『チ。-地球の運動について-』魚豊さんインタビュー|ぼくらの地球は美しい

2020年『週刊ビッグコミックスピリッツ(小学館)』での連載開始以来、並外れたスケールと哲学的な内容から人気を博し、「第26回手塚治虫文化賞マンガ大賞」にも選ばれた漫画『チ。-地球の運動について-』。15世紀のヨーロッパを舞台に、異端思想とされる「地動説」の証明に身命を賭して挑む人々の姿を描いた群像劇です。

今回YAMAP MAGAZINEでは、その作者である魚豊(うおと)さんにインタビューを実施。壮大な作品に込められた想いと、同氏の地球観についてお伺いしました。

2022.09.18

武石 綾子

ライター

INDEX

世界の美しさに気づかせてくれた、三島作品との出会い

―『チ。-地球の運動について-』では「地動説」というスケールの大きな題材が取り上げられています。魚豊さんは、もともと地球や自然などに関心をお持ちだったのでしょうか?

正直なところ、高校生ぐらいまでは感受性の高いタイプではなかったと思います。ハッキリと転機が訪れたのは大学生の頃、『三島由紀夫スポーツ論集』というエッセイ集を読んだことがきっかけでした。それは直接的に自然風景の話をしてる訳ではないのですが、その中で展開される躍動感あふれる三島から見た世界に圧倒されたんです。

運動をした後の、疲れた体で感じる晩夏の青空などの情景描写がとても印象深くて。その一冊を読み終えてみたら、不思議なほどに世界が違ったもの、全ての景色が美しいものに見えたんです。文章に触れただけで、世界の見え方が変わったのは、大きい経験でした。

その時に「自分はルールを知らずにこの世界にいたんだ」と感じたんです。 例えばスポーツ観戦では、ルールを知ることで選手の動きやゲームの進み具合などを、より明細に楽しめるようになりますが、同様に文学には世界の楽しみ方を言葉によって提示してくれる、ルールブックのような機能があると思ったんです。

別にたいして文学青年でもないぼくですら、三島の何気ない文章との出会いをきっかけに「自然の素晴らしさに気づく方法」を知ることができた。それ以来、本や文字というのは単なるフィクションではなく、自然の美しさや確かな身体性を伴っているのだと感じるようになりました。

壮大かつ難解なテーマに挑んだ背景とそこにある真意とは?

―作品のテーマを「地動説」に決めた背景にはどのような想いがあったのでしょうか?

構想の出発点は、人間の持つ「知性と暴力」について描いてみたいという気持ちでした。題材を探す中で「地動説」に行きついたのですが、それとは別に、元々、宇宙や地球というモチーフは書いてみたいものではありました。地動説を使えば、そういったマクロコスモス的なものと、人間というミクロコスモス的なものをどちらも描ける点にも魅力を感じたんです。

他の題材でも「知性と暴力」は表現できたかもしれませんが、結果的に地動説を選んだのは、やっぱり地球というスケールの大きさ、つかみどころのなさ、想定の及ばない圧倒的なものについて描いてみたかったのだと思います。

作中では地動説の象徴としての「地」、知性の象徴としての「知」、暴力性の象徴としての「血」が登場人物により語られている

―人間の内面はもちろん、身体性についても非常に丁寧に描写されている印象を持ちました。

そう言っていただけると、とても嬉しいです。達成できるかどうかはさておき、目標として、身体性を持った漫画を目指したいという思いはありました。実はコンセプトを作っている段階から、「痛みを感じる暴力描写が描けるか」というのはこの作品において、トップレベルで重要な事だと思っていました。

拷問描写で人間の血生臭さや痛み、そういう感覚を読者と共有できれば、読者とキャラクターの距離が近くなり、逆に「痛み」を持っていない悪役(ノヴァク)のキャラクター性も演出できる。

「痛そう」という身体性はこの作品のテーマやメッセージにも直結してくるので重視してました。

―確かに、作中では人物の痛みや苦しみ、感動が強く伝わりました。作品を描く中で、特にこだわった点は?

「人が持つ知性を信じる」というスタンスは、最後まで確実に貫きたいと考えていました。ただ同時に、ひたすらに知性を礼讃するだけの作品にはしたくないという気持ちもありました。

知性というものには危険性や限界もあるし、時として環境を破壊してしまうこともある。やっぱり、地球や自然という圧倒的な存在を前にしては、人間はどれだけ時を重ねても敵わないわけです。

でも、だとしても自然の真理に挑むことを人はやめられない。時に逡巡しつつも前に進み続ける人々の姿勢を描きたいと考えていました。

天動説が常識とされる世界にあって、登場人物たちは偶然の出会いから地動説の美しさに魅了されていく。本作は、時を超えて「知」をつなぎ、真理に至ろうとする人々の群像劇だ

―普遍的な「自然の真理」と流動的で矛盾を抱えた「人間」という存在、二軸で描かれているようにも感じました。

そうですね。真理というものを信じてそこに到達しようとする人たち、圧倒的で巨大な謎に挑んでいく人たちの姿を表現したかった。

本作の時代設定である15世紀頃、西洋社会を席巻していたのは「唯一無二の創造神によって世界は造られた」という世界観です。

作中の登場人物達は、その世界観に対してのアンチではないどころか、創造神を崇めるからこそ、その考えを知りたいという動機で、地動説を追求していく。

しかし、それが結果として科学や近代化を呼び込んでしまい、それ以前の宗教的世界観を壊してしまった。

信念をさらに強化しようと追求した結果、信念の綻びを発見してしまったり、信念自体を破壊することになってしまう。そういう人間の持つ切ない矛盾もモチーフとして捉えていました。信じている、もしくは信じていたものを自ら破壊しに行ってしまう人間の葛藤やジレンマのようなものですね。

先人が守ってきた常識に挑む人々の葛藤は、資本主義が行き詰まりを見せる中で新たな価値観を生み出そうとする現代社会に通じるものがある

―「人間の知性」の暴力的側面や、それによってもたらされる自然への影響について、作中では意識されていましたか?

時代設定的にはその前夜、予兆を感じさせる終わり方にしようと考えていたんですが、メタファーとして入れたのは「爆薬」です。

爆薬って人類史において極めて画期的なものですよね。山も道も開拓できて、効率的に地球そのものに手を加えることができる力を人類は手にしたわけです。結果として我々はとてつもなく快適に過ごせる様になった。ぼくもその恩恵にドップリ浸かってます。

しかし、同時にそれは兵器にもなるし、ぼくの快適さの裏には、取り返しのつかない環境破壊がある。作中での、「爆薬」はそんな負の側面、暴力的なテクノロジーとして登場させました。

―人類の発展によって得られるものと失われるもの。そのような両面性も、作中で描くことを意識されていたのでしょうか。

そうですね。勿論取りこぼしたものは沢山あるでしょうが、善悪の両面ある事象については、バランスを心がけようと思っていました。ただ、バランスを取ることに終始する作品にはしたくなかったんです。個人的に、作品には作者の思想的な結論がある状態が望ましいと思っています。

ですので最終的に「人間の知性を信じたい」という、結論を描いたつもりです。「知性は良い面も悪い面も両方あるよね」という言いっぱなしの答えで終わらせたくなかった。ダメなところもいっぱいあるけれど、間違いを犯しながらも、知性が持つ可能性を信じて生きていこう、という終わり方にしたかったんです。

最終巻のひとコマ。作中には希望の象徴としての朝日が数回にわたって登場する

人類が自然と調和して生きるためには?

―昨今大きな問題となっている地球環境の変化は、「人間の知性」が持つ負の側面と言えるかもしれません。魚豊さんご自身はどのような印象をお持ちですか?

難しい問いですよね。ぼく自身は資本主義の恩恵を受けてのうのうと生きてきましたし、今後もクーラーとか使いたい。だからそれを批判できる立場では無い。

でも環境問題は考えなければならないテーマだと認識しています。

当時を生きてないので、レイチェルカーソンや、80年代あたりのエコロジーブームがどんな感じだったのか肌感覚では分かりませんが、今後は、その時より一層フィクション世界でも環境問題や自然などを扱う作品は増えていくのではないでしょうか。

そこに対するバックラッシュ(反動)含め、気になる問題です。

―リアルな問題として差し迫っている今、社会や人々の価値観はどのように変化していくとお考えですか?

全くわかりません。

ただ、環境問題について考えるとフランスの民俗学者であるクロード・レヴィ=ストロースのメッセージが浮かびます。彼は著書である『野生の思考』で「拡張ではなく再利用」の重要性を謳っています。

雑にまとめると、ある部族は、経済先進国のような壊して拡張する方法ではなく、必要なときに必要な分だけ材料を使い、再び解体して再利用する。という方法をとる。

その姿勢は実は極めて合理的で、かつ自然への畏敬の念がある。自然と調和しながら、自分たちの力の及ぶ範囲で生き続ける、という考えです。私たちは人間中心主義へのアンチテーゼとしてそういう概念と向き合わなければいけなくなっている気がします。

でも具体的に何ができるのかは全然わからないので、取り敢えず、ぼくは服を買うとしたら古着を検討してみます。よく言われる方法ではあるのですが。

学ぶ意義は、世界が豊かで美しい事実に気付くこと

―「地球とつながるよろこび」を感じるために、魚豊さんが大切だと思うことはなんですか?

ぼくの場合は、先ほどお話した三島作品のように、本を読んだり深く調べる行為を続けることで見える景色が大きく変わったんですよね。それはもう、世界がめちゃくちゃ豊かになったんです。自然ってこんなに美しかったんだって、驚くくらい。

「学び」の本質はそこにあると思います。「学び」を深めることは、世界をより美しく感じることにつながる。

とか言ってても、ぼくは学校の勉強は得意でもないし、全然好きになれなかったんです。学校の勉強と自分たちの生活が、どのように繋がっているのかがよく分からなくて興味も持てなかった。

でも高校や大学で哲学や倫理に触れて、学びが人生に反映される経験を得たんです。世界の見え方や自分の人生観が変わるというか。そんなことを感じられる勉強なら、本当に大きな意味があると思います。

第2巻以降に活躍するオグジーは、学びによって徐々に世界の美しさに気づいていく人物として描かれている

―「学び」を深めることが、世界や自然の見え方を変えてくれるということですね。

それは確実にあると思います。ぼく自身が学びの過程で大きな影響を受けたのは、エドマンド・バークやイマヌエル・カント(両者とも18世紀に活躍した哲学者)などが論じていた「美と崇高」という概念です。

これもとても雑にまとめると「人間の抽象的な価値判断には、美か崇高か、という2種類がある」ということ。

「崇高」は人間にとって操作や想像自体できないもの。人間が立ち入れないような高山、他には津波などの現象もそうかもしれません。一方で「美」は合目的、合理的に創られているもの。構図などのロジックによって理解できるもの。

「崇高」なものはそのロジックすらわからなくて、「すごい」を超えて「やばい」という感情が湧き出てくる。そこには恐怖もありますが、必ずしもネガティブなものではなく、寧ろそれに対して自分は到底何もできないので、畏怖と謙虚な気持ちが生まれるというか。

そういう考えを知ってから自然を見るのがちょっと好きになった。

カントは自然をみて、「綺麗だなー」とか「恐ろしいなー」とか感じるだけじゃなく、なぜそれがその様な感情を引き起こすのか? という理由を見出すことに挑んだわけですが、その着眼点のスケールの大きさやドラスティックさに驚きます。

―まさに本作の主題でもあるタウマゼインの追及ですね。

そうですね。タウマゼイン(「驚き」を意味するギリシャ語。哲学の領域で「知的探求の始まりにある驚異」として表される)は人間の本性であり、止められないものだと思います。

探求の原動力にもなり、一方で暴発の危険性も孕んでいる。それが実際に現実世界の問題として表出している部分もあると思います。問題は起きてしまうものですが、私たちは、そこで止まるのではなく、起きたことに対して「なぜこんなことが起きたのか」「何か別の方法もあったのではないか」と考える、省みることができる。

「ひとりではない」という事は、ブレーキ機能としても重要です。人間が何億人もいる意味はそこにあるんじゃないかとも思います。暴発を未然に防ぐことも、主張が過度にならないようバランスを取ることもすごく難しいですが、答えがでない問いに対して考え続け、未来に想いを繋いでいくことが重要なのかなと思います。

作中終盤には、「タウマゼイン」が意味深に語られるシーンがある

―魚豊さんの感性で、今後どのような作品が生み出されるのかとても楽しみです。

人間が自然に対して畏怖や敬意を抱く中継点になるようなものを作るのは、文学をはじめとして創作の仕事だなと思います。この世には色んな人がいて、広い自然がある。

そんな単純な事実を自分に思い出させる様な漫画を描いていきたいです。

武石 綾子

ライター

武石 綾子

ライター

静岡県御殿場市生まれ。一度きりの挑戦のつもりで富士山に登ったことから山にはまり込み、里山からアルプスまで季節を問わず足を運んでいる。コンサルティング会社等を経て2018年にフリーに。執筆やコミュニティ運営等の活動を通じて、各地の山・自然の中で過ごす余暇の提案や、地域の魅力を再発見する活動を行っている。