3人の知識人が物語る、「聖地・紀伊半島」と開祖が祈り歩いた4つの「道」

日本人が古来より守り伝えてきた信仰である「神道」と「仏教」、そして「修験道」。それらの代表的聖地が関西南方の紀伊半島に集中していることをご存知でしょうか?「空海や役行者(えんのぎょうじゃ)たち開祖が歩き拓いた4つの道 「葛城古道」「小辺路」「伊勢本街道」「弘法大師の道」。それぞれに眠る物語に思いを巡らせることで、紀伊半島に聖地が見いだされた理由が見えてきます。

修験のルーツと言われる「葛城古道」の一部を歩いた後に、半島にひそむ歴史的・地理的背景について、山と歴史の知識人に鼎談(ていだん)形式で語っていただきました。お招きしたのは、奈良大学准教授で日本美術史・日本彫刻史専門の大河内 智之さん、「低山トラベラー」として日本各地の低山を巡り、その魅力を発信し続けている大内 征さん、山形県の出羽三山を拠点に山伏・芸術家として活動し民間信仰にも精通する坂本 大三郎さんです。

2023.03.07

武石 綾子

ライター

INDEX

日本屈指の聖域「紀伊半島」

大内 征(以下、大内):おふたりと「紀伊半島」という神秘性溢れる場所について存分に語り合えると聞いて、この日を心待ちにしていました。やはり話題として欠かせないのは、深淵な信仰の歴史でしょうか。3人の化学反応を、進行をつとめながら楽しみたいと思います。

大河内 智之(以下、大河内):よろしくお願いします。紀伊半島の面白いところは、空海が拠点とした「高野山」や修験道の開祖・役行者が修行したと伝わる「葛城古道」、そして天照大御神を祀る「伊勢神宮」など、日本を代表する聖地が密集している点です。そんな聖域をテーマに、新たな視点でのお話をお伺いできること、楽しみにしています。

坂本 大三郎(以下、坂本):思わずおふたりのお話に聞き入ってしまいそうですが…(笑)。ぼくも東北の山での活動を踏まえ、自分なりの視点で感じることなどをお話できればと思います。

企み事や権力闘争の歴史舞台ともなった紀伊半島の山々

大内:最初に、紀伊半島とはどんな存在か、おふたりの印象を聞いてみたいです。奈良や京都など多くの人が住む「都」から見た紀伊半島の山々は、なんとなくわかるけれど奥行きがありすぎて全貌が見えない存在、その謎めいたイメージから憧れや畏怖の対象になるような場所。ぼくはそんな印象を持っています。

大河内:大和国(現在の奈良県一帯)の北部にある盆地には古代から都、街が築かれていましたね。それに対して南の紀伊半島側は一面に山や森が広がっていました。果てしなく広がる山野の奥に、当時の人々は神秘性を見出したのかも知れません。

左:低山トラベラーの大内さん、中:山伏の坂本さん、右:奈良大学の大河内さん (対談場所:大和四季旬菜 白雲庵)

坂本:近畿地方の歴史を遡ると、企み事(たくらみごと)をする人たちが山に籠っていたことも興味深いんです。例えば奈良県桜井市の談山神社は、境内裏手の談山(かたらいやま)で中大兄皇子 (後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が、「大化の改新」へつながる談合を行ったと伝わっていますね。

大内:そうそう!ぼくが奈良を巡る中で感動したことのひとつが、まさに談山神社だったんです。「大化の改新は登山で始まっていたんだ!」と。学校でも、『645年大化の改新』ではなく、「実は隠れて山で談合したところから始まったんだよ」みたいな教え方をしてくれれば、もっと授業が面白くなるのになぁ。

談山神社/写真提供:大内征

坂本:壬申の乱(※)が起こる前も、大海人皇子(後の天武天皇)が出家をして吉野山で隠棲しましたよね。歴史の登場人物にとって、奈良〜紀伊半島にかけての山がどんな意味を持つ場所だったのか、すごく興味をそそられます。

大河内:談山神社は、飛鳥(現:奈良県明日香村)と山越えルートで繋がっていますよね。山は隠れる場所でもあり、往来のための道でもあったんです。

大内:そうか、確かに。奥深いからこそ、人はそこに超自然的な存在を見い出し、同時に反体制の人々の隠れ家にもなったということですね。

※壬申の乱:672年、大海人皇子が、天智天皇の子である大友皇子を首長とする近江 (おうみ)朝廷に対して起こした古代最大の内乱。

「峠」と「野」。紀伊半島が聖地である理由は地理にあった!?

大内:「山越え」という話が出ましたが、紀伊半島には「峠」がすごく多い印象があるんです。簡単には超えられない峠の多さに、この場所への理解を深めるためのヒントがあるような気がします。未知への恐れを和らげるためだったのか、峠には必ず道祖神があったり、悪いものが入ってこないようにというまじないがあったりしますよね。

坂本:昔は、峠を境に文化が異なることも多かったと聞きます。

大河内:紀伊半島西部に伸びる葛城の山は生活の道と修験の道が交差しているのですが、仰る通り峠のような「境界」は、人々が暮らす「俗なる世界」と修験者が向かう「聖なる世界」を隔てるものでもあったんです。山について考える時、「峠」はとても重要な意味を持ちます。

葛城山・金剛山系の山々を眺めながら葛城古道を歩く

大内:合戦で隣国を攻めるときも峠越えは重要な戦略になることが多いですよね。

大河内:人の手が入り切っていない自然のままの未開の地のことを、かつての日本では「野(の)」と表現していました。紀伊半島にある様々な聖地と言えば「吉野」、「熊野」、それから「高野」。高野は「こうや」と読みますが意味は同じです。未開の地である複数の「野」に聖地が見出されたこと。これも、紀伊半島の特徴のひとつでしょうね。

大内:あぁ、なるほど。人の手が届かない「野」は神秘、つまり「神が秘される」場所。

坂本:一般の人々が入れない「禁足地」とされていた場所も多いですね。

大河内:山自体を神様として信仰の対象とする場合もあれば、山を神さまが坐す(まします)場所と考える場合もありました。だから人の生活とは隔絶されるべきで「俗なるもの」はたやすく入れなかったんです。

大内:紀伊半島の奥深い山谷を想像すると、半島全体が「野」であり、「禁足地」と言えそうです。

大河内:まさしく。中央あたりに位置する大峯などはかつては修験者のみが入山を許されており、かつ女人禁制でもありました。江戸時代以降は開かれましたが、大峰山の一部では、現在も女人禁制が守られています。空海が真言密教の拠点を築いた高野山も昔は女人禁制でしたね。昔の人は、スポーツとして登山を楽しむ現代とは違う感覚で山を捉えていたのだと思います。

葛城古道の沿道にある九品寺

九品寺の裏手には圧巻の千体石仏が並ぶ

自然の恵みである資源を神と捉えた古代の信仰心

坂本:紀伊半島から少し離れますが、ぼくが拠点にしている山形では「集落に近い山には亡くなった人が棲む」という考え方があります。

大内:深山(みやま)とか端山(はやま)とも言われる概念だね。

坂本:山形ではそのような山を「もり」と呼んで、お盆など限られた時期にしか入れない場合があります。他の地方でも、たとえば鹿児島では樹木の神様を「森」と書いて「もい」「もいどん」と言ったりしますよね。各地の共同体で、山や森はやはり「聖地」と捉えられていたんだと感じます。

大内:ぼくの故郷である宮城にも、七ツ森、達居森(たっこもり)など、低山でありながら「森」と名の付くところがありますね。ふもとに暮らす人々、場合によっては遠くから人が思いを寄せる信仰の対象であり、おいそれとは立ち入れなかった場所です。

大河内:まさに。入山が許されたのは聖(ひじり/諸国をめぐって勧進して修行する僧)などの宗教者、あとは…山を生業の場とした猟師などに限られていたんです。各地の伝承においても、神の発見者として猟師が登場するケースが多くありますね。

各所の石仏や道標は古道歩きをより味わい深いものにしてくれる

坂本:猟師が拠点にしているところは鉱山と重なっている場所が多い気がします。そういえば、水銀の神である丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)の御子が猟師の化身となって空海を高野山に案内したという話が伝わっていますね。

大河内:高野山にある丹生都比売神社の逸話ですね。ただ、実際に現地を調べると丹生(水銀)が平安時代あたりに多くとれたという形跡は、あまり見られないんですよ。

大内・坂本:おぉ、そうなんですね。

大河内:弥生〜古墳時代ごろの遺跡からは赤色塗料として採取・活用されていた痕跡は確認できます。ただ、空海の時代には、どちらかというと水銀鉱脈以上に「水」への信仰が非常に強いんです。紀伊半島を流れる紀の川(吉野川)の上流のように、水資源に関わるところに丹生の神様が置かれています。

大内:吉野には分水嶺がありますしね。青根ヶ峰があって、吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)があって。日本でも有数の多雨地帯ですし、水脈をはじめ様々な「脈」が集まっている点は、紀伊半島全体を見ても面白い。後白河法皇がよく熊野詣をしていたという話がありますが、実は山に眠る自然資源を偵察しに行ったのではないか?そんな説を唱える人もいます。

大河内:それは面白い説ですね。昔の人は、水や鉱脈などの資源そのものを神格化していたのかもしれません。

大内:実際、紀伊半島には鉱脈や水脈が集中していますしね。そういえば、記紀神話にも神々の死体から資源が生まれる描写が多くあります。残酷ながら、神々と資源の関係性を示唆していそうな点が興味深いですよね。

修験者たちは、なぜ紀伊の山に聖地を見出したのか

大河内:先ほども触れましたが紀伊半島の北部には大和の国の盆地がありますよね。かつて飛鳥京や藤原京、平城京が置かれていた場所です。さらに都が移って、京都に平安京が置かれた。それらの都市に対して南側の下半分は森と山が重なる「木の国」、関西弁に訛ると「きいのくに」ですが、つまり、紀伊半島は俗世間から隔絶した木々が生い茂る場所が大半を占めている土地と言えるんです。

坂本:役行者をはじめ、修行者にとって俗世とのつながりを絶って修行に励む格好のフィールドであった、と。

大河内:奈良時代には、法華経の教えに基づき、身体的苦痛を伴う厳しい行をする持経者(じきょうしゃ)​​たちがいました。彼らは、吉野から大峯の峰々、熊野につながる道々に行の場を見出した。東アジア全般に見られる神仙(仙人)思想にもつながる価値観がそこにはあり、山に聖地を求める背景にもなっていたように思います。

葛城古道からは御所の町が一望できる

大内:紀伊半島周辺の地図を俯瞰して見てみると、奈良盆地の南あたりから山地が広がっています。ちょうど中央構造線が走るエリアですが、地理的な概念を古代の人はどうやって得ていたのかなぁ。太陽の方角などである程度把握できるとはいえ、不思議ですよね。

大河内:経験則のようなものを何代も重ねる中で、「気の通り道」というか、科学的な証明は難しいけれど、共通認識として受け継がれた「脈」のようなものを見出していたのかもしれませんね。

大内:ぼく、そういうところにすごくロマンを感じるんですよね。エビデンスは気にしすぎず、逸話として楽しみながら歩いていると、古代の人が感じていたであろう「目に見えないなにか」が見えてくるような感覚を得ることがあって。修験者が行場を見出すことにも意外と共通するものがあるんじゃないかな、とか。

大河内:密教の修行道場を開く場を探して高野山に辿り着いた空海は、そんな感覚と共に、自分なりの土地勘を持っていたようですね。現代では「弘法大師の道」と呼ばれる吉野から高野山まで、距離を把握して歩いていたことが記録からもわかっています。若き空海は、山に囲まれ川の流れる高野山の環境が、道場を立てるにふさわしいと判断したのでしょう。それは東アジアにおける道教思想の「聖地にふさわしいのは山である」という根拠に基づいています。信仰の場としかるべき場所は山の上にこそあると。空海の持つ理屈に沿った霊山、それが紀伊半島・高野山という場所だったんです。

大内:本来的な修行のためには、身体的に負荷をかけるだけでなく「籠る」ことが必要だった。「俗」的なものから離れて集中できる広大な環境がこの地にはあったんですね。

坂本:日本文化では、「籠る」ことによって何か違うものに生まれ変わる、そんな概念があるような気がします。

大内:都から拝むことはできるけれど奥地は見えそうで見えない。そして、実際に山に入ってみたら到達点がはるかに遠い。しかしそれでも熊野まで行けてしまうのが紀伊半島。

大河内:山を辿れば、隣の国(大和国から紀伊国)まで行けてしまうわけですからね。

大内:大峯奥駈道なんて象徴的ですね。ひたすらに続く行の道を見て、修行者たちは喜んだだろうなぁ。

坂本:うーん、喜んだのかなあ…(笑)。

修験のルーツである「葛城古道」、「歩く」という行為によって見えてくるもの

大河内:役行者をはじめとする民間宗教者(出家していない在家の宗教者)が山林修行をすることで形成されたのが「修験」です。法華経には様々な物語があります。崖から飛び降りて動物に自分の身を食べさせるとか、体に火をつけて仏様に身を捧げることで功徳を積むとか。ともするとやや過激なところもありますが、それほどに厳しい山林修行のルーツと考えられているのが葛城古道であり、「葛城修験」です。

大内:なるほど。

大河内:葛城修験では、歩むことが69,384文字ある法華経を唱えることと同じとされます。1歩1歩が、法華経の1文字1文字なんだと、法華経28章になぞらえて28ヶ所の経塚(葛城二十八宿)を辿って歩いていくわけですね。明治5年に政府が出した修験道禁止令によって一時期途絶えましたが、現在も、部分的にではありますが再び葛城の山々を修験者が歩いています。紀伊半島西部の山々に伸びる葛城古道もそうですが、人々の生活に近い里を通る道です。里も含め修行の道であり、修験道は人々の暮らしとも深く関わっていたわけですね。葛城古道は伝統的な山林修行のあり方を現代を生きる我々が比較的容易に追体験することができる、素晴らしい道だと思います。

葛城古道の沿道にある一言主神社

坂本:イギリスの紀行文学作家であるブルース・チャトウィンと彼を追った映画監督のヴェルナー・ヘルツォークとの会話で、“世界は徒歩で旅をする人にその姿を見せるのだ”という言葉が出てくるんです。確かに、便利な移動手段では見落としてしまうものが、歩くことで見えてくるような気がします。

大内:うん、間違いない。

坂本:九品寺を訪れた際に大河内先生が「現地に行って体験を重ねることで、土地の物語が見え、地図や史料の行間がより深く読めるようになる」と仰っていましたが、自分の身体で歩くことで、立ち現れる世界、触れられるものがあると感じますね。

究極の山旅を体感できる道、「小辺路」

大内:ぼくはよく登山のことを「山旅」とか「歩き旅」と表現しますが、地域の文化や歴史を体験する最も良い手段が歩くことだと思うんです。必ずしも高い山に登らなくても、水平の道を歩き続けるのも山旅。今日歩いた葛城古道もそうですが、個人的には熊野古道の小辺路をその代表だと捉えています。

大河内:おぉ、上級者向けですね。

大内:そうですね。先日も3泊4日かけて歩きましたが、メンバーの1人が「これを歩き通せた私は、どこに行っても大丈夫」と自信を掴んでいました。

小辺路/写真提供:大内征

大内:道の途中に補給できる場所がほとんどないし、食材含め多くの荷物を自分で運ばなきゃいけない。しかもエスケープができないから戻るか歩ききるしかない。だから覚悟も必要だけど、そういう山歩きをいくつも経ていくことで、自信を持って日本中の山を歩けるようになります。目に見えないものを感じながら、自然の中を歩き続ける。

大河内:命の危険すらあるのが山の旅なわけで、長い距離を歩くには覚悟が必要ですよね。そういう観点で言えば、昔の修験者もやみくもに独りで山に入ったわけではなく、案内をする先達がいたんですよ。葛城修験の道も集落に近いため里との関係性が深く、村人が修験者の行をサポートするんです。役行者が従えていたと言われる前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)になぞらえて、そんな村人を現代でも「鬼(おに)」と呼ぶことがあります。「山を熟知している修験者こそ、サポートを受け十分に気を付けて山に入っている。その点は現代の山歩きにも通じる姿勢かもしれません。

坂本:ぼくも、山に入る時は万全の準備をします。「山伏なのにずいぶんびびってんな」みたいな目で見られますが(笑)。

大河内:いやいや、それこそが山を知る者の叡智ですよ。

大内:長けている人ほど段取りをしますよね。YAMAPを使うのもそのひとつ(笑)。無事に帰ってこその修行。

大河内:東アジアでは山を他界、つまり俗とは別の死後の世界と捉える考え方があります。他界で疑死を体験して、山のパワーをもらって帰ることで験力(げんりき)を得る。「疑死再生」で完結するので、仰る通り「生きて帰る」ことが大事です。

大内:歴史や哲学を考える山歩きにも、ハイグレードな登山にもチャレンジできるのが小辺路ですね。観光地としても人気ですが、何十キロ何百キロという古道歩きは、旅行者ではなく日ごろから山に親しむ登山者でなければ難しいことです。体力、装備、経験値など、本当の意味で古道を歩くのであれば準備が必要ですし、それができる人こそが「ハイカー」だと思う。日々の山遊びで鍛えられている人たちにはぜひ歩いてみてほしい。大型連休に向かう山というと北アルプス、北海道、屋久島あたりが人気だけど、そこに紀伊半島の古道歩きが入ってきたら良いなと思います。

生活の営みを感じさせる棚田。稲穂の季節はとても美しいそう

大河内:はるか昔を生きた人が設置した石仏がいくつもあったりと、歩いた人達の記憶の痕跡がきらめくように、連綿とつながる古道を、じっくり歩いてみてほしいですよね。自分もその道の歴史を刻んだひとりなんだと感じること。それもまた正しく歩くことで得られるひとつの達成感だと思います。

大内:フィールドワークをすると、その道を多くの人が歩く理由がわかって、納得感を得られるんですよね。歩く旅のいいところは、人から教わるのではなく実感できるということ。自ら歩いて手に入れたものだから、自信を持つことができる。

坂本:だから、先達サービスがあると良いですね(笑)。

大内:長距離でも一気に歩く「スルーハイク」をする必要はなくて。コースの一区間を歩く「セクションハイク」でも良いんです。

大河内:なるほど。

大内:自分なりに計画を立てて部分的に歩き、何回も通って、何年もかけて、一本の長い道を歩きつなげていくことは、山旅(歩き旅)のひとつのかたちだと思います。大和と伊勢神宮を結ぶ伊勢本街道はまさに、公共交通を利用しながらセクションハイクができる道です。何度行っても違う楽しみ方がありますよ。

小辺路沿いの『果無集落』。眺望の良さから『天空の郷』ともよばれている/写真提供:十津川村役場

日本神話を追体験できる「伊勢本街道」

坂本:中世に、伊勢神宮・下宮の神職であった度会(わたらい)氏によって伊勢神道が広まりましたよね。天照大御神(あまてらすおおみかみ)が祀られている内宮に対する外宮の地位向上を目指して、天御中主神(あめのみなかぬし)という御祭神の存在を主張したものです。それらが一大ムーブメントとなって、中世から近世にかけて様々な神道の物語が日本中を席捲しました。

大河内:古い神様とか物語が再解釈されてできたものですね。

大内:伊勢本街道は倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を遷座させる場所を探す旅の果てに伊勢にたどり着いたと言われる道です。山に伝わる神話や民話をたどって歩くのも本当に面白いですよ。

伊勢本街道/写真提供:大内征

坂本:熊野詣も、小栗判官(おぐりはんがん)など色々な物語がありますしね。現代でいうアニメの聖地巡りに似ているのかもしれない。

大河内:昔は「聖」に代表されるように、全国に熊野信仰を広げていくような宗教者がいましたね。例えば、時宗(じしゅう)という宗派の遊行聖が「熊野はすごい」と伝えたことで、全国の修験者が熊野参詣の先達となっていました。言ってみればツアーコンダクターのようなものです。途中の宿も手配してくれたりね。そういった活動が宗教だけにとどまらず、文化のひろまりにも寄与した側面もあると思います。

坂本:その流れから説経節(中世から近世初期に行われた、宗教性と娯楽性をあわせもつ語り物)なんかが生まれて、浪花節になったり、三味線弾きになったりするわけですね。

大河内:文化があるからこそ、それを体験する装置として道の魅力が高まったということはあるでしょうね。

大内:山に行くと思わぬところで物語を目にするんですよね。山麓の神社仏閣などにある案内板を読んで覚えておくと、別の山で物語がつながって点と点が結ばれる、そんなことがよくあります。

大河内:実感が言葉になり、定着していく。「自分が歩いた」という事実も歴史のひとつとしてストーリーを積み重ねることで、少しずつ「自分史」ができあがっていくんです。紀伊半島や奈良の古道は、色々な物語をつなげるハブのような道でもあります。実際に自分自身の足を置いてみることで、それまでに見えていなかったものが見えて、知っているつもりのことを学びなおすことができる。歩くことは、そんな経験をもたらしてくれる尊い行為だと思います。

*今回ご紹介した、4つの道 、「葛城古道」「小辺路」「伊勢本街道」「弘法大師の道」のエリア地図及びモデルコースは下記よりご覧ください。

*編集部より*

今回、記事協力いただいた奈良県 奥大和移住・交流推進室では、奥大和地域に暮らしている人々や移住希望者向けに、奥大和地域で暮らす人々のライフスタイルや地域の情報等を紹介するウェブページを作成し、当該地域の振興及び活性化を図るとともに、魅力を発信しています。詳しくは、下記サイトをご覧ください。

原稿:武石綾子
撮影:中部里保
協力:奈良県 奥大和移住・交流推進室

武石 綾子

ライター

武石 綾子

ライター

静岡県御殿場市生まれ。一度きりの挑戦のつもりで富士山に登ったことから山にはまり込み、里山からアルプスまで季節を問わず足を運んでいる。コンサルティング会社等を経て2018年にフリーに。執筆やコミュニティ運営等の活動を通じて、各地の山・自然の中で過ごす余暇の提案や、地域の魅力を再発見する活動を行っている。