日本人が幸せになるために、都市から離れ、自然の中での「感覚」を取り戻す重要性を訴え続けてきた解剖学者の養老孟司さん。その考えは、アウトドアを趣味とする人にとっても、きっと共感するところが多いはず。感覚を軽視してきた現代社会の課題や、幼児教育における自然体験の価値、そして、第2の拠点となる場所の重要性。私たちが忘れかけている「自然とともに生きる幸せ」について、養老先生にじっくりお聞きしました。
2022.09.15
YAMAP MAGAZINE 編集部
YAMAP代表 春山慶彦(以下、春山)
本日はお時間をいただき、ありがとうございます。YAMAPの春山と申します。YAMAPは、簡単に言うと携帯の電波が届かない山の中でもスマートフォンで現在地と登山ルートがわかる登山地図GPSのアプリです。 YAMAPの創業や事業の展開に関して、養老先生の著作やお考えに影響を受けた点も多く、今日はお会いできるのを楽しみに来ました。よろしくお願いします。
解剖学者 養老孟司さん(以下、養老)
わざわざ箱根までお越しくださり、ありがとうございます。この取材のちょっと前に長野の鋸岳から帰ってきた虫好きの若者と話していたんですが、YAMAPを使っていると言っていました。僕ら、虫が好きな人間のことを「むしや」って呼んでるんですけど、むしやもYAMAPを結構使っている人が多いみたいですよ。
春山
それは嬉しいですね。
春山
養老先生のご著書をいつも読ませていただいています。先生がおっしゃるように現代日本が抱える大きな課題は「人々が身体を使ってない」ことだと私も考えています。今日はこの話題から始めたいと思います。
例えば、1950年代まで、農業・漁業・林業などの一次産業に携わる人の数は1,500万人ほどいて、日本の就労人口の約半数を占めていました。今は200万人ほどに激減しています。多くの人が、一次産業ではなくサービス業などの三次産業の仕事に就き、かつ、都市化が急激に進んだこともあって、多くの日本人が自然の中で身体を動かす機会を失ってしまいました。
とはいえ、人間も生物です。私たちの身体は、パソコンやスマホを使うためではなく、自然の中で生きぬくためにこういう身体の構造になっています。身体性の原点に立ちかえり、自然と人間の関係性を深める営みとして、登山やアウトドアは現代社会において必要なアクティビティだと思い、2013年にYAMAPを立ち上げました。
登山やアウトドアであれば、優しく無理なく都市と自然をつなげられるのではないかと思うんです。自然の中で身体を動かす。その中で、自分たちの命が自然や地球とつながっているということをリアルに体感する。
知識を先行させるのではなく、自らの身体で体験することから始めないと、人は本質に気づきづらいのではないか、生きていることのよろこびを実感しにくいのではないかと思っています。
養老
おっしゃる通りですね。現代社会は、感覚から入るものを非常に軽視しがちなんですね。子どもたちの自然体験が典型的な例なんですが、僕らの時代には、野山で遊ぶうちに知らず知らず受け取っていた感覚知が、今の子どもたちには充分に入っていないのではないかという、心配があります。
現代社会は、勉強すればなんでも頭に入ると思っている。でも、それ以前にある感覚が実は人にとって非常に重要なんです。
「入力と出力」といえば分かりやすいでしょうか。身体で感じることは「入力」ですね。で、それに反応するように身体を動かすのが「出力」です。その入出力を繰り返して行くことで、脳の中ではルールができていくんですね。それが人にとっての学習の始まりなんです。
養老
例えば、生まれつきハンディキャップがあり、自力での移動が困難な子どもは、いろんな発達に影響が出てくることが分かっています。そういったケースの場合、無理やりでも自力で動く方法を与えて、自分で動けるように工夫してあげるわけです。
脳性小児麻痺の場合には、ベルトを装着して軽く持ち上げれば体重が軽くなりますから、その状態ではって動ける状態をつくってあげる。そうやって動けるようにすると、見ている景色がバーッと変わるわけです。
何かに一歩近づくと対象物が少し大きくなって、もう一歩近づくと、より大きく見える。同じものでも距離によって大きさが違って見えるわけです。それを繰り返していると、脳はルールを発見していくんですね。「近づくに従って大きく見える」いわゆる距離と大きさの比例関係です。比例なんて、学校の算数で習うんだって思い込んでいますが、実はそうじゃなくて小さい頃からの体験の積み重ねで、脳はその本質を発見しています。
そういうことを繰り返しやっていくと、脳は育っていく。遠くにあるものと近くにあるものは違って見えるから別なものだ、と認識するのではマズいんですね。同じものでも遠くにあれば小さく見えるし、近くによれば大きく見える。そういったルールを脳は体験を通して学習しているのです。
春山
先生が今春に出された、デジタル世代の教育についての対談集『子どもが心配 人として大事な三つの力』(PHP新書)を拝読したのですが、「自然体験は子どもの成長にとって、非常に重要だ」と書かれていました。
ですが、現代の教育において自然体験は、それほど重要視されていない。どちらかというと、脇に置かれてしまっているような気がしています。
養老
戦後、今の学校教育が始まった頃は、野育ちのやんちゃな子どもたちを学校に集めて「おとなしくじっと座ってなさい」っていうことに意味があったんですが(笑)。
今はそもそもおとなしくて座っている子どもが多い。じっと座ってテレビやパソコンを観てる時間が長いですよね。そういう環境の中で育つと、出力の機会がないんです。
春山
今の時代にあっては、むしろ教室を出て自然の中に身を置くことの方が大切だということですね。
養老
だから学校は子どもたちが遊ぶ場所にしてしまって、学業は家でやった方がいいんじゃないかとすら、思っています(笑)。
春山
そうですね。学校の役割も大きく変えていく時期に来ているのだと思います。学校という「人工的な箱」の中で完結するのではなく、自然の中、外に開いていった方がいいですね。
養老
結局、楽だからそうしてるんですね。集めて静かにさせておくと大人としては楽。子どもが静かにしているわけないのですが、それを無理やりやらせてしまっている。
春山
自然体験を通して、自分たちの命が地球とつながっているということを身体で理解できれば、風土への思いや自然環境への感性が自ずと育っていくと思います。感覚や感性が素直に整っていれば、知識はあとからでも十分キャッチアップできる気がします。
春山
とはいえ、今の日本の自然をみてみると、これほどまでに、山川海の風景を壊し、コンクリートで固めてしまった国も珍しい。風景・風土と自分たちの暮らしが地続きであることの実感が希薄になってしまったがゆえに、風景・風土が壊れていくことに私たちは鈍感になっているのかもしれません。
自分たちの命は、風景・風土と一体であるという感覚。気候変動で、自然環境が大きく変化していく時代にあって、この感覚は極めて重要になるのではないかと思っています。
養老
いわゆる故郷(ふるさと)ですね。確かに、故郷を持たない人が増えてしまった。
春山
「人と風土のつながり」と、日本の自然観というのは密接に関係してますよね。精神性というか、祈りというか。その関係性がだんだん薄れているように感じているのですが、養老先生はどのような印象をお持ちですか?
養老
今の日本は、そういうことをおよそ無視してきたんじゃないかなと思います。
慶大名誉教授の岸由二先生が、流域学という学問をされているのですが、「森、里、川、海」を一連のつながりとして捉えています。彼の家系は横浜がまだ神奈川村と呼ばれた時代から住んでいる、根っからの横浜っ子です。岸さんみたいな考え方っていうのは、土地に長く根付いた人だからできる。移住してきた人では、簡単には思いつかない。
春山
そうですね、岸先生の流域思考は岸先生の人生やお人柄、あの地域で育ったからこその思想とも言えますよね。しかも小網代の森(神奈川県三浦半島の先端にある約70ヘクタールの森)で、流域一帯の自然を保全する活動まで実践していらっしゃいます。
養老
本当は日本全体でこういった活動をやらなければいけないのですが、明治維新や敗戦を経て、日本人はそこに関して手を抜いてしまった。故郷を放棄してしまったわけです。
新幹線がその典型で良く例に挙げるのですが、新幹線はいったい何本の川を横切って走っているかということです。
川は山から海へ流れるわけですが、新幹線は川と直角に交わり、無関係に走っている。もともとそこにあったローカルなものと無関係に線が引かれているわけです。我々は、そういう時代を生きてきたんだなと思います。
でもこれからの時代は、おそらくローカルなものが戻ってくる。戻ってくるというか、戻らざるを得ない。そういう時期がくると思います。
春山
今までは、地域や流域と無関係に社会システムをつくってきたけれども、それが限界にきているということですか?
養老
そうです。地域や流域に注目して、その中でエネルギーや食や暮らしをつくり直すというのが、大きなテーマになってきていると感じます。
養老
これは抽象的な議論ではないんです。実はもう、そうせざるを得ない時期が目の前に来ている。具体的に言うと、南海トラフの地震です。京都大学などの研究によると、過去の地震から推測すると、2038年ごろに発生すると言われてます。本当だとすると、それ以降の日本人の暮らしは変わらざるを得ないと思うんですね。
まず第一に流通がズタズタになる。東京みたいに流通に頼っている都市は一番弱いですね。
首都圏であれだけの人口を抱えて、仮に流通が止まったとすると、どうすればいいんだろうっていうことになる。その時に一番強いのは、やっぱりローカルで自給している地域ですね。
春山
地域や流域ごとにエネルギーや食糧の自給みたいなものが、可視化されるといいですね。
地域や流域というものに注目が集まれば、「自分たちの街から見える山や海が、恵みの源流だから今以上に大事にしよう、育てていこう」という気持ちが生まれる気がしています。山や海の課題は、自分たちの暮らしの課題、生き方の問題でもあるという意識を持つことができるように思います。
養老
大きな災害がくると、そうならざるを得ないでしょうね。
春山
私は屋久島が好きでよく行くのですが、いまだに地元の人たちの間に「岳参り」という風習が残っています。
春には豊作・豊漁を祈って山にお祈りをして、秋には収穫に対する感謝を伝えるために山へお祈りをほどきに行く。年に2回の岳参りを今も続けているんです。こういう自然観、山に対する向き合い方が屋久島には残っている。
地域に伝わってきた自然観や祈り、そういったものが具体的な行為として再興して人々の生活に組み込まれていくと、社会や生活はより豊かになっていくのではないかと感じています。
養老
そういうものを切ってきたのが、日本の近代なんですね。明治維新と敗戦、そのふたつの出来事を通して、日本はローカルなものをどんどん潰しちゃった。
何百年、何千年もかけて先祖が積み重ねてきたものを全部、頭でっかちで考えて変えてしまったのが、日本の近代だったんですね。そのツケが今、回ってきているのだと思います。
先程から言っているように、それが顕在化するのが地震などの災害です。南海トラフになると、2011年の東日本大震災よりはるかに大勢に影響が出ますから。みんなが自分のこととしてより考えざるをえなくなる。 早い話がトイレなんかにも困っちゃう。
首都圏直下型の地震もよく話題になっていますけど、関東大震災からまもなく100年。いつ起こってもおかしくない状況なんです。
春山
そういう震災の歴史も踏まえて、自分たちが暮らしている流域それぞれで、エネルギーや食など生きていくのに欠かせないものを、自給を含め整えていくべき時に来ていると感じます。何があっても生き抜くことができるような生活の基盤を、流域ごとにつくりなおせると安心ですね。
養老
その通りですね。
春山
先生は「“逆”参勤交代」とよくおっしゃっています。都市の人たちが、もっと地方に行った方がいいと。
養老
僕がそれを思ったのは「お盆に帰る場所がない人が増えた」っていう記事を読んだときなんです。やっぱりあるといいと思うんですよね、お盆になったら帰るところ。
災害が起こった時には、社会全体のインフラが回復するのに相当時間がかかると思います。そういう時、生活の基盤をどこに置くのか。2番目の場所があれば、そこから考えられますから。
養老
今の日本人は、もうちょっと足元を見た方がいいんじゃないかなと思います。つまりは、日常の平穏な暮らしをどのようにして維持していくか?ということですね。
ウクライナの方のインタビューを見ていても、やっぱり平和な生活に戻りたいと言っている。平和な日常を維持するっていうことは馬鹿みたいに当たり前なことで、でも意外に大変なんですよ。
春山
山に入ったり旅をしていると、歩く・呼吸する・食べる・寝るという当たり前の行為が純粋に楽しく、尊く感じるんです。また山での経験があるからこそ、都会の良さも実感できる。日常のありがたさが感じられる。これは自然体験が与えてくれるひとつの示唆でもあります。
養老
そうですね。いろんな状況を体験するっていう。「生物多様性」ならぬ「生活多様性」というのも、もうちょっと考えた方がいいんじゃないかなと思います。
撮影:山田裕之
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