地球上に人類未踏の地がほぼなくなった現代においても、北極圏の極夜での旅や、犬ぞりと狩猟による目的地、時間を決めない旅など、GPSなどの機器に頼らない冒険活動を続けてきた角幡唯介さん。
グリーンランドの犬ぞり旅から約半年ぶりに鎌倉のご自宅に戻ってきているタイミングで、最新の冒険論や、北極圏で旅を続けて感じるようになった最近の悩みについて、YAMAP代表の春山慶彦がお話をお聞きしました。
2024.09.06
YAMAP MAGAZINE 編集部
YAMAP代表 春山慶彦(以下、春山)
チベットにある世界最大の峡谷に挑んだデビュー作『空白の五マイル』(集英社文庫)はもちろん、極夜の漆黒の中を旅した『極夜行』(文藝春秋)など、角幡さんのほぼ全ての著作を拝読してきました。
そこで、まずお聞きしたかったのが、地球上に人類未踏の地がほぼなくなったなかで、「現代における冒険・探検とは何か」ということです。
冒険の行為の本質について論考していた『新・冒険論』(集英社)では、「冒険とは安全性や便利さを取り除いた脱システムである」とも述べられています。そこから北極圏のグリーンランドなど、いろいろと長旅をされていますが、この冒険の定義は更新されているのでしょうか。もしくは変わっていないのでしょうか。
探険家・角幡唯介さん(以下、角幡)
基本的に「冒険とは何なのか」と問われたら、『新・冒険論』で書いてきたように、「システムの外に出ること」が一番の要素だと思っています。
この本を書いたのは10年ぐらい前だと思いますが、当時の私は「システムに安住している日本の社会」に腹が立っていました。
この20年ほどで、Googleで検索すればすぐに欲しい答えが出てくるようになり、極地で冒険的な行為をする人たちも、GPSを使って最適なルートを進めるようになりました。
登山も同じで、未知のルートを自分の力で登るという、近代アルピニズムの象徴でもあったアルパインクライミングの世界でも、既存の有名ルートに人が群がる現象が起きています。
さきほど春山さんがおっしゃったように、冒険の世界というのは、どこかの極地を目指すことが多かった。南極点や北極点を目指すとか、どこかの地理的な目標を目指しました。
だけど、地球上で目指すところなんてなくなってしまった現在、何が起こったかというと、冒険がスポーツ化してしまいました。
世界最高峰のエベレストで考えると、わかりやすい。スピード、無酸素、最高齢……とかで競うようになってしまっている。「それは冒険の本質ではないんじゃない。冒険や登山は『ありきたりな世界の外側に出る行為』でしょう?」と言いたくて『新・冒険論』を書きました。
このスタンスは今も変わっていません。だから極夜行をやり、今は「どこかを目指す旅」を脱却した、「土地に詳しくなりながら、自分の行動範囲を広げていく旅」を実践しています。
春山
土地に詳しくなりながら、自分の行動範囲を広げていくとは、具体的にどのようなことでしょうか。
角幡
どこかを目指すとなると、どうしても机上のデータを準備しますよね。地図を見て、ここが面白そうだ、目的地までの移動のラインはこうだろ、と考えます。
でも実際に現場に行ったら地図通りにいかないことがたくさんあって、本当に険しいルートや場所になると、自分一人だけの力では突破できない。
そうすると、それこそGPS、YAMAPさんがやっているスマートフォンの登山GPS地図アプリなど、最先端のテクノロジーに頼っていくのが今のやり方なわけです。だけど、それは自分の力ではない。
では、自分の力とは何なんでしょうか。
理想を言えばですが、それは地図もコンパスもない、何もない状況──。本当に真っ裸な状態で、一つ一つ土地のことを学びながら、土地そのものを自分のエリアとして開拓していく能力です。
その結果として、その次の場所に行けるっていうのが、土地と一体化し、自分の行為を作り上げていくということです。今の最先端の冒険とは対極にある、すごくオールドで、エスキモー的なやり方なんですけど。
私はこの10年ほど毎年グリーンランドに行っていますが、基本的にこのスタイルで自然と日々向き合っています。エスキモーですら、今はこんなことをやってません。みんなGPSを使って行動しています。結果的に古いやり方への回帰になりましたが、意識としては、逆に新鮮なんです。
春山
日本に限らず、角幡さんみたいなスタイルやお考えで、いわゆる冒険、探険的な活動をされている方はいるのでしょうか。
角幡
サバイバル登山家の服部文祥さんの考え方は近いと思います。私自身、影響を受けているところもすごくあります。
極地の世界で似たようなことをやっている人は、世界では今、私以外にはいません。地元のエスキモーは、昔の探検記とか読むと、半端じゃない能力を発揮しているのですが、今は全くいない。絶滅している。かろうじて何人か、そういうことをやりたがってる人はいるけど、色々しがらみがあるとかで実現できない。
それこそ、ほとんどがSNS中毒になっちゃってるから、家で液晶画面を見ている方がいい、みたいな実情もあります。あとは、お金にならないとか、生活できないというのもあるので、地元のエスキモーで本当に冒険的な行為をしている人はいません。
春山
世界的にも冒険家自体が絶滅危惧種なのかもしれないですね。それでも、角幡さんは生活を回しながら冒険を成り立たせているのがすごいですね。
角幡
『極夜行』を書いている頃、40歳ぐらいまでは、自分の思想を行動として表現したいという志が強かったんです。
20世紀初頭、人類初の南極点到達を目指したイギリスのスコットは、ノルウェーのアムンセン隊に敗れ、遭難死しています。スコット隊の一員で、生還した動物学者アスプレイ・チェリー=ガラードは『世界最悪の旅』という著書の中で、「探検とは知的情熱の肉体的表現だ」という有名な一節を残しています。
私はこの言葉に強く感化され、かなり無理をしていました。
ただ、狩猟を始めてから、肩の力が抜けました。今は、単純に極地を旅する人間として、上手に旅ができるようになりたい。
春山
「上手」とはどういう意味でしょうか。
角幡
無理のない行動ですね。北極にいるとするなら、北極という場所の環境をうまく使えること。近代的な「目標地点に行く冒険」だと、ゴールまで直線的に動きたくなるじゃないですか。
そうすると、土地を無視してしまうわけですよ。土地の状況とか関係ないですから。ティム・インゴルドというイギリスの社会人類学者は、近代的なやり方っていうのは、直線的に行くから、土地を寸断する、と指摘しています。
私の現在の理想は、土地の条件や事情みたいなものに従い、ふらふらするけど、うまく土地を使いながら旅するやり方です。インゴルドも「エスキモーのエスキモー的なやり方」と書いていましたけど、エスキモーは狩猟民ですから、狩りをしながら行くわけですよね。
エスキモーといえば犬ぞりですが、犬ぞりで行けるところはどうしても限られてしまう。土地の傾斜が厳しくなかったり、雪がちゃんと固く張り付いたりしている場所が理想的なので、そういう自然の条件をうまく使いながら旅する。それって地図を見ただけでは、わからない。
現場に何回も足を運んで習熟しないといけないわけです。すごく時間がかかって、何年も通わなきゃいけないんだけれども、それができるようになっていくと、土地をうまく使いながら自由に旅ができるから、すごく面白いんですよね。土地と一体化しているような感覚もあるし、それがやっぱり面白くて、グリーンランドで犬ぞりをやってきてました。
春山
行為と表現について書かれた『書くことの不純』(中央公論新社)や、極夜行の後にグリーンランドを旅した『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』(集英社)でも狩猟がキーワードとして出てきますよね。角幡さんにとって、狩猟との出会いが、冒険の大きな転機のように見えます。
角幡
最初に北極で狩猟を始め、3年前かな、日本でも狩猟免許を取って鉄砲を持つようになりました。自分の冒険観が変わったのは、初めてシカ狩りに行ったときです。
狩猟は登山と行動や考え方が全然違います。登山する人間としては「あの山を登りたい」と思ったら、地図を見て、沢をつないで目的地までのルートを考えて、その道中でシカ狩りができたらいいと考える。もちろん、最初は登山の延長の考え方だったので、獲れませんよね。
狩猟では、足跡や食事の形跡やら、目の前にあるものに反応しなくてはいけない。無尽蔵に広がる鹿の世界に入り込む必要があるんです。
春山
登山をはじめ、近代的な冒険は「計画」と「完遂」を重視しがちですが、狩猟は自分の主体性をなくさないと厳しいですよね。決める軸が土地側にある感じがします。
角幡
登山は全部とまではいかないけれども、5:5とか、6:4ぐらいで自分の意志みたいなのがあって、その意志を完徹するっていうところに達成感みたいなのもあるし、喜びがあったりもします。
狩猟の場合はシカの足跡に気がついた瞬間、「立てた計画」を捨てて反応しなくてはいけない。極端なことを言えば、自分をゼロにして、その土地のそのときの条件に素直に反応できるようにするっていうことになります。
登山と狩猟はかなり相性が悪いと思います。今は狩猟や犬ぞりを方法にしながら、目的地は作らないで、北極という土地をふらふらしたい。
春山
そもそも、なぜ北極という場所を選んだのでしょうか。角幡さんにとって、北極は必然であり、大事な要素であるとも思っています。
角幡
極地を選んだ理由は、さきほど話した『世界最悪の旅』を学生のときに読んだ影響が大きかったと思います。この本は100年以上前の南極探険を描いているのですが、ほぼすべての隊員が死亡する壮絶なノンフィクションです。
この本を読んでこんなに死がゴロゴロ転がってるような世界が世の中にあるんだっていうのが衝撃的で、「死の近くに行けば、生の実感を得られるのではないか」という思考に取り憑かれてしまい、30歳から北極に行くようになりました。
春山
しかし、今の角幡さんが北極に抱くのは「死の隣」ではないですよね、きっと。
角幡
はい、もう全く違う。だからそれは48歳の私の最近の悩みでもあるんですけど、今は「ここにいても俺は絶対死なない」という確信があります。グリーンランドに毎年通い、「あそこに行ったらジャコウウシいる」とか、「この時期はアザラシが出てくる」とかが、ほぼ読める。狩り場のルートも、気象状況もわかる。全部対応できるんですよ。
もちろん、シロクマが夜中にテントを襲ってきたら命の保証はないし、氷を踏み抜いて死ぬ可能性はあります。
実際、今回の旅でも、犬ぞり中に喧嘩が始まり、犬がみんな逃げてしまうアクシデントに見舞われました。人里からは400kmほど離れていたので、かなり危険な状態でしたが、妙に落ち着いていた。しばらくしたら、幸運にも犬が私のもとに戻ってきてくれたので、喧嘩を仲裁し、事なきを得ました。
春山
自分の場所になった感じでしょうか。
角幡
そうですね。アザラシやシロクマ、ジャコウウシを獲って旅していたら、北極が「庭」になってしまいました。庭になっていく過程まではいいんだけど、本当に庭になっちゃったら、庭の巡回を本に書いても、どうしようも面白い本にならない(笑)。
「旅が上手になった」ことと引き換えに、刺激がなくなってきました。昔は自分の本を読めば自分のやっていることは100%理解してもらえると思って書いていたのですが、最近はそこまで思えなくなっている悩みがあります。
春山
それは、どのようなことでしょうか。
角幡
書いて面白いことは、行為としてのレベルが低い段階です。例えば犬ぞりでいうと、最初は犬が全然扱えなくて大混乱ばっかりで……。それをどうやってチームとしてまとめ上げていくか、みたいな、作り上げていく過程が、自分としても書きたいなと思えるし、書いていました。
でも、上手くなるほどに「犬が喧嘩してるな、仲介しよう」「餌が少なくなってきたから獲ろう」という具合に淡々とした行為になっていく。淡々とした話を書いても、読んでも面白くないですよね。行為が深まるほどに、表現できなくなるジレンマを抱えています。
春山
面白い問い、というか深みですよね。行為が上達するほど文章表現ができなくなっていくのは、必然でもある気がします。冒険者・旅人よりも生活者になっていく。これは、先程出てきた「土地に詳しくなりながら自分の行動範囲を広げていく旅」そのものであるような気もしています。
角幡
そうですね。旅から生活になっていくことは、ある程度予想はしていましたし、目指してきました。ただ、想像以上に淡々としていました(笑)。「この場所では死なない」と思うほど庭について精通してきましたが、自分の体がいつぎっくり腰になるんだ、というような、自分の衰えのほうが気になります。
春山
外的なものより内的な体の危険ですね(笑)。でも私は角幡さんファンでもあるし、冒険、探検をリスペクトしている一人の人間として、今後どのような人生を歩まれるのか、というのは、同じ時代を生きている人間としてずっと見守らせていただきたいと思っています。
次に角幡さんが、カナダという新しい土地を選ばれるのか、また場所は変えずに、何か違う内面的なものに向かわれるのか、どういう冒険、旅をされるのか、それが極地探検なのかというのは、人類代表として面白いなと思っています。
角幡
しばらくは今の犬たちと旅をしたいです。今の犬ぞりのチームは6年一緒に旅をしていて、自分の中で歴史になっている。犬は人間より成長も老化も早いので、リーダー犬が変わって、世代交代して、という流れが毎年起きるんです。
仮に旅を休止して3年間日本にいるとなったら、今のチームは解散せざるをえません。犬たちには、自分の子どもに近い愛着があるので、新たなチームを組む気はないです。だから毎年彼らに会いに行かなくてはいけないし、疲れるのですが(笑)。あと5年は冒険を続けると思います。
春山
すごい。体力的にも5年は続けられる自信があるのは、ファンとしてもうれしいです。
角幡
体力的にはまだまだ大丈夫ですね。感性の摩耗がむしろ問題です。北極という環境に慣れすぎているので、変化を持たせるとしたら、地元のエスキモーと一緒に旅するとか、カナダに場所を移すのがいいんじゃないかなと思っています。
カナダはアラスカまで北極圏が続いているので、かなり広い。そこを最後に旅するのもいいなあ、なんて考えてます。
エスキモーとの旅は、小屋で一緒になった地元のガイドから「角幡、じゃあ来年一緒に白熊狩り行こう」と盛り上がってしまったから。ずっと地元の人と旅をしたいとは思っていたので、実現できたら嬉しいです。とはいえ、彼らにとっての「来年の約束」は「来世の契りを交わした」レベルなので、全く当てにはならないんですけど(笑)。
春山
面白いですね。角幡さんのすごさは「自分で選んでる」よりも「身を委ねている」方が近いから、読者として「そうなるのか!?」という驚きがいつもあります。冒険、探険の一番大事なコアを体現しているように感じます。
角幡
もし、冒険をやめたとしても犬ぞりは続けたいですね。日本でやると、スケールは小さくなるかもしれないけれど、日本でやるなら故郷の北海道かなとは考えてます。それこそ、犬を何十頭も飼ってしまったら、旅に出かけるのは難しくなりますよね。
あと、どうしても生活をちゃんと作っていきたい気持ちもあって、自分の身の回りのものを全部自分で、食料から家から自分で作っていきたい。
ゆくゆくはそういう生き方にシフトしていくんでしょうけれど、踏ん切りがつかない。地球で一番北側の土地が庭になっちゃってるし。じゃあ、それを手放せるかといったら、なかなかそれも手放せない。そのジレンマに最近悩まされています(笑)。
「43歳の落とし穴」を乗り越えて。衝動とは生き方|探険家・角幡唯介✕YAMAP 春山慶彦 vol.2
▼詳細はYouTubeの対談動画で
▼角幡さんの著書『新・冒険論』(集英社)を読む