が、ヤマト朝廷の目をかいくぐるため、信濃の奥まで逃げてきたんじゃないか、蝦夷地開拓の兵站地とするように、ヤマト朝廷から派遣されたんだ…とか、そのほかにもいろんな説や伝説があるんですが、何となくしっくりきません。なぜだろう…と頭を抱えていましたが、龜山勝(かめやままさる)さんのご著書『弥生時代を拓いた安曇族』に次のような一文を発見しました。

――「(略)現在、日本全国にアヅミ、あるいはアツミやアスミなどと呼ばれる地名が付いたところがいくつかある。長野県の安曇野をはじめ、鳥取県米子市の安曇、兵庫県宍粟市の安積、石川県志賀町の安津見、滋賀県高島市の安曇川、愛知県の渥美半島、新潟県関川村の安角などがそれだが、これらの地は、アヅミ族が関係している地だと言われている。これらの地をまとめてアヅミ地と呼ぶ人もいる。(中略)
これらのアヅミ地には共通する特徴がある。海から陸に入った山の麓にある。湧き水が多い。土地が柔らかい。川が流れていて、その上を風が通り、海とつながっている。(中略)
今のように鉄製の鍬や鋤などがなく、木製の農工具で水田をつくるのに、水があって柔らかいもっともいい土地なのだ。アヅミ地には、今でも細い棚田というより沢に添った沢田がある」(『弥生時代を拓いた安曇族』龜山勝(龍鳳ブックレット)より引用)

なるほど~!!
確かにこの条件、安曇野そのものですよね。

なおさんの活動日記から/安曇野の風景と北アルプスの山々

龜山さんの分析によれば、上のような移住に伴う動きがあったのは、紀元前5世紀ごろの話。ですから、「奴国王族末裔の亡命」となると紀元後6世紀の話になるので、時代が合いません。6世紀ぐらいに、たしかにそのような政治的トピックスもあったかもしれませんが、もしあったとしても、自分を匿ってくれるだろうと考えて、同族(海人族)がいる場所へ逃げてきた、と考えた方がいいように思います。

「ヤマト朝廷から派遣された…」と言うのも何だか、中央集権を意識した後代の物言いな気がしちゃいますよね。それよりもっと早い段階で、この地にはアヅミ族の居留地があったと考えた方が、自然ではないでしょうか。

穂高岳とホタカミノミコト

さて、紀元前の話ばかりしてしまってますね。そんな昔のことはわからないという人もいるかもしれませんが、そんなアヅミ族の面影を今に伝えてくれている場所があります。それが、穗髙(ほたか)神社です。

穗髙神社は、大糸線穂高駅から徒歩3分の場所にありますが、こちらはいわゆる里宮。上高地の明神池の側には奥宮があり、奥穂高岳の山頂に嶺宮があります。

むーさんの活動日記から/穗髙神社の奥宮は明神池のほとりに建つ

穗髙神社の主祭神は「穂高見命」。海の神・綿津見命(ワタツミノミコト)の息子さんです。冒頭でお話したように、「穂高岳」はアヅミ族が移住してきて、祖神である穂高見命にちなんでそんな名前で呼んだのかな? と、うっすら思い込んでいたのですが、いろいろ調べると、どうもそういうことではない気がしてきました。あくまでも私見ですが、アヅミ族が来たから「ホタカ」になったのではなく、「ホタカ」という言葉(地名)が先行していたんじゃないか、と感じるのです。

「ホタカ」の「ホ」は、先端を表す「穂」であるとか、「とても」と言う意味での「秀(ホ、ホツ)」ではないかと言われますが、私はこのうちの「秀」と言う意味が強かったのではなかったかと思っています。そして「高」は、もちろん標高が低い高いの「高い」という意味もありますが、神々をほめあげるために使う時の「高」の意味も入っているのではなかったかと思うんです。あるいは「ホツ・アカ」だったかもしれない。古代語ではアカは生命や、暖色系の色全般を指します。山容に映る朝焼けや夕焼けの色彩を連想…。

masaさんの活動日記から/朝焼けの北アルプス(焼岳山頂)

これは、実際に安曇野のいずれか見晴らしのいいところから北アルプスの峰々を観てみると分かる気がするんです。見たこともないような高い山々が切れ間なく続いていくさまがドーンと視界に広がる。その圧倒的な存在感! 「うわあ!!なんて雄大!美しい山!」思わずそんなことを叫びたくなります。

私は人間ってそんなに変わらないと思うんです。古代の人々も同じように感動したんじゃないでしょうか。つまり、「ホタカ」とは、そんな感歎詞、神ほめの言葉のようなものではなかったか。そしてそこから発生した地名なのではないか、と。感覚的ではありますが、どうしても、移住者が祀っていた神の名前を元にして、後から付けたんだ、という感じがしない。もっと自然発生的な地名な気がするんです。

そんなふうに考えたもう一つの理由は、「穂高見」の「見」という言葉です。「見」というのは、単純に目で見るという意味もありますが、「統率する」「治める」といった意味もあります。つまり、「穂高見」とは、「ホタカを治める者」と言う意味ではないか、とふと思いついたのです。

ホタカミは「海の神で山の神」

ここで私の妄想を整理してみますと、まず、海のプロフェッショナル・アヅミ族は、海や川に関わる職掌集団で、一番大きな事業は大陸との交易・運送業。そして中国大陸やほかの土地からの移住者の居留地を拓く事業も始めて大成功。日本列島各地に、水稲耕作がしやすい場所を特定しては、移住者を運び、居留地を拓いた。現在の安曇野のあたりもまさにその一つで、重要な拠点だった…。

この地に移住したアヅミ族が名付けたのか、先住民がすでにそう名付けていたのかわかりませんが、あの山脈全体をホタカと呼び、尊んだ。そんな日々の中から、ホタカを統べる神格が新しく生まれた。それが「ホタカミノミコト」だった…。

神が新しく生まれるってどういうこと? と思われる方も多いと思います。しかし、このパターンと言うのは、けっこうあります。たとえばおそらく最も新しい御子神は11世紀に出現したと記されている、春日大社(奈良県)の若宮さんでしょう。11世紀ですからね、かなり最近の話ですよ。こんな例もありますから、あり得ない話じゃないと思います。

安曇野だけでなく、各地のアヅミ族の祖神の名前も「ホタカミノミコト」となっていたりするので、その伝播経路はどう説明するんだ!と指摘されてしまうと、思わず口ごもりますが、しかし、名著『日本の神々』(白水社)をみると、平安時代の書物『三代実録』では、「宝宅神」、『延喜式』の神名帳には穗髙神社 明神大」とあるだけで、意味としては「穂高に鎮座する神の社」であってこの段階で神の名前は明確ではない、しかし、アヅミ族がお祀りしているということから、その神の名前はアヅミ族の祖神であるワタツミノカミと考えられたのではないか、と推察しています。

穗髙神社。主祭神は穂高見命。左殿に父神の綿津見命、右殿に邇邇芸命(ニニギノミコト、天照大神の孫)を祀る(写真提供:穗髙神社)

こうして考えてみますと、そもそものアヅミ族の祖神は、志賀海神社の主祭神をみればわかるように、海神・ワタツミノミコトです。ホタカミノミコトとは、この土地に移住してきた海の民に顕れ出た海神の御子神で、海神の子ですが山の麓に顕れていますから、海神・山神両方の属性を併せ持つことになった、…と。そういうことではないでしょうか。ほとんど私の妄想ではありますが、そうすると、いろいろ矛盾がなくなる気がするんですよね。

…さて。困りました。
穂高岳のことを書こうとしていたのに、大前提のお話だけで、ずいぶん筆が進んでしまいました。しかし、本当はここから本番。編集のS氏にお許しをいただいて、穂高連峰のお話、そしてなぜ海の神と山の神両方の属性があったほうが矛盾しないのかについては、次回へ持ち越したいと思います! 申し訳ありませんが、少々お待ちくださいね。

(後編に続く)

関連記事:富士山と不老不死の物語 | フカボリ山の文化論 第2回
関連記事:穂高岳と「絶対禁足地」という仮説 | フカボリ山の文化論 第4回

トップ写真:Nonさんの活動日記から/笠ヶ岳からの北アルプス遠望

武藤 郁子

文化系アウトドアライター

武藤 郁子

文化系アウトドアライター

フリーライター兼編集者。出版社を経て独立。文化系アウトドアサイト「ありをりある.com」(http://www.ariworiaru.com)を開設、ありをる企画制作所を設立する。現在は『本所おけら長屋』シリーズ(PHP文芸文庫)など、時代小説や歴史小説などの編集者として、またライターとして活動しつつ、歴史や神仏、自然を通して、本質的な美、古い記憶に少しでも触れたいと旅を続けている。著書に、『縄文 ...(続きを読む

フリーライター兼編集者。出版社を経て独立。文化系アウトドアサイト「ありをりある.com」(http://www.ariworiaru.com)を開設、ありをる企画制作所を設立する。現在は『本所おけら長屋』シリーズ(PHP文芸文庫)など、時代小説や歴史小説などの編集者として、またライターとして活動しつつ、歴史や神仏、自然を通して、本質的な美、古い記憶に少しでも触れたいと旅を続けている。著書に、『縄文神社 首都圏篇』(飛鳥新社)、共著で『今を生きるための密教』(天夢人刊)がある。