大橋未歩のニュージーランド海外トレイル体験記 #02|登山道が…ない⁉

アメリカのジョン・ミューア・トレイルの山旅から4年——。登山好きとしても知られるフリーアナウンサーの大橋未歩さんが、ニュージーランドの北島にあるエグモント山を周回する「アラウンド・ザ・マウンテン・サーキット」を歩いた“旅の記憶”を綴ってくれました。連載第2回目は、ニュージーランドらしいトレイルへの高まる期待にはじまり、やがてそれが不気味な波乱の予兆へと変わるのですが…。果たして旅はどのように進むのでしょうか?

大橋未歩のニュージーランド海外トレイル体験記/連載一覧

2023.04.05

大橋 未歩

フリーアナウンサー・"歩山"家

INDEX

エグモント山(別名:タラナキ山)へ

2022年12月30日、現地時間午前7時半。私たちは事前に予約していた4WDの白いバンに揺られていた。途中で数人のハイカーを拾いながら、曲がりくねった道を縫ってぐんぐん高度を上げていく。カーブで体が右に左に振られる度に、いよいよ旅が始まるのだという高揚感が湧いてくる。

突然むんわりとした重い臭いが鼻を刺激した。

夫と顔を見合わせる。お互いに「自分じゃない」という表情でうったえかけたが、窓の外を見て合点がいった。煙たい朝靄の中に広がる草原。その所々に黒い影が動いている。

牛だ。私たちは牧場のかたわらを走っていた。

そういえば、昨夜泊まったモーテルで、部屋のキーと一緒にパックの牛乳を渡されたんだった。育ち盛りの部活か!と笑いそうになったけど、濃厚なのに後味が透明ないい牛乳だった。ニュージーランドに来たことを実感して胸が高鳴った。

成田からオークランド国際空港まで10時間、さらにそこから国内線で約50分。ニュージーランド北島の西海岸にある、ニュープリマスという小さな街が今回の拠点だ。

着いた日は、食料の買い出しでスーパーを巡ってから海岸線を少し歩いた。2羽のカモメが餌をくれると思ったのか、私たちの後をついてくる。夏なのに泳いでいる人は誰もいない静かな海だった。

私たちを乗せた白いバンは1時間ほどかけて「エグモント山周回トレイル(Around the Mountain Circuit、通称AMC)」の出発点となる、ノースエグモントビジターセンターに到着。登山口に設けられたビジターセンターは、トレイルの状況や天候などの情報を始め、燃料や備品を手に入れられる最後の場所だ。

屈強そうな送迎バスの運転手が片手でひょいとバックパックを下ろしながら言った。

「帰りは1月4日だったよね? 午後5時に、またこの場所に迎えに来るよ。午後5時ね! もしいなかったら心配だから、予定が変更になったら必ず連絡をくれよ! ではEnjoy!」

とても親切でありがたい。「OK!」と笑顔で返しつつ、でもその心配は杞憂だろうなと思った。

だって今回は52kmを6日で周回する予定。1日に20kmを歩いたりもする私たちだから、むしろ1日余ってしまう可能性の方が高い。まあ早めに下山できたら、1日早い送迎バスに乗れるかもしれない。

ビジターセンターの中に入ると、エグモント山を模した直径2mほどのジオラマが鎮座していた。丁寧に冠雪まで施された模型には数種類のルートが刻まれていて、上から眺めると自分たちの旅路が一目瞭然、手に取るように分かる。

私たちは模型を指差しながら、ルートの最終確認をしていた。すると面倒見の良さそうな施設職員の女性が話しかけてくれた。

「タラナキ山の頂上に登るの?」
「いいえ、周回するんです」
「周回!?」

声のキーが高くなった。どうやら地元でも周回ルートはあまりメジャーではないらしい。無謀な冒険とならぬように、女性は、スタート地点から、人差し指で山肌をなぞりながら一緒にルート確認をしてくれた。

「1日目は、今いる場所からHolly Hut(小屋)まで8kmだから3、4時間。ここはEasy。2日目はHolly HutからWaiaua Gorge Hutまで13kmだから7〜9時間ね。ここは結構、渡渉(としょう)があるわね。ただ、雨は降っていないから川は増水していないはず」

川を渡るのはニュージーランドトレイルの名物だ。

夫がカメラを回し始めた。私は急にレンズを意識し始めて「あは〜ん」と分かったような相槌を打つ。

「3日目。ここは気をつけて。Waiaua Gorge HutからLake Diveまで10kmで7〜8時間。ここにはルートが2通りある。高度が高い方と低い方。上のルートは急な登りもあるけど、登り切ってしまえば眺めがいい。

でも下のルートはおすすめしないわ! ぬかるんでいて、森林も深いから大変よ! 生い茂った木がトレイルを侵蝕している。Waiaua Gorge Hutを出発してすぐに分岐点があるから、そこで上のルートを選択するといいわ!」

「OK! 上のルートですね! 上に行きます!」

上機嫌に返事をした。

気分上々、順調な出発!だったけど…

何度思い返しても、彼女はちゃんと説明してくれていた。なのに何故——。

ニュージーランドの森の深さを、この時の私たちは深く理解していなかったのだ。そして、神の悪戯としか思えないほんの小さな綻びが、私たちを恐怖に陥れるだなんて、この時は知るよしもなかった。

女性の説明によると、4日目と5日目は距離も短いし下りだから、2日目と3日目を乗り切れば大丈夫とのことだった。

センターを出て空を見上げると雲ひとつない快晴だ。ベンチに腰掛けて、靴紐を結び直す。午前9時15分。

「よっしゃ! 出発!!」

命が満ちる熱帯雨林

まずは熱帯雨林を抜けていく。

等間隔に敷き詰められた枕木に合わせて、自ずと足にリズムが出る。ミントのような爽やかな香りに鼻をくすぐられ、顔を上げると、形の違う幾つものシダ植物が縦横無尽に葉先を伸ばしていた。

ニュージーランドにはシダの固有種が多い。オールブラックス(ラグビーニュージーランド代表チーム)のエンブレムにもなっているシルバー・ファーンが葉を広げ、黄緑からピンクに変色したキオキオ(こちらもシダの固有種)に、まだらで陽気な影模様を作っている。

葉先は意思を持った生命体のように、今にも蠢(うごめ)きそうだ。複雑に重なるシダの隙間を通り抜けた日差しを苔が受け止めて、ぱんぱんに膨らんでいる。命が充満しているんだ。

「大好き大好き大好き!!!」

思わず叫んでいた。

なんでこんなに開放的になれるんだろう。そうだ、ニュージーランドには熊が生息していないんだ。その事実が何より心を軽くした。

JMT(ジョン・ミューア・トレイル)では森林帯に入ると、どこからか熊が飛び出してくるのではという恐怖が常につきまとった。鉢合わせが一番危ない。

熊は本来臆病だから、人がいると分かっていれば向こうもそれなりに距離をとる。でも木々でお互いの存在が確認できないと、突如現れた人間に驚いて熊が襲ってくる。それが一番怖いのだ。

だけど今回の旅は、私たちの存在を知らせるために鈴を鳴らさなくても、鼻歌を歌わなくても大丈夫。私たちのデュエットは聞けたもんじゃない。一生調和しない旋律。ニュージーランドの貴重な生態系に影響を及ぼしかねない自覚がある。

森林帯を出ると一転、頂上の火口から広がる荒々しい岩肌が頭上に迫ってきた。クレーターのような凹みがあるかと思えば、円筒に出っ張った岩もある。

しかもその円筒岩は、円周率で計測したのではと疑うほど美しい円を描いていた。そのくせ宇宙船が着陸できそうなくらい巨大で、かつ、ビー玉も転がらないくらい上部は水平だ。そんな岩が山の斜面にとってつけたように存在している不思議に、心を奪われて動けなくなる。

足元では雪花竿(Mountain Foxgrove:タラナキ山の固有種)の白さが安らぎを与えてくれていた。歩き始めてまだ2時間なのに、くるくると表情を変えて楽しませてくれる。

自然を舐めまわすようにのろのろ歩いた割には、表記されたコースタイムと同じ4時間ほどで、初日の寝床Holly Hutに到着。エグモント山頂を背負う、緑色の屋根が可愛らしい小屋だ。目の前に広がる芝生がテント場。時刻はまだ13時半で一番乗りだった。

ベッドに飛び込むかのように、青々とした芝生に体を投げ出した。日なたで蒸された草の甘い匂いがむんと来る。前日から寝ずに原稿を書き、結局飛行機にもキーボードを持ち込んで執筆作業に励んでいた夫がものの3分で眠りに落ち、イビキをかき出したので私はそれを録音した。

歯軋りがうるさいといわれた時の反撃のために、物的証拠を日々コツコツと収集しているのだ。私はここでも勤勉だった。

豪華なディナーと膨らむ希望

太陽は、待っても待っても、傾きもしなかった。

しばらくして夫が目を覚ましたので、夕飯の準備に取り掛かる。初日は、ニュージーランド発祥のアウトドアブランド、macpacニュープリマス店で買ったフリーズドライ。BACK COUNTRY CUISINEというブランドの「ラムと野菜のローストとマッシュポテト」。

山でラム肉なんて、初日を飾るにふさわしい豪勢な夕飯だ。マッシュポテトはパウチが別で、各々にお湯を注いで10分ほど待てば完成。ラム独特の野性的な香りに胃が刺激される。マッシュポテトは口触りがなめらかでクリーミー、フリーズドライだなんて信じられない。夫と1つのスプーンを奪い合うように、交互に口に運ぶ。

肉と野菜の出汁が溶け込んだ残りのスープは、マッシュポテトに注いで混ぜる。旨味とコクを1滴残らず吸収して、もうひとつの立派なご馳走になった。

夕飯を終えると、ようやく太陽も寝支度を始めたようだ。紫色に染まった空の下、洗濯をして、ちょうどいい高さの木の枝に1枚ずつ靴下やパンツを干していく。

「私、もうどこでも暮らしていけるよ」

夫に言ってみる。いや、自分に言っていたのかもしれない。脱サラして夫婦共々フリーランスになった。経済的安定はなくても心は自由でいたい。そのためには、不便を楽しめる自分でいたいんだ。
             
夜9時を回って、ようやく月の輪郭がくっきりと浮き出てきた。夏のニュージーランドの日の長さに驚きつつ寝袋に入る。

明日の大晦日は山小屋泊だ。テント設営もないし、小屋で1年を締めくくる日記でものんびり書いてみようかな。やりたいことで胸が膨らむのと反比例するように、意識は瞼の奥の暗がりに落ちていった。

旅仲間との出会い

夜明けとともに動き出した夫が、テントの外で何やら作業をしている。私はとっくに気づいていたが、鼻の頭に感じる冷たさで、しばらく寝たフリをしていた。でも、漂ってきたコーヒーの香りに抵抗できず、のそのそとテントから這い出す。

少しずつ上る太陽の光が、縮こまった体を溶かしてくれる。柔らかくなった体に注がれる黒褐色の輝く液体が意識を呼び覚ます。

「やっぱ山はこれだよね」と夫の方に向き直るが誰もいない。夫は寝袋を干したりして、機敏に出発の準備に取り掛かっていた。慌てた私はとりあえず「これ洗うねー」と仕事してる感を出しながら、朝の時間は過ぎてゆく。

出発間近、小屋の廊下を歩く男性に話しかけられた。髪を側頭部の上まで刈り上げている。いや違う。カラフルなフリースに見覚えがある。昨日小屋で見かけたソロハイカーの女性だ。

ヘアスタイルがアシンメトリーで、右サイドは刈り上げているが、左サイドは黒髪にパーマをかけて流している。昨夜、小屋に団体客がいて夜遅くまでポーカーなどに興じていたが、その集団に混ざるでもなく、遠慮しすぎるでもない彼女の凛とした振る舞いは、不思議と印象に残っていた。

「どのルート?」と彼女は言った。

「周回だよ。今日はWaiauaを目指すんだ」
「一緒だ! どこかで会うかもね! じゃあまた!」

奇抜な髪型から想像していたのとは違う、人懐っこい笑顔が可愛い女性だった。

これ、渡れるの?


今日から始まる本格的な登山に心が躍る。

1時間ほど歩くと、樹々の隙間から遠く水飛沫(みずしぶき)の音が聞こえてきた。その音は一歩進むごとに大きくなってくる。ニュージーランド名物、渡渉の時間だ。まだ樹々に隠れて詳細は見えないが、音は重くて厚みがある。

樹林帯を抜けて川沿いに出てみると、唖然とした。水量があるし流れも速い。川のどこに焦点を合わせても、白い飛沫と唸るような轟音だ。深さもどれほどあるか分からない。これ…渡れる場所あるんだよね…?

そんな中、渡渉ポイントを探しに下流の方に行った夫の姿が突然視界から消えた。

!?

「どうしたのーーー!?」

叫んでも叫んでも、私の声は水の流れにかき消され、夫に届かぬまま霧となって消えた。夫のもとに駆けつけたいけど、不安定な足場を見て踏みとどまる。

しばらく、ただ立ちすくむ不毛な時間が流れた。

すると、膝を気にしながら立ち上がる夫の姿が遠くに見えた。転んだんだ。

こちらに歩いて向かってくる夫。よかった、歩行は大丈夫そう。でも膝下を少し擦りむいているようだ。

注意深い夫でさえ転ぶなんて。あっちには行かない方がいい。早鐘を打つ胸を押さえつけるように深呼吸をする。

もう一度、目を皿のようにして川を上流にたどった。絶対に渡れる場所があるはずだ。

すると……あった! 川底の石がかすかに見える! ここなら渡れる!

急いでトレッキングシューズからサンダルに履き替える。靴を濡らしてしまうと重さで脚に負担がかかるし、皮膚は濡れると弱くなるから、濡れた靴を履き続けて靴擦れを起こすリスクを避けたかった。

とは言いつつ、サンダル姿で立ち上がると足元がやはり心許ない。激しい水流で体が持って行かれないように夫と手を繋ぐ。そして恐る恐る一歩目を踏み出した。

足を浸した瞬間、ひんやりした感覚が皮膚を包んだ。不安を打ち消すように「気持ちい!」という甲高い声を出してみたものの、それが「痛い」に変わるまで3秒とかからなかった。

夏なのに水が痺れるように冷たい。5歩ほど歩いたらもう足裏の感覚が無くなった。かろうじて言うことを聞いてくれる股関節に意識を集中して、ただの棒と化した足を必死に持ち上げる。最後の1歩は握った夫の手に少し引きずられるようにしてようやく川を出た。

やった。もうこれで大丈夫だ。少しタイムロスをしてしまったから、あとは前にひたすら進むだけ——と前を向いたはずだった。

が、その前がないのだ。

進行方向を指す目印が、360度どこを見渡しても、全く見当たらなかった。

再び心臓がドクンと大きく波打つ。

ニュージーランドの登山道はよく整備されていて、蛍光オレンジの三角プレートが至るところに釘で打ちつけてあり、私たちを誘ってくれていた。でも、その人工的なオレンジ色が、灰色に染まる景色のどこにも見つからなかった。

目印はおろか、違う惑星に来たかと思うほど大きな石がゴロゴロ転がっているだけ。
道はぷっつりと途絶えてしまっていた。

体ほどもありそうな大きな石の上に腰掛けて、地図を何度も確認する。GPSとも照らし合わせた結果、どうやら今私たちがいる場所は、Stony Riverという川沿いで、ここを下っていくのが正式ルートなんじゃないかという結論に達した。

しかしルートといっていいのか、Stony Riverが氾濫して、濁流に荒らされたとしか思えない場所だ。大小さまざまな石と流木が残骸として残されたまま一部が干上がり、たまたま今だけ、無理やり「道」と呼んでいるような気さえする。

ここを500mほど進むと、左側に樹林帯への入り口があるらしい。容赦ない崖が連なっているようにしか見えないけど、地図はそういっている。信じるしかない。

心に巣食う不気味な予感

そうと決めたらまずは腹ごしらえと羊羹を頬張っていたら、石の向こうから人間が見えてきた。目を凝らすとその人は、今朝、山小屋で挨拶したあの女性だった。彼女は私たちを見るなり叫んだ。

「登山道が見つからないの!」

夫と私は声を揃えて答えた。
「わたしたちも!!!」

不安を共有できるだけで何故こんなに安心できるんだろう。私たちは地図を差し出しながら、川沿いを歩いて、左に曲がれば、樹林帯に入れるはずだと説明した。彼女はまた人懐っこそうな笑顔を向けて言った。

「ありがとう! また会おう!」
休憩も挟まず颯爽と去ってゆく、彼女の後ろ姿を見送る。

頭が隠れるほどの大きな荷物に、締まったふくらはぎが健脚を物語る。私が怯えたあの川も黙々と一人で渡ってきたであろう彼女に憧れが募った。

癖のある英語を喋る彼女の瞳はグレーだった。一体どこからここへ来たのだろう。今度また会えたらもうちょっと喋ってみたいね。そんなことを夫と話しながら2本目の羊羹を噛み締め、ふと顔を上げると彼女の姿は跡形もなく消えていた。

私は何故か、不思議の国のアリスを思い出していた。追いかけても追いかけても、一向に追いつかない白ウサギ。空は相変わらず抜けるように青いのに、このざわめきはなんだろう。
心に巣食い始めた不気味な予感は、まさに今夜的中することになるのだった。

(続く)

大橋 未歩

フリーアナウンサー・"歩山"家

大橋 未歩

フリーアナウンサー・"歩山"家

兵庫県神戸市生まれ。2002年テレビ東京に入社し、スポ−ツ、バラエティー、情報番組を中心に多くのレギュラー番組にて活躍。2013年に脳梗塞を発症して休職するも、療養期間を経て同年9月に復帰。2018年よりフリーで活動を開始。幼少期は山が遊び場。2018年には米国ジョン・ミューア・トレイルをセクションハイクしマイペースに山を楽しむ。