夏山シーズンの到来を目前に、「今年こそは北アルプス登山を!」と考えている人も多いはず。そこで気になるのが「山小屋のコロナ対策」。
私たちのアルプス登山を支えてくれる山小屋は今、どうなっているのでしょうか。YAMAP MAGAZINE取材班は例年登山者の人気を集める北アルプスにある蝶ヶ岳ヒュッテ、そして山の玄関口として馴染みの深い安曇野市へと向かいました。
取材を通じて見えたのは、山の安全の担保に日々向き合いながらも、登山者に快適に過ごして欲しいと願う、山小屋を支える人たちの思いでした。
2021.06.29
小林 昂祐
撮影と執筆業
北アルプスのように標高3,000m近い峰々が連なる山域では、ときに過酷な気象に見舞われることもあります。そんなアルプス登山を支えてくれているのが蝶ヶ岳ヒュッテをはじめとする山小屋です。
しかし2020年、新型コロナウイルスの感染拡大により、全国の山小屋は厳しい現実に直面しました。日々飛び交う情報に「山小屋を利用してもいいのか?」と悩んだ方も少なくないはず。
コロナ禍2年目の夏を前に、「山小屋の今を知りたい、伝えたい!」と、YAMAP MAGAZINE取材班が訪れたのは蝶ヶ岳ヒュッテ。北アルプスでも人気の登山ルートである表銀座に位置し、穂高連峰や槍ヶ岳といった名峰を望むことのできる山小屋です。
本記事では、蝶ヶ岳ヒュッテが行っているコロナウイルス対策を詳しくレポートするほか、登山者が感染拡大を媒介しないための心得やハウツー、表銀座にある山小屋を管轄する安曇野市の商工観光部 観光交流促進課の方々へのインタビューをお届けします。
取材班は定番の三股登山口コースをセレクト。新緑が心地よい樹林帯のコースを楽しみつつ、4時間ほどで山小屋のある稜線に到着。
出迎えてくれたのは昨年からコロナ対策に携わる小屋番の鈴木さん。忙しいなか取材に対応してくれました。
到着して早々ですが、鈴木さんに山小屋を案内していただきました。どのような対策を行っているのか、これまでとは何が違うのか、ご紹介していきたいと思います。
小屋に入る前にマスクを着用し、テーブルに用意されたアルコールスプレーで手指の消毒を行います。コロナを持ち込まない。これは山小屋でも一緒。登山中、マスクを外していた方は着用してから山小屋に入りましょう。
そして「宿泊台帳」と「宿泊者連絡先名簿」を記入します。「宿泊台帳」についてはコロナ禍以前と同様ですが、今は感染者が発生した際の連絡のために「宿泊者連絡先名簿」も用意しているのだそう。
蝶ヶ岳ヒュッテには、蝶ヶ岳山頂側と常念岳側の2つの入り口があります。以前はどちらからも行き来できたのですが、現在、蝶ヶ岳山頂側の玄関は日帰りとテント泊の登山者用、常念岳側は小屋宿泊者用となっています。これは小屋泊の人たちが他登山者と接触する人をできるだけ少なくするための工夫なのだとか。
一方、日帰りやテント泊の登山者向けには、山小屋の中に入らなくても受付や買い物ができるようにと蝶ヶ岳山頂側玄関の横の窓を改造。飛沫が飛ばないようにアクリル板も設けてあります。「夏場のシーズンになると、多いときは200〜300張りほどのテントで埋まることがあります。その受付を小屋のなかで行うのはどうしてもリスクがあるので外に設けました(鈴木さん)」。
つづいて小屋の中へ。こちらはドミトリータイプの部屋ですが、なんとこの部屋を仕切る壁は新たに「増設」したものなのだとか。「もともとは壁ではなくカーテンで仕切っていました。それでは空気が行き来してしまうので、2畳ごとに壁を作り、1部屋に1人ずつ、同居されている方は2人まで一緒に入れるようにしました。今年はウイルスを減少させる効果のあるオゾン発生機を導入したので、チェックアウト後に使用しています(鈴木さん)」。
こちらがそのオゾン発生機。蝶ヶ岳ヒュッテは稜線の上にあるため、水資源は雨水のみ。そのため頻繁に洗濯が行えないこともあり、オゾン発生機を使ってウイルス対策をしているんです。なかなか目にすることのないオゾン発生機に取材班も釘付け。
「オゾン発生機は3台購入しました。小さい部屋であれば10分ほどでオゾンが充満しますが、空間の広さによって時間を変えていますね。お客様がチェックアウトしたら窓を閉めて、オゾンを充満させて布団と部屋のウイルス対策を行っています。基本的に掃除はチェックアウト後に一度。床や手で触れる場所はアルコールで消毒をしています(鈴木さん)」。
なお、ドミトリーの天井には換気扇が。今年の春に三箇所、新設してもらったとのこと。換気のための窓が限られるドミトリーですが、空気の入れ替えもバッチリ。
とくに人が集まりやすい受付や売店は常時換気を行っているとのこと。しかし、天気のいい日であればいいのですが、朝晩や荒天時は開けておくことができないのが山小屋特有の悩み。そこで窓の通気と換気扇による空気の入れ替えという2つ選択肢を持つことで、常に山小屋内の空気を循環させているんです。
こちらは食堂。今は掃除後のためにテーブルが並んでいませんが、1つのテーブルに2人までと人数を制限し、多くても25人ほどしか入れないようにしているとのこと。テーブルを挟むようにパーテーションを設け、飛沫が飛ばないように配慮されています。
食事の時間はついつい盛り上がって会話が弾みがちですが、できるだけ控えてすませるのは山小屋も同じ。「小屋で過ごす時間は山の楽しみという方も多いので複雑な気持ちですが、早めに休んで翌日に備えていただければと思っています。売店の営業時間は20時から19時に、消灯も21時から20時に短縮しているんです(鈴木さん)」。
現在、蝶ヶ岳ヒュッテの小屋利用は「完全予約制」。そして、最大250名ほどのキャパシティを100名まで減らして運営しています。その理由は、人数が増えれば当然ながら密になってしまうし、これまで紹介してきたような対策の効果を徹底させるため。
これまでは山小屋といえば基本的には予約「推奨」。飛び込みでも宿泊を受け付けてくれていました。というのも、悪天候や体調不良などで予定通りに下山できなかったり、雨によりテント泊をやめて小屋泊に切り替えたりといった、「避難小屋」としての役割もあったからです。
しかし今、そのすべてを受け入れると、徹底的に行っているコロナ対策が崩れてしまうというジレンマが出てしまいます。
蝶ヶ岳ヒュッテのホームページでは小屋泊は「完全予約」と明記してありますが、少なからず従来の感覚で訪れる登山者もいるのだそう。徹底したルールの上で営業していることもあり、早い時間であれば宿泊を断り、下山を薦めざるを得ないのだと鈴木さんは話します。
「小屋泊をご希望の方は事前に電話で予約をお願いしています。基本的に予約をされていない方は小屋内には宿泊できないので、天気予報やご自身の体調や体力などを見極めて、引き返すなどの判断をお願いしたいと思っています 。ただ、天気が悪い時などは、断った人が事故を起こしても怖いので、どうしても厳しい場合は受け入れています。そこは判断が難しいですね(鈴木さん)」。
ひととおり鈴木さんに案内してもらった取材班ですが、実際に泊まってみて感じたこともお伝えしたいと思います。
泊まったのは「安曇野」という2階にある個室。広さは4畳ほどで、窓があり換気も心配ナシ。
枕には不織布の使い捨てカバーがかけてありました。トラベルシーツや寝袋などの持参が推奨されていますが、持ってきていない方のために上半身にかけられる不織布シーツも用意されています。なんとこのシーツ、オリジナルで作ってもらったものなのだそう。有料となりますが、心配な方には心強いアイテムでしょう。
夕食は18時半から。異なるグループ間で感染が発生しないようテーブルの間にパーテーションが設けられています。宿泊者の人数が多い場合は、密にならないように時間帯をずらしているのだとか。
食事の提供の仕組みも、これまでセルフサービスだったご飯とお味噌汁をプレートとお椀での提供に変更。これも不特定多数の人が同じしゃもじやおたまを使うことを避けるため。おかわりは小屋番さんが新しい食器で提供してくれます。
食事は人と人が接する場面でもあるため、もちろんスタッフも対策を徹底。安心して食事を楽しめます。なお、ごはんとお味噌汁のおかわりは専用の窓口を使用。「できるだけ接点を減らすことで、私たちが媒介しないように注意を払っています(鈴木さん)」。
登山者がチェックアウトした後は、小屋番さんたちが掃除と消毒を行います。毎日のように繰り返される山小屋の営み。私たちが次の山を目指しているとき、下山ルートを歩いているときも、安心して泊まれるように対策が行われているんです。
オゾン発生機も稼働中。次の宿泊者が気持ちよく安心して泊まれるように、個室や宿泊スペース、食堂などの空間はオゾンを充満させます。
名残惜しいですが、鈴木さんをはじめ山小屋の方とお別れの挨拶をして下山します。アルプスの山々をバックに赤い屋根が映える蝶ヶ岳ヒュッテ。山小屋があるからこそ登れる山がある、見られる景色がある。「また来たい」そんなことを考えながら、YAMAP MAGAZINE取材班は蝶ヶ岳を後にしたのでした。
今回の取材で蝶ヶ岳ヒュッテに宿泊しましたが、素晴らしい景色を目の当たりにすることができました。太陽が沈んだ後、ゆっくりと変化する空を眺めていると時間が経つのも忘れてしまいます。こんな景色を見られるのも、山小屋のおかげなんです。
コロナ禍になってからアルプス登山から足が遠のいてしまっていたという方も少なくないはず。しかし、対策を万全にすれば、以前のように登山を楽しめることを知っていただきたいと思います。
穂高方面とは反対側には安曇野市の夜景が。こうして山の上から眺めてみると、今いる蝶ヶ岳ヒュッテも安曇野市の一部だということがよくわかります。
翌朝も快晴。山小屋の窓から明るくなりはじめた空を見て慌てて飛び出すと、ちょうど朝日が雲海から昇ってくる瞬間に立ち合うことができました。夕焼けも朝日も見られるなんて、なんという幸運!
蝶ヶ岳ヒュッテからほど近くにある展望台。朝日を見に集まった登山者たちも言葉を失う最高のコンディション。穂高連峰、そして槍ヶ岳もオレンジに染まります。
そして取材班は片道30分ほど歩いた先にあるピーク・蝶槍へと足を伸ばしました。目の前に広がるアルプスの景色にポツンと佇む蝶ヶ岳ヒュッテの姿。早朝の冷たい風に吹かれて思い出すのは、山小屋の暖かさでした。
紹介してきたように、蝶ヶ岳ヒュッテのコロナウイルス対策は細部まで行き届いている印象を受けました。しかしながら、コロナウイルスを持ち込む可能性が大きいのは登山者の方。入山前の体調チェックに加え、手指のアルコール消毒や会話を控えるなど、一般的なコロナウイルス対策を心がけるべきなのだと再認識しました。ここからは、あらためて、山小屋に宿泊する際に登山者が気をつけたいことをまとめてご紹介します。
なお、今回ご紹介するのは、蝶ヶ岳ヒュッテの一例。事前に宿泊する山小屋のホームページなどで最新情報を確認しましょう。
やはり大切なのは、登山前のチェック。感染予防はもちろんのこと、体調管理はしっかりと行いましょう。少しでも体調がすぐれない、熱がある場合は登山を控えるのが鉄則です。
コロナウイルスは手から目、鼻、口へと移っていきます。山小屋では手に触れるところの消毒を徹底していますが、登山者自身が確実に手指を消毒することが大事。こういった対策のほとんどは山小屋だからといって特別なものではありません。ついつい山では開放的な気分になって忘れがちですが、普段の生活と変わらず継続すればOKです。
マスク、体温計、消毒液が、山小屋のコロナウイルス対策の三点セット。防寒着やシーツ代わりになるものがあればより完璧です。蝶ヶ岳ヒュッテに関しては「Withコロナの山小屋様式」という特設ページを用意しているので、しっかりチェックしてから予約をしましょう。
「Withコロナの山小屋様式」
コロナウイルス対策に加えて、自分の技量で登って帰るための判断も大切。完全予約制の山小屋が増える中、飛び込みでの宿泊は極力避けなければいけません。日帰り登山で予定が押してしまった場合にも、山小屋を頼るのではなく、早めに引き返すといった判断を取るようにしましょう。
取材班は下山後、蝶ヶ岳ヒュッテをはじめとする山小屋を管轄する安曇野市の方々にもお話を伺いました。安曇野市にとって、北アルプス登山は大切な観光資源のひとつ。安全な登山に欠かせない山小屋のサポートはコロナ禍以前から行ってきた経緯があります。
対応してくれたのは、商工観光部 観光交流促進課の主査・齋藤研一さん(左)、課長・大竹範彦さん(中)、主査・小西隆寛さん(右)。ここからは、健全な山小屋運営を支えるために、安曇野市で実施されている取り組みについて、お伺いした内容をお届けします。
—表銀座は、北アルプスのなかでも屈指の人気登山エリアです。安曇野市として、山小屋の役割とはどういうものなのでしょうか。
安曇野市には燕山荘、大天荘、常念小屋、蝶ヶ岳ヒュッテがあります。どの山小屋も魅力的で、山岳観光の大事な拠点となっています。アルプスのような2,000mを超える山に登るとき、そこに「山小屋がある」ことの安心感、存在意義はとても大きいものだと感じています。
一方、山小屋の関係者の皆様には山岳環境の維持管理という大役を担っていただいています。とくに登山道の整備は、山小屋のスタッフや登山案内人の皆様にお願いしており、小林喜作によって開拓された喜作新道(表銀座)やパノラマ銀座といった縦走路が100 年も前から維持されつづけているのは、そのおかげだと思っています。
—今回の取材では、コロナ禍における山小屋をテーマにしていますが、これまでに安曇野市の山小屋でクラスターが発生した例などはありますか?
安曇野市に関わらず、私が知る限りでは山小屋でクラスターが発生した事例は把握しておりません。安曇野市にある山小屋は、北アルプス山小屋協会が定める『山小屋における新型コロナウイルス感染症対応ガイドライン』に沿った感染対策のもと運営されています。
山小屋自体の対策に加え、各山小屋が登山者に呼び掛けているマスクの着用や手指の消毒実施といった個人レベルでの対策意識も高いと感じています。
—コロナ禍において、登山者が減少していると聞きました。安全な登山を支える山小屋に対して、これから安曇野市はどのようなサポートをしていくのでしょうか。
やはり各山小屋は宿泊人数の定員を大幅に下げるなどして感染対策を講じています。しかし、宿泊人数の低減=経営規模の縮小に直結することでもあり、山小屋の経営が厳しくなれば、冒頭で述べた登山道整備などの山岳環境の維持が難しくなってくる可能性もあります。
私たち行政としては、今年度4月より客室の収容能力により給付金を交付しておりますが、 以前に比べ各山小屋の経営が厳しい状況にあると伺っております。
喜作新道が誕生して約100年、維持されてきた登山道を100年後にも残せるように、持続可能な山岳環境の維持管理のために、安曇野市は「一緒につくろう・まもろう北アルプス」をテーマにクラウドファンディングを実施します。
今年はその1年目として「燕岳稜線の市公衆トイレを快適に」するトイレの改築に取り組む予定です。環境負荷が高く、臭気がきつい処理方法の現在のトイレから、環境配慮型のトイレへ改築し、より快適に登山を楽しんでいただける環境を作りたいと考えています。
一緒につくろう・まもろう北アルプスパノラマ銀座100年プロジェクト
【第1弾】燕岳テント場トイレを環境配慮型トイレにしたい!
—私たちが安全に登山を楽しめているのは、山小屋の存在、その活動をバックアップする安曇野市の取り組みがあってこそなんですね。安曇野市と山小屋が団結し、施策を進めていることがとても心強く感じました。ありがとうございました。
取材を通じて感じたのは、山小屋に関わる方々は登山を楽しむ私たちのために様々な試行錯誤を行ってきたのだということ。「感染対策」と一言で言っても、多岐にわたります。部屋を作り替えたり、新たな設備を導入したりするだけでなく、運営上のオペレーションも工夫を凝らし、リスクを最小限に抑えようと試みています。
ましてや山小屋という特殊な環境の施設では、私たちが知り得ない苦労があったはず。消毒のアルコールひとつとっても、街から山の上まで運ばなければなりません。シュッと手のひらに吹き付けるわずかなアルコールも、街で使うものとは重みが違うように感じます。
そんな山小屋の方々が取り組んできた対策を完結させるのは、私たち登山者です。本格的な夏山シーズンの到来に向けて、今いちど自分ができることを確認しましょう。体調管理やマスクの着用、こまめな手指の消毒。1人ひとりがいつもどおりのコロナ対策を徹底することこそが、安全なアルプス登山につながるのですから。