ストイックなイメージを持たれがちな登山とは異なり、誰もが自然とのつながりを気軽に感じられる「フラット登山」。この新しい歩く旅を実践するのが、作家・ジャーナリストとして活躍する佐々木俊尚さんです。
佐々木さんが新著『歩くを楽しむ、自然を味わう フラット登山』(かんき出版)で提唱する「フラット登山」が生まれた背景や、五感で楽しむ「官能的な山道」などの考察を、YAMAP代表の春山慶彦がお聞きしました。
2025.06.10
YAMAP MAGAZINE 編集部
作家・ジャーナリストの佐々木俊尚さん(左)
YAMAP代表・春山慶彦(以下、春山): 佐々木さんの新著『フラット登山』を拝読しました。佐々木さんご自身の豊富な山の経験を通して、今の時代にマッチするよう、登山や歩くことの楽しさを再定義し、魅力を言葉にされています。「フラット登山」という概念を本にまとめようと思われたきっかけをお聞かせください。
作家・ジャーナリスト 佐々木俊尚さん(以下、佐々木): 2011年3月11日の東日本大震災あたりから、社会の空気感が大きく変わってきたように感じています。
贅沢をしてリゾートへ行くよりも、「もっと地道に日常を楽しみたい」「自然の気持ちよさを味わいたい」と考える人がすごく増えましたよね。実際、震災前の2010年ごろには山ガールのブームがあり、登山をする人が一気に増えました。
ただ、「山登りが好きなんです」「やってみたいんです」と話している人に聞いてみると、東京圏だと、最初は高尾山の舗装された1号路を歩いている。そして次に富士山に挑戦し、ただ単調な登りに「山は辛い」というネガティブなイメージを持ったまま去ってしまうパターンがすごく多い気がします。
富士山と高尾山は日本の象徴的な山ではありますが、山が身近にある国土で、それだけしか登らないのは、あまりにももったいない。
山に慣れてくると、急登があろうと普通に歩けるようにはなりますが、そこにいたるまでの期間の長さや辛さに根を上げてしまう人が多いのが、課題に感じていました。
私自身、20代のころは岩壁登攀や冬山登山に熱中していましたが、30代からは仕事が忙しくなって山から離れていました。しかし、転職、独立を経て、40代の終わりに同好会のような集まりに参加し、たまたま仲間たちと登ったのを機に山に戻ってきました。
そして、この10年ぐらいは、山の仲間たちと「山頂を目指さない登山」のような活動を頻繁に行っています。
長さを競う側面もあるロングトレイルとは違って、日帰り、せいぜい5、6時間程度を気軽に歩くというのを続けていたら、ある日、ふと気付いたわけです。
「別に山頂に行かなくてもいいし、急登を登る必要もない。気持ちのいい平原や湿原、峠道を歩いていればそれで十分じゃないか」
そして、つらい思いをしないで、誰でも自然を楽しめる「フラットな登山」という概念があってもいいんじゃないか、と思うようになったのがきっかけです。
春山: 「登山」という言葉のイメージが、世代によって違うのは、YAMAPを運営しながら実感しています。60代以上の方にとって、登山という言葉は、冒険や探検のイメージが強い…。
佐々木: あとは日本百名山とかですね。
春山: 頂上を目指す、ということですよね。もう少し上の世代だと、冒険家の植村直己さん(1941〜1984年)のようなイメージでしょうか。人類未到の地で困難を乗り越え、偉業を達成するという冒険のイメージは、現代にはあまり馴染みがないのかもしれません。
実際、40代以下、特に20代〜30代になると、登山にそういったストイックなイメージを思い浮かべる人はそう多くありません。
むしろ、自然の中で過ごすことによろこびを感じ、都市部にいるときとは違う考えや関係性が育まれることに、価値を感じている人が多いのではないでしょうか。
佐々木: 確かに、私の世代は昭和なので、「最終的にはヒマラヤの高峰を目指すんだ」という意識がすごく強かったです。
今の若い世代はそんなことは全然考えていませんよね。未踏峰を目指すような先鋭的な登山をやりたい人もいますが、それとは別に、野山に単純に親しみたい人が多い。ただ、それがまだ十分に定義されていない感じがします。
「それならハイキングでいいじゃないか」という意見もありますが、ハイキングという言葉の定義も揺らいでいます。
本来の英語の意味だと、ウルトラライトハイキングとか、わりと本格的にトレイルを歩くのが「Hike(ハイク)」ですから。そうすると、ハイキングという言葉で表現するのも、違和感がありました。
イギリスにはフットパスのような言葉があるように、日本の野山で、日本らしい場所を歩き、そこに辛さを伴わない山歩きというものに対して、もう少し再定義をしてもいいのではないか──。
そこで、「フラット登山」という、一見矛盾しているような言葉を当ててみたのです。
春山: 「フラット」と「登山」が組み合わさることで、「歩く」という行為そのものに焦点が当たるように感じます。
「フラット登山」がすごくいいなと思ったのは、既存の登山は、日本百名山のように、山そのものに関心が向きがちで、「道」にもっと焦点を当てるべきではないかと思っていたからです。
歩いて気持ちのいい道というのは、やはり風景が美しい。そして、植生だけでなく、建造物があったとしても、心地よい雰囲気を作り出しています。
山の自然を守ろうという考えが多くの人にあっても、「道をよくしよう」「いい道にして次世代につないでいこう」という視点は、薄かったように思います。
佐々木: 「いい山」という言葉の、「いい」の定義が曖昧なところがありますよね。例えば、富士山が「いい山」というのは、「形がいい」ということ。
でも、実際は、富士山に登っているときより、近所の竜ヶ岳(1485m)とか三ツ峠(1732m)といった周辺の山から眺めている方が気持ちいいじゃないですか。
結局、「いい山」と言うと、北海道の利尻岳(1721m)や北アルプスの奥穂高岳(3190m)、南アルプスの北岳(3193m)のような形のいい山を指しがちです。
形は特筆すべきものではなく、ただの丘陵なんだけれども、歩いているとすごく気持ちがいい。そういうのが素晴らしい山道だと思います。
本でも紹介しましたが、長野県の霧ヶ峰(1924m)や美ヶ原(2034m)などは、見た目はただの丘ですが、歩くと最高に気持ちがいい。そういった道への焦点の当て方は、これまであまりされてこなかったように感じます。
春山: 佐々木さんの言葉で印象的だなと思ったのは、いい山道の表現として「官能的」という言葉を使っていたことです。
これも独特な表現で、「官能」と「山道」という組み合わせ自体が素晴らしいセンスですし、すごく納得しました。「官能的」という言葉を選ばれた理由をお聞かせください。
佐々木: 十年ほど前に、知り合いが運営している、ライフルホームズ総研という不動産業界のシンクタンクがありまして、そこで「官能都市ランキング」というものが作られました。
よくある「いい街」というと、大きな街や新宿、池袋などが上位になりがちです。
しかし、官能都市のランキングでは、1位が東京の文京区の谷や坂が多く、陰影のある街だったり、金沢だったりしたわけです。都市を「官能」という観点から見ると、当時から非常に面白いと感じていました。
そして、山道の魅力とは何だろうと考えた時、官能都市で言われていたような、発見や出会いがあったり、美味しいものが食べられたり、そういった五感に訴えかけてくる感覚が大事だと気づくようになりました。
本来的な「官能」というのは、エロティックな意味合いが全くないわけではないですが、もっと五感にグサッと突き刺さるような身体感覚を指す言葉なんです。
ですから、この『フラット登山』の中では、「官能」という評価軸で様々な山道を考えてみるため、5つほどの官能の指標を挙げています。
例えば、行ってみたらすごく広大で、目の前に地平線が広がっていて「うわぁ、広い!」と感じるような体験。
あるいは、道が苔むしていたり、落ち葉が積もっていたり。自然景色に富んでいて、木道があったり、普通の登山道があったり、色々な場所を歩けて足が気持ちいい、という感覚。
さらには、異世界に迷い込んだような感覚。行ってみると「ここは一体どこなんだろう?」と感じるような場所ってありますよね。 そういったものや、スピリチュアルな、霊的な雰囲気を感じる場所。
そういった評価軸で色々な山道を考え、評価してみるのは非常に面白いのではないかと思い、本にまとめてみました。
春山: つまり、五感や感性で山道を捉えるということですよね。
佐々木: そうですね。足が痛いとか、登っていて苦しいとか、そういったこと以外の部分に、実は本当のよろこびがあることに、気づいてほしいです。
春山: 日本はいたるところに山があります。明治以降に近代アルピニズムが入ってきたと言われますが、それ以前は修験道や富士講のように、生活と密接に結びついた形で山との関わりがありました。
「官能的」という視点で山や道を見た方が、山の良さや日本の自然の多様性といった価値に、より光が当たるのではないかと感じました。
佐々木: 最近、国土交通省が数年前から「ウォーカブルシティ」という概念を提唱しています。歩きやすい街、ということですよね。
例えば、アメリカには歩きやすい街があまり多くありません。ニューヨークやロサンゼルスでも、基本的には車の街です。
数年前にテキサス・オースティンでサウス・バイ・サウスウエスト(世界最大級の複合型イベント)に参加したことがありますが、ブロック間の距離があまりにも長すぎて、歩いても歩いても隣のビルにたどり着かない、というような感じでした。
摩天楼が林立し、車で移動するのが未来の都市だ、というイメージがかつてはあったと思います。 それをモデルにしたのが、東京・西新宿の高層ビル街。行ってみるとわかりますが、ビル風も強いし、歩いていてこれほど楽しくない場所はない。
東京の街で言うと、ここ10年ほどで人気が高まっているのは、西荻窪や代々木上原といった、路地が多く陰影があり、小さな個人経営の店がぎっしり立ち並ぶ、ぶらぶらと歩ける商店街のような場所です。
やはり、そういった歩いて楽しみたいという人々の期待や欲求が高まっているのは間違いないでしょう。 移動はどんどん自動化されていきます。新幹線に乗れば自動的にどこへでも行けますし、飛行機に乗ればすぐに福岡に着いてしまう。
自動運転や無人タクシーが普及し、座っているだけで目的地にドア・ツー・ドアでさらに楽に移動できるようになると、逆に歩くよろこびが見直されるはずです。
田舎の山に行こうが都会を歩こうが、それはもはや都会か田舎かという問題ではなく、あらゆる場所で歩く楽しみを見つけていくことが、これからの人間にとって非常に重要な楽しみになっていくでしょう。
春山: 歩くという身体行為に重点を置くようになると、都市設計のあり方も自ずと変わってくると感じています。東京や名古屋、大阪のような大都市においては、歩いて楽しい場所と、車やその他モビリティが移動する場所を、明確にわける発想があってもいいかもしれません。
歩いて楽しい空間が都市に内包されている方が、都市の価値も上がるのではないでしょうか。ドーナツ化現象が起こるのは、結局、中心部で歩いていても楽しくないからです。
車の移動を完全に排除するのは難しいとしても、この場所は歩けるエリアにする、だから車はなるべく締め出す、というように、部分的にでも歩行者と車を分けてもいいように思います。
佐々木: 日本の県庁所在地レベルの都市では、歩きやすい街とそうでない街がはっきりと分かれていますよね。
九州で言うと、福岡や熊本は比較的歩いて楽しい。宮崎や大分はあまり楽しくありません。東北でも、仙台や盛岡は歩きやすいですが、秋田や山形はあまり歩きやすい感じがしません。同じ地域でも、歩きやすい街とそうでない街がくっきりと分かれています。
歩きやすい街に行くと、今でもアーケードの商店街が残っていたり、個人経営の飲み屋街があったりして、どこかホッとするところがありますよね。そういった場所にみんな行きたいという気持ちが高まっているのではないでしょうか。
ただ、この本で言いたいのは、都会の散歩と山歩きを分けて考えず、全てをシームレスに、一つの「歩く」という行為の中で捉え直してもいいのではないか、ということです。
ですから、『フラット登山』というタイトルには「登山」と付いていますが、後半のコースガイド30選の中には、都市部の公園を歩くようなコースも入れました。
春山: 「歩く」ことを中心に据えた街づくりや都市設計に感じているもうひとつの可能性は、建物の1階部分が変わることです。1階部分が今以上に道や外に開かれることで都市の風景が劇的に変わると思います。
全国各地で、1階のスペースが駐車場になっている住宅やビルをよく見ます。車中心の街づくりだと、車のスペース分だけ道から建物を後退させなければなりません。その結果、道と建物、道と人との関係性を育む縁側のような空間がなくなっている。
けれど、「歩く」ことを中心に据えた都市設計であれば、カフェスペースができたり、道と建物の間の曖昧な空間の設計が可能になったり、訪れる人と迎える人の関係性にもう少しグラデーションが生まれるのではないかと思います。
私たちは土地や建物を「所有する」という概念に囚われがちです。しかし、建物も土地も本来は「預かっている」もの。1階はもっとパブリックで、開かれた場にするという考え方が、歩くという行為を大切にする人であれば理解してもらえるのではないでしょうか。
佐々木: 確かにそうですね。昔の日本の家には1階に縁側があったり、町家では玄関の土間が誰でも入れるオープンな空間になっていたりしました。
最近の再開発では古い家屋がなくなり、小さな家がたくさん建ち並ぶエリアでは、1階が駐車場になっていて、人がいるのかどうかさえわかりません。
昔は、街を歩いていると、住宅街の中でも台所の様子が少し見えたりして、誰かが食事の準備をしていたり、料理をしているのが見えたりしたのですが、そういった人を感じる情景が街からなくなってしまいました。
春山: 日本の古い宿場町を歩いていると、やはり縁側があります。宿が開いているときは中と外が一体化しているというか、気が流れている感じがして、宿場町の独特な空気感になっています。
宿場町や家の構造、そして道はパブリックであるという考え方まで「日本の歩く文化」として醸成することができれば、スペインの巡礼路、カミーノ・デ・サンティアゴとは異なる魅力的な道を、世界中の人たちに発信できると感じています。
佐々木:ショッピングモールなどは、縦に長い建物が多いですよね。最近できた麻布台ヒルズもそうですが、建物の中に入らなければならない。そうなると、通りというかパブリックな空間から隔絶されてしまい、外の世界とシームレスにつながっていないように感じます。
先日、東京西部の立川市に行ってきたのですが、そこのまちづくりは、今後の歩きやすい都市設計の参考になるかもしれません。
立川にはもともと、立川飛行機という会社があり、現在は立飛ホールディングスという名前で市内に広大な土地を所有し、再開発を進めています。
自衛隊の施設などもありますが、昭和記念公園という巨大な公園とシームレスにつながる形で、ウェルビーイングをうたった「グリーンスプリングス」という新しいモールが作られていました。
そのモールは高さがなく、2、3階建て程度。その代わりに横に広がっています。土地があるからできることではありますが、そうすることで周囲のエリアとモールの中庭が一体化し、中庭を囲むように2階建て程度のショッピングモールが配置され、外側と内側が綺麗にシームレスにつながっていました。
こういった、外に向かって開かれたモールというのは、比較的新しいトレンドとして出てきているように感じ、これは一つの良い方向性ではないかと考えています。
春山: 借景の概念に近いですね。風景やランドスケープを重視し、それに沿う建築を作る。その方が、地元の人にも愛されますし、風景と場所、そして建物での交流も含めて楽しめますね。
一つの建物だけで勝負しようとすると、どうしても評価軸が「綺麗か」「高いか」といった偏ったものになりがちです。日本の特異性はハイコンテキストな文化になるので、何かひとつ単体ではなく、複数の価値軸を組み合わせることで非常に際立つ場の設計や、建物の見せ方が可能です。
そういった意味で、場の捉え方が変わってきていることと、「歩く」という行為に再び光が当たっていることは、どこか通底しているように感じます。
流域のイメージ図(出典:YAMAP流域地図)
佐々木: エリアで考える、という意味では、ちょうどこの10年ほど、慶應義塾大学名誉教授の岸由二さんがおっしゃっていた、流域で物事を考える「流域思考」という考え方は、まさにエリアで考える一つの方向性だと思います。
家にこもって閉鎖的な共同体、閉鎖的な土地、閉鎖的な一つの山で考えるよりも、もう少し横につながっていく感覚。この感覚の良さが、おそらく広がってきている価値観なのではないでしょうか。
春山:岸先生の流域思考は、地域を「流域」という水の流れでとらえる考え方です。人間が作った行政区分ではなく、水という自然現象に基づいた区分で地域を捉えられるので、非常に面白いと思いました。
流域という考え方のもう一つの素晴らしさは、誰もが必ず山や川、水とつながっているという当たり前のことが再認識できることです。
自分の地域を流れる川を遡っていけば、その源流である山、つまり故郷の山がわかりますし、その故郷の山の水が川となり、街を通り、海に注いでいく。
こういった地域の捉え方で、山や街を歩いて楽しむことができるのは、非常に面白いと感じ、昨年、YAMAPで、自分たちがどの流域に属しているかがわかる『流域地図』をリリースしました。
佐々木: 川のように「ライン」で考えるというのは、非常にいいなと思っています。昭和の有名な建築家であった故・黒川紀章さんがおっしゃっていたのが、街の中心についての日本とヨーロッパとの違いです。
ヨーロッパの街には中心がありますよね。広場があって、そこにカフェや市役所、教会などがあり、そこから放射状に街が広がっていく。
それに比べると、日本の街にはあまり明確な中心がありません。京都の街は碁盤の目状になっていますが、中心はどこかと聞かれると、よくわからない。京都御所なのかと言われると、それも何か違う気がします。黒川さんは「中心がないことこそが京都の良さだ」と書いていました。
別の例では、四国の徳島の阿波踊り。徳島の街自体には中心となる場所がありませんが、広場で行われるのではなく、通りに沿って踊りながら進んでいきますよね。
つまり、日本の街の中心は広場という「点」ではなく、街道という「線」なのです。線と線でつながっていくという「流れ」が、日本人の考え方や都市設計の中心にあるのではないか、と提示されていて、非常に納得できました。
春山: 昔、川は道そのものでしたし、 物資なども川を通って運ばれていました。
佐々木: 交通網でもありました。例えば福岡という場所は、福岡県でもあり九州の一部でもありますが、「ライン」で考えると、飛行機の便で東京と直接つながっていて、しかも駅から空港までが近い。
そういった一つのライン上にあるとイメージすると、福岡から鹿児島に行くよりも、福岡から韓国・釜山の方が近い、ということも言えます。それはラインでつながっているからです。
このように、エリアというものをもう少し根底から捉え直し、川や流域、あるいは交通といった様々な概念で再構築してみるのが面白いのではないでしょうか。
山登りも同じです。頂上を往復するだけでなく、どうやって山域や街をつないでいくか。そこにいかにトレイルを見つけるかという点が面白い。これは「フラット登山」の考え方とも共通すると思います。
YouTubeで動画をみる:「フラット登山」 という歩く楽しさ【前編】作家・ジャーナリスト 佐々木俊尚× YAMAP 春山慶彦
YAMAP MAGAZINE後編はこちら:AI時代における歩くことの可能性|作家・佐々木俊尚さんに聞く、新しい徒歩の旅【後編】
佐々木さんの新著はこちら:『歩くを楽しむ、自然を味わう フラット登山』(かんき出版)