日本各地の低山に歴史物語を訪ね歩く低山トラベラー/山旅文筆家の大内征さんが、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を思い起こしながら綴る低山の回想録。ドラマに登場した場所をはじめ、登場人物と所縁のある山、これを機にぜひ訪れたい名所などなど、ご自身のエピソードや山のトリビアとともに選出した13座の山旅を、5回に分けてふり返ります。第3回は「坂東武者たち」ゆかりの低山3座を紹介していただきましょう。
大内 征(低山トラベラー/山旅文筆家)
鎌倉殿の13座|大河ゆかりの低山めぐり #03/連載一覧はこちら
2022.09.02
大内 征
低山トラベラー/山旅文筆家
ここのところ、毎週日曜日の夜は心がヒリヒリしている気がする。大河ドラマを見ている最中も、放送後も。腕組をして難しい顔をしてみたり、悲しい表情になったり、目頭を熱くしたりと、感情が忙しい。くすりと笑ってしまうようなシーンがすこし減った気がするのは、権力争いの重苦しい空気のためか、はたまた大泉頼朝の存在の大きさか。
歴代の鎌倉殿も13人のみなさんも、どういう展開になっていくのかは、おおよそわかってはいた。だから、気持ちを落ち着けて鑑賞しようと、大河ドラマのおともはビールと決めている。でも、そんな気持ちで飲むビールは、いつも以上にほろ苦い。
なんて、結末をわかった風なことを言っているけれど、月曜日になるともう次の展開を欲しているし、土曜日にはソワソワし始める。今回のドラマの脚本や役者の演技には、本当に引きこまれっぱなしだ。
ドラマでは、少しずつ鎌倉の覇権が坂東武者に移りつつある。その中心にいるのは主役の北条一族。対抗馬は、三浦半島を拠点にする三浦氏や武蔵国(現・埼玉県深谷市あたり)が本拠地の畠山氏といったあたりだろう。中でも策士と評される三浦義村と武士の鑑と謳われた畠山重忠は「13人」のメンバーではないものの、俄然注目を集める存在感。どちらも平氏の流れをくむという点も興味深い。
そんな坂東武士たちが活躍した三浦半島について知るひとつの手がかりになるのが、司馬遼太郎著『三浦半島記』である。同氏の代表作「街道をゆく」シリーズの一冊で、司馬さんが古の三浦の地に思いを馳せながら歩いた成果が綴られた名著だ。こうした本は読んで終わりではなく、実際にその土地を訪れることとセットにするのが断然に楽しい。自分の目で文章を追い、自分の足で本に書かれている場所を追うのだ。調べすぎると旅が楽しくないじゃん!と言われることもあるけれど、ぼくはそうは思わない。自分の足で見聞を広げる“歩き旅”は、それ以上の発見やご縁がかならずついてくる。
昨年から今年にかけて相模国の低山を再訪する機会が増えたということに、1回目の連載ですこし触れた。首都圏の低山には源頼朝はもちろん坂東武士の話があちこちに残っているので、それをテーマに歩いてみると、また違った視点の山歩きが楽しめる。中でも今回紹介する3座は、首都圏の日帰りハイクにおいて常に上位の人気低山。歴史うんぬんを抜きにしても楽しい山ばかりなので、まずは自分の足で歩いてみてほしい。
初めて三浦アルプスを歩いたときの一番の驚きは、富士山の眺め以上に伊豆半島、真鶴半島、房総半島の近さだった。房総半島にいたっては、神奈川県にいるのに目の前が千葉県だということへの、東北人としての素直な感動。東北は山で国境を接するけれど、関東には海で国が接するの場所があるという発見。ここで暮らしている人にとっては当たり前のことだけれど、当時はじめて訪れたぼくにとってはそれが新鮮で。実際に自分の目でそれを見るのと地図で知っているだけなのとではわけが違う。いや当たり前だけれど。
ちょうど武山(たけやま、200m)のあたりからは、南房総のシンボリックな双耳峰・富山(とみさん、349m)が正面に見える。そこには、房総の上空に広がる青い空と白く大きな雲、そして真っ青な海の上には真っ白な航跡波を残しながら進む大型船があった。とても印象深い風景だったことをよく覚えている。当時の坂東武士たちには、どのように見えていたのだろうか。
鎌倉の歴史は、これらの4つの半島の歴史でもある。それぞれの陸地の間には相模灘(相模湾)と浦賀水道(東京湾)があるため、往来が不便に思われるかもしれない。しかしながら、むかしの人が物資を運んだり集団で移動するときに便利に使ったのが船であり海路なのだと考えると、この海の存在は三浦一族にとって大きなメリットに他ならない。そしてそれらの半島の中心にあるのが、まさしくこの三浦半島。大げさに言い換えれば、伊豆、鎌倉、相模、安房、上総、武蔵のほぼ中心。そしてどの一族よりも鎌倉に近い。
その三浦半島は、広大な丘陵地に覆われている。低くたなびくピークの連なりを総称して「三浦アルプス」と呼び、四方にたくさんのハイキングコースを擁する、首都圏から至近の人気の山域。神武寺駅をスタートして丘陵地をぐるりとまわり、逗子・葉山駅をゴールにする“縦断”と“横断”のミックスコースは、ぼくのお気に入りだ。
YAMAPのログによれば、そのミックスコースには踏むピークが7つある。すなわち神武寺山、鷹取山、乳頭山、茅塚、観音塚、ソッカ、仙元山。距離にすると15km強、いささか起伏があるためコースタイムは8時間ほどをみておきたい。
地図を眺めると、スタートの神武寺駅とゴールの逗子・葉山駅が、じつはたったひと駅の区間であることに気がつくだろう。それをわざわざ15kmも遠回りして山道を歩くのだから、登山をしない人にとってみれば狂気の沙汰にほかならない。しかし、歩くことが好きな人にとってみれば、こんな贅沢なコースはないだろう。このコース、本当にいいのだ。個人的に「三浦アルプスセブンサミット」とでも、勝手に呼ばせてもらおうかしら。
もうひとつ、このコースならではの大きな特徴がある。前半の鷹取山から見える海は東京湾方面で、後半のソッカや仙元山から眺める海は相模湾方面。つまり、三浦半島を挟んで異なる海域をつなぐシー・トゥ・サミット・トゥ・シー・トレイルでもあるわけだ。
見える風景はまったく異なるし、太陽の角度で情景も変化していく。鷹取山で朝陽を浴びて仙元山で夕陽を受けるなんて、めちゃめちゃ素敵なハイクではないか。運が良ければ、そこに富士山も出迎えてくれる。
ぼくにとってのホームマウンテンのひとつ、東京の御岳山(みたけさん、928m)。周辺にも魅力的な低山が多いので、御岳山を起点にして長めの低山縦走を楽しむことができる。ちょっと物足りない、もっと長く歩きたいというハイカーでも、コースの編み方次第という懐の深い山域だ。
初めて訪れて以来、折に触れて何度もこの山域を歩いてきた。ときには重めの荷物を背負ってトレーニングしたり、不調明けの友人を伴ってリハビリハイクなんかもした。とにかく初級上級に関わらず、なんらかの目的をもって“通える”低山なのだ。
御岳山といえば、日本武尊(やまとたけるのみこと)の危難を救ったオオカミの伝承が有名だろう。山頂に鎮座する武蔵御嶽神社の裏手には、そのオオカミが神格化した「大口真神(おおくちのまがみ)」が祀られている。社の裏手にそびえる美しい三角形の山は通称「奥の院」と呼ばれ、こちらには日本武尊が祀られているのだ。もちろん登拝できる山だけれど、そこまで行けない人は大口真神の元で遥拝するといいだろう。
オオカミは怖い存在でありながら、その神威は厄除けや火伏におよび、作物を荒らす動物を寄せ付けない農業の神としても信仰を集めている。その証「オオカミの護符」は、多摩川の沿岸地域の農地などでよく見かける。文化や信仰は、川に沿って広がっていく法則だ。以前暮らしていた武蔵野市の吉祥寺からほど近い農地にも護符があり、暮らしと山のつながりを深く感じる。
御岳山の最大の見どころはロックガーデンだろう。そこが東京都とは思えないような巨岩をえぐった美しい沢が続く、関東屈指の渓谷道。新緑と紅葉の季節はとくに美しい。たくさんのヤマメを発見することができるし、ムササビやカモシカに会うこともある。いまなお神事を行う「綾広の滝」では、滝行の体験風景にも遭遇するかもしれない。
由緒ある古社があり、絶景の眺めがあり、山岳信仰や文化があり、美しい渓谷道もある名コース。すぐそこに広がる都心部では考えられない自然豊かな世界が、こんな身近に接している素晴らしさたるや。たくさんの人に気がついて欲しい、東京ローカルの魅力が詰まった山なのだ。
武蔵御嶽神社の宝物殿の前には、威風堂々とした畠山重忠像がある。作者は、長崎の「平和祈念像」を手掛けた北村西望氏。その背後の宝物殿に素晴らしい“国宝”が展示されていることは、あまり知られていないかもしれない。
国宝とは、畠山重忠が奉納したと伝わる「赤糸威鎧(あかいとおどしのよろい)」のこと。文化財の鑑賞が好きで、何度か展示室で間近に眺めたことがある。驚いたのは、平安時代末期の“糸”の発色の美しさだ。明治時代に修復したという糸は色が褪せてしまっているけれど、平安時代の糸は千年の時を超えて当時のままの色の濃さ。その技術の高さは、実際に見る価値がある。
そんな重忠の“登山のエピソード”が残るのが、棒ノ嶺(ぼうのれい、969m)である。見事なゴルジュで知られるこの山は、前半の沢歩きの気持ちよさで大人気。山頂に咲く見事な桜をお目当てに登るハイカーも数知れず。新緑の樹林、見事な紅葉、見晴らしのよい冬の眺望と、四季を通じて山歩きを楽しむことができる名低山だ。ぼくは棒ノ嶺から岩茸石山(いわだけいしやま、792m)を経て御嶽駅へと抜ける縦走路が大好きで、毎年のように歩いている。
標高969mの山頂までは、全般的に急な道が多い。運動不足な人にとってはやや辛い山道となるだろう。この急な道を、坂東武士の鑑と謳われた畠山重忠も登ったそうだ。武においても知においても秀でた人物であり、誠実な人柄でイケメン(と、いわれている)。ゆえに、大いに慕われたという。そんな重忠がこの山を越えるときに使っていた石造りの杖が、あまりの急登で折れたらしい。この山の別名を「棒の折山」という、その由来である。
その“折れた石”の一部が祀られているのが、棒の折山からゴンジリ沢へ下山する途中の沢筋にある小さな祠だ。そのまま大丹波川に出て川沿いを歩けば、JR川井駅がある。興味のある人は、ぜひ訪れてみてはいかがだろうか。
そういえば、第7座で紹介した三浦アルプスに「畠山」という山がある。三浦氏の拠点・衣笠山が近い。石橋山の戦いの直後、そのころはまだ頼朝と敵対していた重忠が三浦氏を攻めるべく布陣した山だ。とすると、進軍のおり、畠山重忠も三浦アルプスのどこかしらのセクションを歩いたと考えられないだろうか。
じつは現在の三浦アルプスは、道迷いの多い山域として知られている。半島の最高地点は大楠山の242mと低山ながら、その地形は起伏に富んで複雑。暮らしと密接した山域だけに、あらゆる用途の道が錯綜している。歩いた印象としては、意外に谷が奥深いこと。
おそらく当時も一筋縄ではいかない山だったに違いなく、重忠は進軍するにしても布陣するにしても苦労したと想像される。一方で、三浦一族にとっては庭のようなもの。衣笠城に攻め入る畠山勢の目を盗み、三浦義澄(三浦義村の父)らは房総半島へと逃れることができた。道に不案内な畠山勢はその消息を追うことは不可能だったに違いない。衣笠城に父を失う大きな代償は払ったものの、果たして房総の地で佐殿と合流し反撃に転じることができたわけだ。その後の展開はみなさんご存じの通りである。
歴史に“たられば”はないけれど、三浦半島が複雑な地形をした広域な低山でなければ、あるいはその展開はなかったのかもしれない。
*
文・写真
大内征(おおうち・せい) 低山トラベラー/山旅文筆家