登山を楽しむ私たちにとって、「遭難」のリスクは無縁ではありません。今回、長野県警山岳遭難救助隊・岸本隊長に、遭難の実態と命を守るために必要なことをお伺いしました。体力・計画・山選びの重要性から、いざというときの対処法まで、すべての登山者が知っておくべき安全登山の鍵を探ります。
2025.06.27
YAMAP MAGAZINE 編集部
圧倒的な美と静寂で人を魅了する山々。しかしその背後では遭難が絶えず、命が失われている現実もあります。一般の登山者が遭難の場に居合わせる機会はほとんどありません。現場では何が起こり、そこから何を学ぶべきなのか――。これは私たちが安全な登山を続けるうえで、欠かせない鍵となるはずです。
答えを握るのは、山岳遭難救助のプロフェッショナルたち。
そのひとつが、日本アルプスの麓で登山者を見守り、遭難者の命を救い出す長野県警察山岳遭難救助隊です。今回私たちは、隊を率いる岸本俊朗隊長にお話を伺う機会を得ました。
取材当日は山岳遭難救助隊の訓練日。切り立った断崖には、赤と黄のジャケットを身にまとった隊員達。岩にロープが張られ、緊張感に満ちた訓練が繰り広げられる現場。
その迫真の光景のもと、遭難による犠牲者を一人でも減らしたいという想いを秘めた岸本隊長に、遭難事故を防ぐために必要な準備や心構えをお話しいただきました。
お話を伺った方
岸本俊朗(きしもと しゅんろう) 長野県警察山岳遭難救助隊 隊長
千葉県出身。信州大学進学を機に登山に出合う。卒業後は民間企業に勤務後、2004年に長野県警察官に。07年に山岳遭難救助隊員の指名を受け、機動隊、松本警察署などでの勤務を経て、21年から現職。
聞き手
YAMAP安全推進事業部スタッフ。「YAMAPアウトドア保険」を取り扱う安全推進事業部は、登山保険の普及はもちろん、登山者の安全登山に寄与する発信や啓発を行う部署。今回は長野県警察山岳遭難救助隊のご厚意で、若手をはじめとした隊員の訓練の様子を見学しながら、岸本隊長にお話を伺う機会をいただいた。
長野県警「令和6年山岳遭難発生状況」をもとに作成
YAMAP:本日は、遭難をすることなく、無事に登山者が帰宅できるようにするための知識を、さまざまな角度からお伺いできればと思っています。よろしくお願いします。
岸本隊長:こちらこそ、少しでも遭難事故を減らすためのお話しができればと思っています。
YAMAP:早速ですが、最近の登山者や遭難者の傾向について、以前と何か変化を感じることはありますか?
岸本隊長:はい。最近は「無事救助」となるケースが非常に増えているのが大きな特徴ですね。「無事救助」とは、救助要請に応じて救助隊やヘリが出動するものの、ケガなどはなく救助されるケースの遭難を指します。
以前は、高い山での転倒や滑落といった、場所と状況が比較的わかりやすい遭難が多かったんです。長野県では、2024年の遭難者350名のうち、実に44%が「無事救助」となっています。
YAMAP:「無事救助」が多い背景には、どのような要因があるのでしょうか?
岸本隊長:だいたい「無事救助」となるのは、疲労による行動不能、道迷い、ちょっとした体調不良などが原因の遭難です。これは、体力不足や普段の運動習慣の欠如が要因となっています。
あとは、自身のレベルに合わない登山計画も大きな理由ですね。昔は、ある程度経験のある方が本格的な登山に挑むイメージでしたが、最近は比較的登山を始めて間もない方が、いきなり難易度の高い山に挑戦するケースも少なくありません。
YAMAP:やはり「無理のない計画」が重要なのですね。
岸本隊長:そうですね。ご自身の体力や経験を考慮し、段階的にレベルアップしていくことがとても重要です。長野県が作成している「信州 山のグレーディング」などを参考に、今まで登ってきた山とこれから登りたい山の難易度を比較してみてください。
YAMAP:レベルアップしていくには、やはりトレーニングが必要ですよね。
岸本隊長:そうです。登山は見た目以上に体力が必要なスポーツなんです。特に高い山を目指すのであれば、普段から継続的に運動習慣を持つように心がけてください。下山時まで、体力に余裕があることが重要です。
雑誌やウェブサイトでは美しい景色や食事がクローズアップされ、登山を旅行の延長のように捉えられているように感じますが、あくまで長距離歩行が必要なハードなスポーツです。
遭難してしまった方へ運動習慣を伺うと、そもそも運動習慣がなかったり、運動習慣があったとしてもウォーキング程度で、登山に必要な体力が不足していたりします。登山は決して楽なものではなく、誰でも行けるわけではないということを、改めて認識していただきたいです。
自分が登れる山はどこ?|登山の体力度と難易度【山登り初心者の基礎知識】
YAMAP: 登山中、特に気をつけることはありますか?
岸本隊長:こまめに水分・エネルギー補給をすることですね。特に女性はトイレを気にして水分を控える傾向がありますが、脱水は判断能力の低下を招き、遭難に繋がります。喉が渇く前に、こまめに水分とエネルギーを補給するようにしてください。補給してからエネルギーになるのには、30分〜1時間後と時間差があります。バテてしまったり、足が攣(つ)り始めてからでは遅いので、そうなる前にしっかり補給しましょう。
また、登山中だけではなく、栄養補給は2〜3日前から意識をすることも重要です。バテたり脱水状態になってしまった方に話を伺うと、夏バテで食欲がなかったとか、車中泊による睡眠不足でご飯を食べる気にならなかったという方が多いです。登山は長時間歩行を伴うので、十分な栄養補給は安全な登山に直結します。
YAMAP:ほかに登山中に気を付けるべきことはありますか?
岸本隊長:特に気を引き締めてほしいのが、下山時です。遭難事故は下山中に最も多く発生しています。疲労や油断から集中力が散漫になりがちなんですよね。小さな転倒や体のふらつきなど、遭難に繋がるサインを見逃さないようにすることも大切です。
実際に遭難した方は、遭難理由となっている転倒や滑落を起こす前に、予兆としてつまづいていたりするなど前触れがあったという話を聞きます。そういったヒヤリハットや疲労を感じたときは、こまめな休憩を挟み、慎重に行動してください。
YAMAP:YAMAPなどの登山地図アプリについてはどのようにお考えでしょうか?
岸本隊長:登山地図アプリはとても便利ですが、頼り過ぎるのは危険です。地図アプリは、あくまで補助として捉えてください。車のナビのように、地図アプリに依存している方は注意が必要です。
地図アプリだけの場合、バッテリー切れのリスクがあります。また、たとえ地図アプリを使っていたとしても地図の見方が分からない場合、アプリ上で示されている場所と自分の位置を照合できず、道に迷ってしまう方がいます。
地図アプリはあくまで補助的なツールとして、紙の地図を携行することをお勧めしています。紙の地図を使うには事前に練習が必要です。
YAMAP:紙の地図を使った練習はどのように行うのがよいでしょうか?
岸本隊長:事前に、紙の地図でコース全体(登山口、小屋、分岐、山頂、下山ルートなど)を確認し、現在地を把握する能力を養うことが大切ですね。事前学習(机上登山)を行った上でアプリを使うとルートの予測ができます。
登山時、特に分岐ではその都度確認することが大切です。迷った後にアプリを見て道迷いに気づき、登山道を外れていることが分かっても、どうすることもできずに救助要請する方もいます。
訓練として、あえて地図アプリを使わずに紙の地図だけで登山してみるのもよいと思います。
YAMAP:遭難してしまった場合、救助隊から登山者にどのようなことを伝えているのでしょうか?
岸本隊長:基本的には、体力を温存し、無駄な動きをしないように伝えます。また、携帯電話のバッテリーを節約し、必要なとき以外は通話しないようにお願いします。風雨を避けられる場所を探したり、持っているもので体を保温したりするよう、具体的に指示することもあります 。
翌朝の救助について連絡する際には、改めて電話をする時間を伝え、それまでバッテリー切れを起こさないようにしてもらいます。
YAMAP:遭難に備えて、どのようなことに気をつけるべきでしょうか?
岸本隊長:何よりも、家族や友人に登山計画を伝えておくことがとても重要です。単独で登山中に事故に遭い、自分で通報できない状況になった場合、誰にも気づいてもらえない可能性があります。登山地図アプリの見守り機能(YAMAPの「みまもり機能」など)を活用することも有効ですね。
YAMAP:山行スタイルで気を付けるべきことは?
岸本隊長:人が少ない時期・場所への単独登山は、避けるべきだと考えています。万が一遭難したときに、発見するのがとても難しくなります。それと、視認性のよい色のウェアを着用することは、早期発見につながります。黒やアースカラーは発見されにくいです。
YAMAP:実際に救助活動が発生した場合、どのくらい費用がかかるのでしょうか?
岸本隊長:ケースバイケースで一概には言えませんが、民間の山岳遭難対策協議会(遭対協)の方に救助を依頼する場合、一人あたり1日4、5万円程度の費用がかかることがあります。また救助に関わる人数が増えれば、費用も高額になりますね。さらに、冬山などでスキー場の車両などを使用した場合も、別途費用が発生することがあります。
以前は、捜索救助活動を民間ヘリコプターが担っていた時代があり、高額な費用が掛かかっていたことがありましたが、現在は、警察等の公的機関のヘリコプターで捜索救助活動を行うため、そういった高額な費用を請求をすることはありません。ただし、初期の救助活動に民間の遭対協の方々が協力してくださる場合は費用が発生することがあります。
YAMAP:遭難における登山保険の重要性について、どのようにお考えですか?
岸本隊長:救助要請を受理した際、民間の遭対協の方に救助を依頼するときは、本人またはご家族に、登山保険に加入しているか確認しますね。保険に加入していない場合、高額な費用が自己負担になる可能性があり、民間の救助を依頼できない、もしくはためらうケースもありました。
長野県では、登山者の保険加入を条例で推奨しています。万が一の事態に備え、登山保険には必ず加入していただきたいです。
YAMAP:山岳救助隊として、登山者に向けて特に伝えたいことはありますか?
岸本隊長:車を運転する方が、絶対に事故に遭わないとは言い切れないのと同じように、山でも絶対に遭難しないということはありません。どんなに注意していても、予期せぬ事故は起こりうるものです。その可能性を常に頭に入れ、必要な準備をしっかりとしてほしいと思います。
YAMAP:本日はお忙しい中、貴重なお話を伺うことができました。ありがとうございました。
遭難救助のための訓練にあたる新人隊員たち。こうした訓練のもと、遭難救助の現場は支えられている
取材当日は、長野県警山岳遭難救助隊の新人隊員の訓練の様子も見せていただきました。岩場でロープを使用した訓練を行う隊員の表情からは、ロープに身を任せなければいけない恐怖心と、実践を通じて技術を磨きたいという意欲が入り混じった緊張感が伝わってきました。
隊員は自ら志願し入隊しているそう。岸本隊長はもちろん新人隊員の皆さんも、人命救助を行うことを誇りにしていました。特に印象的だったのは、遭難者に対する批判的な声が一切なかったこと。体を張って救助にあたる彼らがいてくれるから登山を楽しむことができるのだと実感しました。
今回お伺いしたお話は、いずれも登山者ができる、遭難事故を減らすための一歩になるはずです。私たちYAMAPも全ての登山者が無事に下山できるよう、これからもこうした安全登山に関する情報を発信していきたいと思います。
登山にあたり、命を守るために身につけておくべき装備・道具や、知っておくべき知識・技術は色々ありますが、登山保険もぜひ入っておきたい、大事な備えのひとつ。
ヤマップグループの「登山保険」は、いざ遭難救助が必要になったときの高額費用を最大300万円まで補償し、登山中に負ってしまったケガについても部位・症状別に保険金をお支払いします。
また、遭難・行方不明時には、早期発見に繋げられるよう、同じ日、同じ山に登っていた人に、あなたの目撃情報を募るサービス(特許出願中)が付帯する、YAMAPならではの登山保険です。
承認日:2024年12月11日(追認)
承認番号:YN24-125