自分たちが暮らす足もとの大地を「流域」という地形でとらえる「流域思考」。その「流域思考」の提唱者であり実践者が、慶應義塾大学名誉教授の岸由二先生です。
Part 1に続き、YAMAP代表の春山慶彦が、人間が感覚的に持つ「母地図(マザーマップ)」の重要性や、YAMAPが開発した「流域地図」に期待することなどについて、岸先生のお話をお聞きしました。
2024.05.13
YAMAP MAGAZINE 編集部
YAMAP代表 春山慶彦(以下、春山)
岸先生はご著書の『生きのびるための流域思考』(ちくまプリマー新書)の中で、「流域思考を広げるためには、暮らしの地図の領域に、流域という地形、生態系を単位とする『流域地図』を導入することが重要」と紹介されていました。
地図は、人間の認識を広げたり、今を生きる人間の世界観が反映されたツールでもあると私は考えています。先生にとっての地図とはどのようなものか、教えてください。
慶應義塾大学名誉教授 岸由二さん(以下、岸)
ここで私の言う地図とは「生きものとして人間が感覚的に持っている地図」のことです。それは空間を人工的に区切った紙の上やモニターの中の地図ではありません。
原生林に暮らす自然の部族たちは、物理的な紙の地図は持っていないけれども、狩猟採集に行ったときに必ず元の場所に戻って来られる。
例えば、自分が通った道沿いに生えている特定の植物を順番に全部覚えてしまい、その逆をたどって帰れる部族の話を聞いたことがあります。植物の空間配置を手がかりにした地図を使っているのですね。
私たち、都市文明の人間も、防災、環境保全のためには、大地の地形や生態的な特徴を仲間と共有するための手段がどうしても必要です。差し当たりは、紙に書けるようなもので、地図を議論するしかないとしてでもです。
そのためには、なるべく全体性をそなえた単位性があって、一般性のある面的な地図が良い、中でも最も有望なのが流域の地図だというのが、私の考えになります。
春山
YAMAPが開発した流域地図は、日本国内の流域と山々が表示されるシンプルなものです。流域地図として、まだ最低限の機能しかありませんが、スマートフォンやパソコンで足もとの「流域」を知ることができるのは、画期的だと考えています。
流域地図を通して大地の広がりを感じ、街もまた流域という生命圏の一部であることを実感してもらえたら、うれしいです。
岸
流域で活動する市民団体の連携組織で、私が代表を務める「鶴見川流域ネットワーキング」(TRネット)では、鶴見川の流域地図を活用して、流域の自然教育や治水の啓発などに取り組んでいます。
鶴見川の流域では、国の河川事務所が中心となって、流域全体で治水を進める「総合治水」を1980年から進めています。
2004年からは、治水だけでなく、自然の保護や、地域づくりも「流域」で進める「水マスタープラン」という企画を始めています。
TRネットは、これも全面的に応援して、例えば、こどもたちの流域感覚を育むためにいろんな実験をやってきました。
その実験のひとつに、鶴見川の流域の形を動物に見立てて、面白がってもらう遊びがあります。「鶴見川の流域はバクの形」と言って、「あなたの学校はバクの鼻先にあるよ」とか、「お尻のとこにあるよ」とか教えると、多くのこどもたちが面白がってくれます。
こんな風に、地形と川、学校の位置関係を話題にするのが、ひとつのポイントです。
ほかにも「流域スタンプラリー」という取り組みを推進中です。鶴見川流域で市民団体が拠点にしているところや、行政、企業が自然を案内、公開している施設など約20ヵ所にスタンプを置き、景品も用意します。このスタンプラリーは、ずっと続いていくといいなと期待しています。
春山
こどもたちが楽しめる遊びに流域地図を活用しているのは、とてもいいですね。
岸
リアルな地面の凸凹や生命圏を自分自身とつなげる工夫として、「リバーネーム」という遊びもあります。
簡単にいうと、姓と名の間に、自分に縁のある川の名前を入れていくゲームです。
たとえば私だったら、今、生きているのが鶴見川沿いだから、「岸 鶴見川 由二」。生まれたのは目黒川だから、「岸 目黒川 鶴見川 由二」。死んだら、三途川に行くから、「岸 目黒川 鶴見川 三途川 由二」という具合に長くしていきます。
人によっては長くなりすぎて、前と後ろを取って、戒名の代わりになるくらいズラズラと川の名前が並ぶこともあります(笑)。
「リバーネームを使って自己紹介をしてください。そのときには、川とその流域で体験したことも紹介してください」
こう言うと、初対面だったとしても、みんな川の話とか魚捕りの話ですぐに打ち解けられるんですよ。「私は何々会社の部長で」とか「何々大学の3年生です」など、所属する組織や役職のことをいう必要もなく、お互いにフラットな関係が築けるのでとても面白いです。
そういう川を使った遊びを通して、ある意味で宇宙人になってしまった都市の人たちが、もう一度地べたに紐づき、自然を意識するようになってほしいと思っています。
春山
岸先生のご著書では、川遊びや川歩きのご経験が、よく書かれています。たしかに、こどもの頃に自然経験を積み重ねることで、自分の生きている場所の輪郭が描けるようになって、暮らしの感覚(センス・オブ・ハビタット)が育まれ、大地を含む流域に対する愛情も湧き上がってきますよね。
岸
こうした人間の土地感は、「母地図(マザーマップ)」とでもいうべき地図的な地域理解をもとにつくられていくと私は思っています。母地図は、成長の過程で人の体の内に形成されるもので、それぞれの経験にもとづいた非常に感覚的なものです。
母地図が形成される原体験は、「10歳から13歳ぐらいのとき、本当に親しい友達と、目的を決めずに遠くに遊びに行く経験なのではないか」という仮説を持っています。
10〜13歳ぐらいといえば、青春映画の名作『スタンド・バイ・ミー』の主人公たちの年齢です。狩猟採集をしていた頃であれば、仲間と一緒に食べ物を狩ったり、採ったりしながら自立していく頃にあたります。
その頃に記憶されていく大地の経験は、都会であれ田舎であれ、その人の母地図の形成につながる。宇宙から足元までの世界が入れ子構造になっていることを認識するのも、だいたい小学5年生前後のはずです。
おそらくこの頃に、遺伝子から「これから狩猟採集を本格的にやるのだから、自分の生きてゆく自前の地図を階層的につくれ」という指示が出ているのだと考えています。
春山
興味深い仮説ですね。
岸
ちょうど小学5年生ぐらいから、私たち人間は観念的になってきます。こどもに家の絵を描かせてみるとわかりやすい。幼稚園から小学校1年生のこどもに「おうちの絵を描いて」とお願いすると、真正面から見た平面図しか描けない。裏から見たようには描かないし、鳥瞰図を描く子はまずいない。
いつ鳥瞰図を描けるようになるかというと、小学4〜5年生になってから。ちょうどその頃、算数がわかるようになって、住所についても抽象的に理解ができるようになります。
「岸くんの家はどこ?」と聞くと、線をいっぱい書いた地図のような絵で「ここがうち」と示します。抽象的にものを理解して、相手に伝えられるようになるのですね。
つまり、「自分の住まいを決めてこい」というDNAの指令が出ている時期と、階層的な構造で自分の位置を知ることができる時期が、10〜13歳に重なると考えています。
小学4年生〜中学1年生あたりのスタンド・バイ・ミー世代を狙って、なにか面白い流域地図をつくってあげたい。流域地図での遊びができたら、自然体験を面白がるこどもたちの数も増え、長期的には都市の文明と自然のあり方を変えていけると思っています。
春山
こどもたちだけでなく大人たちも、山歩きや川歩きをするときに、流域地図を使い、流域の観点で地球の凸凹を楽しむようになるといいですね。
岸
今山歩きをしている大人のほとんどは、おそらく小さい頃にそのような母地図をつくりあげたのだと思います。
母地図ができている子や、小さい頃に山・川・海で遊んで大地に紐づけられた母地図を形成した大人たちは、乗り越えられないような困難でつらい状況が来たときでも、「ここで仕事をやろう」「ここの森を守ろう」「この谷を守ろう」とがんばることができるのだろうと思います。
それは、私が人生77年を生きて、確信していることのひとつです。
春山
もうひとつ、岸先生のお考えを聞いてみたいと思っていることがあります。
今までは、インターナショナルやグローバルというと、「世界を何ヵ国巡りました」とか「世界のいろんなところを知ってます」とか、国外に関する知識、経験に価値が置かれていたように思います。
でも、インターナショナルやグローバルという概念は、幻想なのではないか。地球や国は、地域・ローカルの集積です。インターナショナルではなく、「インターローカル」と言った方が適切なのではないか。足もとの大地こそが地球であり世界であると認識して、地域やローカルに根差して生きることこそ、未来的であり、本質的だと最近強く思います。
岸
リージョナリズム(地域主義)とグローバル化の、どっちが重要かという議論は、盛んに行われていますよね。私も年中、それを考えてます。
春山
気候変動による自然災害、新型コロナウイルスの経験を通じて、今一度、地域での暮らしを見直し、どう立て直すか、次世代にどうつなげていくか。ローカルという地域生命圏に価値を見い出す社会になってきているように感じます。
人間は有限な生きものです。いのちには限りがあります。インターネットやデジタル技術がどんなに発展しようと、私たちのいのちは地球上の一点にしか存在することができない。デジタル化が進んでいるからこそ、自分が存在する生命圏でどう暮らすかがより問われるようになっていると思うのです。
人類は近代以降いろんな経験を積み重ねてきて、「ローカルで生きることと地球規模で生きることは実は同じである」という当たり前のことを再認識しているようにも思います。
岸
私はこんな風に考えます。グローバル化はやめられない。ただし、ローカルを本気で大事にしない今のグローバル化は、地球と衝突して終わりだと思います。
逆に、グローバル化を批判するローカルな視点というのは、足もとの地球の確かな地図なしに進めば、結局、地球の姿を捉えきれず、民族とか文化とか宗教を軸にして、壮大な専制主義の争いになって、おしまいになると思うんですね。
私のビジョンははっきりしていて、もう一回ローカリズム、地域主義をしっかり見直すことが基本だと思っています。日本だったら例えば、もう一回神社のような象徴の地に着目することと言ってもいい。
でも、それが日本における民族主義になって、グローバル化を否定してしまうのも望ましくない。グローバルの中から新たな地域主義を復活させる工夫が大事だと思っています。
私はそのときの地域主義の復活を、宗教的なものからではなく、流域という切り口でやっていきたい。グローバル化の先に生まれる地域主義が、流域を手がかりに析出(せきしゅつ)され、そこでずっと暮らす私みたいな人間が現れてほしいですね。
春山
それぞれの地域をどう定義し、世界を認識するかを考えるとき、流域という観点が核心的な道しるべになると私も思っています。
岸
私は冗談じゃなく、流域ごとに神社みたいな「流域を象徴する聖なる拠点」をつくりたいです。
例えば、流域に暮らしている人が「私はがんばって、ここの流域で、こういうことをしました」と報告するために、その流域の神社のような場に絵馬を置きにいく、というようなイメージです。
そういう流域という地域単位への個人的な信仰、奉仕ができるような文化が育たないと、地域主義はまともになれない。その点、日本人に参拝の習慣が根付いている神社は良いモデルだと感じています。
岸
YAMAPには、小学4〜 6年生のこどもたちが「流域って面白い」と沸き立つような、流域地図のサービスを育ててほしいと期待しています。技術的に流域の切り出しを精密にするということだけではなくてね(笑)。
私は流域センターのスタッフには口酸っぱく、「我々の仕事は感動の三角錐をつくることなんだ」と伝えています。イメージしてみてください。安全、魅力的、安心のサポートがある場所がつくる三角形の上に、感動という要素を加えると、三角錐になりますよね。YAMAPにも、流域全体を感動の三角錐にするような仕掛けを地図に落とし込んでもらえたらと、期待しています。
YAMAPの流域地図を眺めて感動するのは、普段から山歩きをしている人だと思います。山歩きをする人たちは、流域で考える意義に気づきやすいんです。尾根や谷という概念を持っているだけでも、流域思考の一歩先に進んでいる人たちですからね。
春山
おっしゃるように、流域という観点を持って、普段通い慣れた山を歩くと、山の見方が変わる感動があります。
春山
YAMAPは企業理念として「地球とつながるよろこび。」を掲げています。岸先生が思い出す「地球とつながるよころび。」のご経験をお聞かせください。
岸
私は小学4年生の頃、山形から転校してきた子と親友になりました。一緒に鶴見川沿いを歩き、魚捕りなどをして遊んでいました。
歩く道は、川沿いだったり丘からの道だったりと、いろいろでしたが、いつもの行動圏だったので、そのエリアのことは全て熟知しているつもりになっていました。
でもある日、いつもは山の尾根を通ってしかたどり着かないはずの池に、小川に沿って上がって行くと、なんと同じ池にたどり着いたんですよ。とてつもない衝撃と感動を受けたんです。そのときの高揚感は今でも覚えていて、今思い出しても鳥肌が立ってしまう。
今になって当時の経験を解釈すると、当時の私はどこに何があるかを、バラバラに覚えているだけだった。ところが小川をたどったのに、いつも山からしか行けないところにたどり着いた。つまり、バラバラのパーツがつながったんです。このとき、私は自分の中で新しい地図を獲得したんですね。
それが母地図とまで言えるものかはわからないけれど、10歳の頃にそういう経験をしたことが、私の中には大きな感動とともにちゃんと記憶されているんです。
春山
貴重なご経験の共有、ありがとうございました。岸先生から教えていただいた流域思考、そして流域地図を、YAMAPなりに社会実装してまいります。
撮影:藤田慎一郎