『ホテル・ハイビスカス』や『ナビィの恋』など、日本の風土と人の営みを丁寧に描いてきた映画監督の中江裕司さん。11月11日(金)から全国映画館で公開されている最新作『土を喰らう十二ヵ月』は、北アルプスの麓で暮らす作家が主人公の物語です。四季折々の自然とともに手を動かして生きる姿に、現代人が忘れがちな「土の匂いのする生活」を思い起こすことでしょう。
この映画の見どころのひとつがおいしそうな料理。本物にこだわり、畑を開墾して野菜を作るところから始めたのだそう。そんな中江監督に、映画に込めた思いや自然観、死生観について語っていただきました。
2022.11.15
吉玉サキ
ライター・エッセイスト
人里離れた信州の山荘に暮らす作家のツトム(沢田研二)は、犬のさんしょと13年前に亡くなった妻の八重子の遺骨と共に暮らしている。幼い頃を禅寺で過ごし、精進料理を身につけた彼にとって、畑で育てた野菜や山で収穫する山菜などで作る料理は日々の楽しみのひとつだ。四季折々の自然を感じ、山里の恵みをいただき、恋人である真知子(松たか子)と四季を過ごす中で、ツトムは自らの人生、そして死について思いを深めていく。
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―この映画の原案は水上勉さんの料理エッセイ『土を喰う日々 ーわが精進十二ヵ月ー』ですね。この作品を映画化した理由を教えてください。
僕はもともと水上さんの小説が好きで、10代の頃によく読んでいました。なので、数年前にたまたま本屋さんで『土を喰う日々 ーわが精進十二ヵ月ー』を見つけ、読んでみたんです。料理とそれにまつわる思い出が描かれているんですが、小説と違って、水上さん自身の暮らしぶりや人生観が表れていてとても面白かった。
だけど、読んでいて違和感があったんですよ。水上さんは社会派ミステリーを多く書いてきた作家なので、なぜ彼が料理エッセイを書いたのかが不思議で。そしたらあとがきに「編集の女性たちに自分の山の生活を覗き見されて、このよしなしごと(たわいもないこと)を書くことになった」という一文があり、「そうか、女性編集者のためにこのエッセイを書いたのか!」と謎が解けました。そのとき、僕の中で真知子というキャラクターが生まれ、それが映画化のきっかけになりました。
―編集者でありツトムの恋人である真知子や、ツトムの義理の弟夫婦など、映画には原作に出てこないキャラクターが多く登場しますよね。
真知子像ができたと同時に、他の登場人物たちも浮かんできました。なぜツトムは長野の山村に越してきたのか? 亡くなった奥さんに連れてこられたんだろうな、そうすると本家があってお母さんがいるね、お母さんは亡くなった奥さんに似て優秀な人だろうな、そうなると末っ子長男は頼りないだろうな……というふうに妄想が広がって、わずか5分くらいの間にブワ―っと物語が見えてきたんです。
―ツトムが亡くなった奥さんの遺骨を13年間手元に置いている設定も、原作にはないものですよね。意識的に、人の生死をストーリーに織り込んだのでしょうか?
そうですね。僕は人の生き死にについてしか考えてないんですよ。生き死にを前提としない映画は作れないかな。
―それはなぜでしょうか?
僕は40年以上沖縄に住んでいるんですが、沖縄って、あの世とこの世が近い感じがするんですね。人が亡くなることに対して「穢れ」みたいな感覚がない。「あの人なら死んじゃったよ~」って、まるで隣村に出かけているかのように言うんですよ。もちろん人の死に対して切なさや悲しみもあるけど、死そのものを悪く言わないというか。
僕、生きたままあの世に行きたいんですよ。だから山が好きなのかな。しんどい思いをして登りたくはないんですけど、西穂高とか乗鞍とか、比較的楽にアプローチできる山には行きました。3,000m超えの山って、森林限界を越えたあたりからちょっと「あの世」っぽいじゃないですか(笑)。
―中江監督の作品は、米軍基地や福島原発の問題など、観客に社会的な問いを投げかける作品が多いですよね。
別に、世の中に問いを投げかけたいわけではないんです。だけど、人って群れで生きていくし、人の群れが社会を作っているじゃないですか。だから、人を描くとなると自然と社会を描くことになる。
今回は、山村を舞台としてひとりの男が生きていく様を、食べることや愛することを通して描きました。ツトムは仙人のように悟っているわけではないし、特別な人でもない。ごく普通のひとりの人間の在り様や営みを、真っ当に描きたいと思ったんです。
―作品中でツトムが野菜を収穫する畑は、スタッフが空き地を開墾し、撮影に合わせて野菜を育てたそうですね。
野菜作りは助監督が中心となってやってくれて、僕も手伝いました。助監督が隣村の農家の方に教わりながら、丹精込めて野菜を育ててくれて。ずっと住んでいたわけではないんですが、およそ2年もの間、畑仕事をしてくれましたね。
―撮影のためにそこまでするなんてすごいですね!
やってることがおかしいですよね。胡麻豆腐を作るために胡麻を植えるところから始めるんですから(笑)。胡麻って育てるのは簡単だけど、ちっちゃいから収穫が大変で。手のひらいっぱいの胡麻を作るために、大変な苦労をしました。
―映画に出てくる料理は料理家の土井善晴先生が作られたそうですね。
本当にこだわって作ってくださいました。たとえば、胡麻豆腐は原案では「生胡麻をすり鉢で擦って葛と混ぜる」とあるんですよ。だけど土井さんが「胡麻は炒らないと香りが出ないから生のままだと絶対おいしくないよ」と言って。結局、炒り胡麻を使いました。だけど、本当はどっちが正しいのかずっと気になっていて……。
―正解はわかったのでしょうか?
はい。この映画は陶芸家の福森雅武さんから器をお借りしたんですが、撮影が終わって器を返却に行ったんですね。福森さんは料理に詳しい方なので、ついでに「胡麻豆腐を作るときって胡麻は炒るんですか?」と聞きました。すると、「料理屋は炒るけどお寺で作る精進料理では炒らないよ」って。なるほど、と思いました。
―細部までものすごくこだわっているのが伝わってきました。
そう。料理だけじゃなく、器も衣装もこだわっています。大きな嘘をつくために、小さな嘘をひたすらつかない。そういうことを繰り返していくのが映画ですから。僕らは、観客が「映画のリアリティ」を信じられるように作らなければいけない。だから畑を耕すところから始めることになっちゃうんです。
―ツトムさんが住んでいる家も、村にあった古民家をほぼそのまま使用したのだとか?
土間だったところに台所を作りましたが、基本的には手を加えずそのまま使っています。家には作られたなりの理由があるので、なるべくそれを尊重して。ツトムもたぶん、そういう生き方をしていると思うし。
ただ、大きな窓だけは作ってもらいました。北アルプスの山々が見える窓です。
―窓から見える北アルプスの美しさが印象的でした。
あの家は、最初にロケハンに行ったとき見つけたんです。雪に膝まで埋まりながら。その日は曇っていて、ちょうど見つけたときに空が晴れてきたんですね。雲間から北アルプスがバーンと見えた瞬間、「ツトムはこの風景を見たいからここに住もうと決めたんだな」と思いました。
ツトムは60代後半で大ベストセラーを出したこともある作家で、お金も名声も持っている。いろんなことを自分でコントロールできる人ですよね。そんな彼が最後にどこに住むかを考えたとき、「自分が絶対に敵わないもの」に惹かれるんじゃないかと思ったんですよ。山のそばにいると、自分の小ささや無力さを常に感じることになる。そんなことをツトムがいちいち考えていたとは思えないけど、本能的に感じ取っていたんじゃないかな。
―中江監督の作品は、日本の自然を丁寧に描写している印象があります。中江監督が思う、日本の自然の魅力とは?
水が多いことが理由だと思うんですけど、とても豊かですよね。そして、そのぶん災害も多い。だから日本人は、自然に対して敬意と畏れを同時に抱いてきたんだと思います。自然を征服するのではなく、自然の中に「住まわせていただいてる」という感覚。自然には逆らわないように、常に感謝しなきゃ、みたいな。その感覚が「いただきます」という言葉につながっているんじゃないかな。
―「自然の恵みをいただく」といった表現も日本語にはありますもんね。
そう。豊かな自然に感謝するとともに、「この恵みが永久にあるわけじゃない」という怖さも知っている。自然への敬意と畏怖の念です。
その最たる例が山だと思うんです。日本人って、人が死んだら空を見ますよね。なんとなく「あの世」って上にあるイメージなんですよ。だから、やっぱり山はあの世に近い。日本には昔から山岳信仰があるし、日本の山はよく山頂に祠がありますよね。
―日本人でも、現代人、特に都会に暮らしている人は自然を感じる機会が少ないと思います。
僕は、あまり都会の人の生活に興味がないんです。本来は土地が違えば人の営みも違って当たり前なのに、都会って世界中どこへ行っても画一的なんです。
僕は、それが豊かなことだとは思えない。フランス人と日本人は違っているほうが面白いし、スペイン人とアフリカ人は違っているほうが素晴らしいと思うんですよ。その点、田舎は多様性があると思います。
―なるほど。
現代人、特に都会の人は脳が暴走していると思います。ずっとSNSなんかを見続けると、脳は常に暴走状態に置かれてしまう。だけど脳が暴走している自覚がない人は、延々と自己主張したり、目立とうとしたり。健全ではないと思うんです。
―脳の暴走を止めるにはどうしたらいいのでしょう?
身体を動かすことだと思います。脳と身体、両方がバランスを取っているのが健全な状態。だけど、都会ではほぼ脳ばかり使ってる。脳が働いて要領よく仕事ができる人だけが評価されるでしょ。そこがもう間違ってますよね。
―中江監督も脳が暴走することはありますか?
もちろん。僕も編集作業をしているときなんかは脳が暴走しますよ。まずはそれを自覚することが大切だと思います。
昔、東京で編集作業に行き詰まったことがあって、新幹線に飛び乗ってレンタカーを借りて福島の北のほうへ行ったんです。蕎麦を食べて蔵王に登って、岩の上で半日寝たら復活しました。とにかく体の中の空気を全部入れ変えたかった。リフレッシュするために、身体を動かすのは大事です。
―逃避する先は、海ではなく山なんですね。
山はあの世に近いですからね。海はね、水平軸だからちょっと遠いんですよ。相当遠くまで行かないと、あの世っぽいところまでは行き着かないでしょう。そこまで泳いで行こうとしたら本当に死んじゃう。
―体を動かすこと以外にも、自然に触れることが大切なのでしょうか?
そう思います。僕は自然に触れたいとき、空を見ますね。どこにいても空は美しいし敵わない。どんな瞬間の、どんな天気の空も好きです。
沖縄の空は台風が来る前、ピンク色に染まるんですよ。空というより、空気全体が染まる感じ。空気の色が変わって重くなって、「これはやばいのが来てるぞ」って感じる。そんなとき、自然に対する畏怖を覚えます。
―映画のチラシに書いてある「喰らうは生きる 食べるは愛する」って素敵な言葉ですよね。抽象的な質問ですが、中江監督にとって「生きる」とは?
「生きる」って、死を前提とすることだと思うんですよ。僕はもう61歳なんでね、死ぬことを前提としたほうが見えるものが増えてくる。面白いことや美しいもの、大切なものがいっぱい。だから、死をよくないものとして扱わなくてもいいんじゃないかな。誰しも必ず死にますからね。
―たとえば、どんなことが見えてきたのでしょう?
僕が61歳だと言ったら、先ほども話に出た陶芸家の福森さんに「これから物事がわかるようになるよ」と言われました。福森さんは70代後半なんですが、まさにその通りだなと思うことがよくあるんです。
たとえば、映画の秘密。映画には作り手がなかなかたどり着けないいろんな秘密があるんですけど、それがほんのちょっとだけ、わかってきた。まだスタート地点にも立っていませんが、スタート地点に立つ準備を始めることができました。
―「映画の秘密」とは?
例えば、「映画の中の時間」を作ることです。実生活の時間と映画の中の時間は流れ方が違うから、映画の中の時間は作り手がコントロールしなきゃいけないんですね。観客と映画の登場人物が、ともに生きられるように1年間を描く。そのための感覚と理屈が、ようやくつながりはじめました。
だけど、まだ「映画の秘密を掴んだ!」とは言えません。完全に掴むにはあと50年はかかるから絶対に寿命が足りない。きっと、行き着かないまま死ぬんですよ。それはもう、しょうがない。今やれることを一生懸命やるだけです。
―最後に、読者へのメッセージをお願いします。
外を歩けば、何かしら目に入ってきて何かしら感じることがあるので、とにかくまずは外に出てみてください。山でも丘でも河原でもいいから。木が生えていたり、水が流れていたりする場所を歩いて、一瞬一瞬が変化しつづけていることに気づいてください。それに気づくことで、時間は濃く、豊かになっていくんです。
あと、好きな人と歩くのが一番いいんじゃないかな。子どもでも親でも、友達でも恋人でも。とっても好きな人と一緒に歩いて、好きなものを見つけてください。今日の空は青いなとか、椿の花が咲いてるなとか。きっと、心に満ちるものがあると思います。