コロナ禍を経た今、”これからの登山”を考える上でより大切になってくるのが「ファーストエイド」です。もし、登山中にケガ人や突然の体調不良に苦しむ人と遭遇したら、どうしますか? 万が一のときに役立つ山の救急法について、兵庫県立加古川医療センター 救急科医長・日本山岳ガイド協会 ファーストエイド委員の伊藤 岳さんに解説していただきました。
2020.06.27
伊藤 岳
救急救命医
ファーストエイドという言葉から、皆さんは何をイメージしますか?
怪我の処置や心肺蘇生を例に挙げる方が多いのではないでしょうか。もちろんそれらは間違いではありません。ファーストエイドとはもともと緊急処置、応急処置のことを指しますから、外傷に対して応急処置、心肺停止に対して心肺蘇生を行うことはそれぞれファーストエイドに該当します。
しかし、実際の状況を考えてみると、「処置」の方法を知っているというだけでは、自信をもってファーストエイドを完遂することは難しいでしょう。皆さんが現場でファーストエイドを行う際には、傷病者(病気や怪我といった、健康上の問題を有する人)から話を聞いたり、身体の状態を目で見たり、手で触ったりして問題を「評価」することによって、行うべき処置を決定しているはずです。「評価」なくして「処置」を決定し、行うことはできないのです。
「評価」と「処置」に加えて、登山中であればもう一点必要になるかもしれないのが「方針決定」です。体調不良や怪我に対処する際に、「評価」した結果に基づいて「処置」を行うとともに、登山計画を変更する、救助の要請をする、もしくはそのまま登山を継続する、といった「方針決定」を行うことまでが、時として登山におけるファーストエイドに含まれると考えます。
では、これらの「評価」や「処置」、そして「方針決定」を行うために、何が必要であるか考えてみましょう。
1. 身体のはたらきや構造に関する知識
ファーストエイドにおける「評価」の目的は、端的に言うと異常を探すことです。異常を認識するためには、正常な状態とはどのようなものか知っていなければなりません。生理学(身体のはたらき)や解剖学(身体の構造)といった知識がこれにあたります。決して詳しく学ぶ必要はありません。現場で簡便な評価を行うのに必要なポイントだけ押さえておけば、それで良いのです。
2. 病気やケガの知識
次に、評価によって認識した異常な問題から、身体に何が起こっているのか考えねばなりません。ここで必要になるのが、病気や怪我に関する知識です。これも、珍しい病気や特殊な怪我のことを学ぶ必要はありません。一般的なもので、そのまま登山を続けると身体の状態が悪くなるもの、時として命を落としかねないような危険なものを知っておくと良いでしょう。
3. 評価の手法や手順
効率よく要点を押さえた評価を行うためには、その手法や手順を知っている必要があります。どのような順番で、どのような問題を評価すればよいのか?これは机上の知識として学ぶだけでなく、講習などに参加して、実際の評価手技を学ぶことによって身につきやすくなるでしょう。
4. 適切な処置を行うための手法
行った「処置」が適切でなかった場合、身体の状態は悪化してしまうかもしれません。実際に「間違ったことをして事態が悪化するのが嫌だから」という理由でファーストエイドをためらう人もいます。しかし、具合の悪い人がそばにいるのに何もせずに放置することは、医療者ならずとも辛いものです。正しい知識を身につけることで、そういった躊躇が軽減され、少しでも多くの人が自信をもって対応できるようになることを期待します。
5. 登山ルートや山小屋の状況、地域の救助体制、天候など
「方針決定」のためには、身体のこと以外にも知っているべきことがあります。登山ルートの道のりの概要や、山小屋などの施設の状況、地域の救助体制、天候などがこれにあたります。評価に基づいた処置を行うとともに、それらを踏まえてこの後どうするべきか判断します。以後予定している行程はどのようなルートなのか、山小屋や夏山診療所の所在や開設期間、救助のヘリコプターには活動できる時間や天候などに制限があること。これらの情報をあらかじめ確認しておいて、判断材料の一つにしましょう。
各論的な内容は成書や講習で学んでいただくこととして、ここではすべてのケースで共通する、ファーストエイドの流れと注意点について述べます。
1. 声をかける前に安全確認や感染対策を行う
具合の悪そうな人がいたら、いきなり近づいて声をかけるのではなく、以下の視点で確認や準備をしてください。
・その場でファーストエイドを行うことは安全でしょうか?
・感染対策は講じましたか?
その他、時として安全確認の一環や損傷部位の推定につながる受傷起点(どのようにして怪我をしたのか)を評価することや、救助や治療にも関わってくる時間の認識と記録といったことも大切です。
※ 救急時の新型コロナウイルス感染対策
具体的な感染対策としては、マスクと水を通さない手袋に加えて、アイウェア(眼鏡やサングラス)の装着が推奨されます。レインウェアを着ていると、出血や嘔吐があっても衣類の汚れを防ぎ、感染リスクを低減することができます。
昨今避けて通れない新型コロナウイルスの問題に関しても、これらの装備が有効です。ファーストエイドを行うためには、傷病者と至近距離で正対することが避けられません。また、心肺蘇生を要するケースでは、エアロゾルと呼ばれる微小な粒子の放出が危惧されます。可能であれば傷病者にもマスクを着けてもらった上で、自分の身を守るためにマスク・手袋・アイウェアによる感染対策を行いましょう。
2. 5つのポイントで生命の危機がないかチェック
一連の確認や準備ができたら、傷病者と接触します。まず生理学的な評価を行い、身体のはたらきに大きな支障がないかどうか確認します。何か問題があればその時点で登山の中止や救助要請を考慮しなくてはなりません。生理学的な兆候の異常は、時として生命の危機を意味するからです。
生理学的な兆候は、
・気道(空気の通り道)
・呼吸(酸素の取り込みと二酸化炭素の排出)
・循環(酸素化された血液が体の隅々に十分行きわたっているか)
・神経学的所見(意識の状態や麻痺の有無)
・低体温の評価
という5項目でチェックします。吐物による気道閉塞や外出血、体温低下などを認めた場合には、出来るだけ早く気道確保、止血処置、保温といった対応を開始します。
3. 受け答え、観察・触診から正しく評価する
続いて解剖学的な評価を行って、身体の構造に異常をきたしていないか確認します。ポイントは以下の2つ。
・受け答えができる状態であれば訴えを聴取
傷病者に意識があれば痛みや違和感、しびれなどがないか尋ねるとよいでしょう。
・目で見て、触ってみて異常はないか?
目で見て打撲痕や出血、変形、腫脹などの所見がないか評価します。手で触ったり、手足を動かしてもらったりして、外傷所見や麻痺の有無などを確認します。四肢の強い痛みや腫脹、変形などを認めたら、テーピングや副木固定を行って創部の安静を図りましょう。
4. 対応時間、救助要請のタイミングには要注意
さて、そうこうするうちにも傷病者に接触してから時間は経過していきます。自力下山が困難な場合にはヘリコプターによる救助が必要になることが多く、それが難しい場合は人力での搬送を強いられます。救助や搬送にあたるヘリコプターは、一般的に夜間や視界の悪い状況では活動できません。すべての評価や処置が終わってから救助要請の判断をしたのでは、ついさっきまでフライト可能であったヘリコプターが、時間や天候の制約により飛べなくなってしまった、ということも起こりうるのです。ファーストエイドをはじめる前に時間を認識することは、こういった面でも重要になってきます。
可能であれば記録を残しましょう。メモ程度でも構いません。評価や処置と並行して記録してくれる人がいるならお願いしてもいいですし、不在であれば後で記憶をたどって記載します。接触時の状況、生理学的・解剖学評価の結果、行った処置と経時的な状態の変化、だいたいの時間関係が分かれば良いでしょう。このことは救護者との引継ぎや医療機関での診療に役立つだけでなく、善意でファーストエイドを行った皆さんを、様々な意味で守ることにつながるかもしれません。
ファーストエイドに関連した講習を行うと、必ずと言っていいほど「何を持って行けばいいですか?」と訊かれます。実は、これは即答するのがとても難しい問題なので、たいていの場合次のようにお答えしています。
「あなたはどのような病状に対して、どのような処置ができますか?自分が可能な対応を想定して、そのために必要だと考えるものを持って行ってください。」
とは言っても、一から自分でオリジナルキットを組み立てるのはいささかハードルが高いかもしれませんので、最初は市販のキットを購入してみるのも良いでしょう。ただ、買ってそのまま山に持って行くのではなく、まず自宅で中身を全部出して、一つ一つ検討してみましょう。使わないと思うもの、用途が分からないものは省きましょう。使い方を知っているもの、自分が実際に使用するものだけ残して、その他に必要なものを足していくと良いでしょう。
各論的な内容は成書や講習などに委ねることとして、ここでは皆さんに必ず携行していただきたいものを挙げておきます。
①感染対策に用いるもの
水を通さない手袋、マスク、アイウェア、ごみ袋(使用した機材や汚れたものをまとめて捨てるため)
②ハサミ
分厚い衣類でも裁断できるものが望ましい
③洗浄に用いる水
飲める水は、傷や手の洗浄にも使えます。水道水である必要はありません。
登山におけるファーストエイドとは、傷病者を「評価」して、必要な「処置」を行うことに加え、状況によっては以後の「方針決定」を行うことをも含みます。
これらの一連の対応を適切に行うためには、
① 生理学(身体のはたらき)や解剖学(身体の構造)の知識
② 病気や怪我の知識
③ 評価の方法や手順に関する知識
④ 処置の手法に関する知識
⑤ 登山ルートや施設の状況、地域の救助体制などに関する知識
といったことが必要です。また、これらに加えて、予想される天候の変化や日没時間を認識していることも大切となります。
傷病者に接触する前には安全確認、感染対策、受傷起点の評価、時間の認識と記録の手配を行います。二次被害が生じないこと、救助オプションを活用できることなどを意識して行動しましょう。
傷病者に接触したら、生理学的な評価、解剖学的な評価を進めながら必要な処置を行います。傷病者の訴えや経時的な状態の推移、時間関係などの記録を残すように努めましょう。
こういった一連の評価や処置について学ぶ中で、皆さんが行えるファーストエイドはより有意義なものとなり、幅も広がっていくことでしょう。学びを深めながら、時には自分のファーストエイドキットを見直してみると良いでしょう。
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参考図書:「図解 山の救急法」金田正樹,東京新聞