信越トレイル(全長110km)、みちのく潮風トレイル(同1025km)を構想し、道半ばで難病で逝去した日本のロングトレイルのパイオニア、故・加藤則芳(のりよし)さん。その弟子で、米国3大トレイルを踏破した「トリプルクラウナー」であるプロハイカー、斉藤正史(まさふみ)さんが地元の山形に戻り、地域の魅力を味わえる「山形ロングトレイル(YLT)」を整備しています。
いよいよ約2年後に全開通の見通しがたったことから、斉藤さんが見どころや魅力を連載で紹介。実際の整備や関係者との調整、組織運営での苦労などとともに、3回に分けて語ってくれました。
トップ画像:Hana_tyanさんの活動日記
2024.02.07
YAMAP MAGAZINE 編集部
僕は現在、NPO法人YLT(山形ロングトレイル)クラブの代表として、「蔵王国定公園ルート」を構想し、整備を進めています。
蔵王国定公園ルートは、山形から宮城までの南北に伸びる全長約90kmの道のりです。平均4泊5日前後でスルーハイクができ、会社員でも週末の休みと有給休暇をつなげて楽しめる長さです。
単純に蔵王の縦走路をルートにするのではなく、蔵王国定公園の火口湖「御釜(おかま)」や山寺のほか、美しいブナ林や地域の歴史を感じられる古道など、自然だけでなく文化・歴史を垣間見ることができるルートになっています。
南の起点は、宮城県七ヶ宿町の「やまびこ吊り橋」。ここをスタートし、蔵王縦走路の裾野に伸びる不忘(ふぼう)山林道や登山道を通り、山形県の蔵王エリアに入ります。
蔵王エリアからは、蔵王坊平、蔵王温泉、西蔵王地区といった、山形側の蔵王国定公園3地区を通過する道のりになります。
蔵王坊平は、蔵王連峰を東西に縦断する蔵王エコーラインの中継点。蔵王エコーラインは、エメラルドグリーンが美しい火口湖「蔵王の御釜」にアクセスするルートとして、多くの観光客が利用する道路です。
蔵王温泉は強酸性の硫黄泉が特徴の、約1900年の歴史を持つ温泉。スキー場や温泉街が有名です。また、西蔵王地区は、山形県内最大規模の公園「西蔵王公園」があり、昼夜の寒暖差で甘さと旨みを引き出した高原野菜が特産です。
西蔵王エリアを過ぎると、蔵王古道保存会と共有する蔵王古道や登山道を利用し、再び蔵王縦走路に入ります。
もともと蔵王は平安時代に修験の道として山伏たちによって開かれ、山伏たちがその信仰の証「蔵王大権現」を山頂に祀ったことが、山名の由来となっています。
時を経て江戸時代、山伏たちが山頂までの修行ルートを確立させ、またやがてその道を多くの庶民が参拝するようになり、そのブームは戦後蔵王エコーラインが開通するまで続きました。その道を復活させたのが「蔵王古道」です。
蔵王縦走路の分岐点「清水峠」からは、ジブリのアニメ映画『おもひでぽろぽろ』のモデル地区となった高瀬地区に降り、道路ができる前に利用されていた昔の生活道路を歩いて、北の起点「山寺駅」(山形市)まで歩きます。
まだまだ未整備のエリアも残っていますが、構想から18年、実際に活動を始めて12年、ようやく念願の全線開通が見えてきました。
しかし、振り返ると、ここまで来るまでには、様々な壁を乗り越える必要がありました。ここからは、そもそもなぜ私がここまで、山形でのトレイルにこだわるのか、説明していきたいと思います。
「マサ、山形にトレイルを作るなら国立公園や国定公園などを通るルートがいいね」
僕が地元山形に最初にトレイルを構想したとき、加藤則芳さんにこんなアドバイスをいただきました。
アメリカのロングトレイルは、国立公園や州立公園を通ることが多いのです。アドバイスをいただいた当時は、まだ日本には国立公園や国定公園を通るルートがなかった時代でした。
「いつか日本に繋がったトレイルができれば」
これは、日本にロングトレイルの概念を紹介し、信越トレイル(※1)やみちのく潮風トレイル(※2)を構想したロングトレイルの第一人者、故・加藤則芳さんがよくおっしゃっていた言葉です。
僕の住む山形と、加藤さんが構想・整備した信越トレイルを繋ぐことができれば、全国各地の方々からも声が上がり、日本に繋がったひとつのトレイルができる契機になるのではないか。そう考えて僕が動き始めたのが、「山形ロングトレイル」の活動でした。
しかし、山形にトレイルをつくり始めて間もなく12年にもなりますが、ようやく蔵王国定公園ルート開通の見通しが立ったばかりです。近年では、日本各地で多くのトレイルがつくられ始めています。
「山形ロングトレイル」は、加藤さんが構想した信越トレイル、みちのく潮風トレイルの思いを継いで僕たちが具現化しようとしているトレイルです。個人の有志が集い、アメリカのトレイルに寄せた道がまず山形にできれば、さらにほかの地域でトレイルがつくられるきっかけになると思います。
そうなれば、ひとつにつながったトレイルを日本にという加藤さんの願いは、必ず叶うと信じています。
(※1)長野県と新潟県の県境に連なり、関田(せきだ)山脈エリアと苗場山麓エリアに整備された全長110㎞のロングトレイル
(※2)青森県八戸市蕪島〜福島県相馬市松川浦までの沿岸地域、4県29市町村を結ぶ、全長約1025kmのロングトレイル
以前の記事にも書かれていますが、僕がロングトレイルに出会ったのは、2003年。確か深夜にNHKで放送していたBBCの番組だったと思います。普段はそんな時間にテレビを見ることもなければ、当時はNHKを見ることさえもありませんでした。
番組が始まって間もなくアパラチアン・トレイルをスルーハイクする若いハイカーが口を開いて、こう言ったのです。
「僕は、電話もテレビもない、そんな生活を半年間するためにここに来たんだ」
ハッキリと覚えてはいませんでしたが、そんなニュアンスだったと思います。
そこからカメラは、その若いハイカーが歩き始める模様を追っていきました。番組では、ほかのエリアのスルーハイカーも数名紹介していました。
僕もいつか、このアパラチアン・トレイルのスタート地点に立つ。番組を見終わったあと、そんな予感がしていました。
その2年後。色々な偶然に導かれるように、僕は実際に、テレビで見たアパラチアン・トレイルの、あのスタート地点に立っていました。まだスマホもない、ウィンドウズも95が主流。海外のロングトレイルをスルーハイクした日本人が、片手で収まるほどの時代でした。
そのトレイルの道中で偶然出会ったのが、加藤則芳さんでした。それは、僕も加藤さんも行く予定のなかったアウトドアショップでの出会いでした。
自動ドアを出るとき、僕はアジア人とすれ違った気がしました。振り返ると、そのアジア人の人もこちらを振り返っていました。これが則芳さんとの最初の出会いです。
そして町に降りたあと、お互いにメールのやり取りをするようになっていきました。そんな関係は、僕が先に歩き終え、日本に帰国してからも続きました。
当時加藤さんは、とある大手誌のWEB媒体に連載コラムを寄稿しており、歩き終えて帰国されると、その媒体主催の報告会が開催されました。
「就職が決まっていなかったら来ないか?」とお誘いいただき、当時再就職で苦労していた僕は、気分転換も兼ねて東京へ行き、再び加藤さんに再会したのでした。
今思い返しても不思議ですが、加藤さんを囲む仲間の皆さんにも自然に受け入れてもらえましたし、僕も気を遣わず、昔からの付き合いだったかのように自然に入り込めた気がします。
翌年春、僕は半年もの就職活動を経てようやく再就職を果たしました。その時代、アメリカのトレイルを歩くことは、ただ遊びに行っているように映ったらしく、いつも採用面接では「またお金が貯まったら会社辞めるでしょ」と言われるほど、トレイルという言葉が全く世の中に認知されていませんでした。
再就職をして3ヶ月ほどたったころ。地元の山形大学で働く知人から「山形大学で自然と共生をテーマにした企画を募集しているよ」と連絡をもらいました。募集要項を確認すると、「もしかしてトレイルがぴったり当てはまるのではないか」と思い、加藤さんにも相談しつつ応募することにしました。
看板を付けるにはどうしたらいいか?
道は新たにつくるのではなく、既存の道を利用できないか?
山形県庁や山形市役所に連絡をし、僕が歩いたアパラチアン・トレイルで見て体験したことが実現可能か調べながら企画を進めると、不思議とトレイルがつくれそうな感じがしたのです。
その時計画したのは、加藤さんが創設に尽力された信越トレイルと接続できるように、山形県小国町から奥羽山脈へ入り、奥羽山脈を山形県北部の新庄神室(山)までを歩くルートでした。
高校の大先輩の経営するアウトドアショップ「マウンテンゴリラ」で販売できなくなった不要な地図をいただき、林道や登山道をつないで、コースのイメージをつくり上げました。
道は繋がる。
そんな確信を得ました。
──結果。50枚ほどに及ぶ僕の力作は落選。後日友人から聞いたのは、山形大学の関係者が応募した案が採用されたとのことでした。
僕のトレイル企画は返却されました。
捨てるのもしのびなく、封印するかのように、長期間開けない、秘密の箱の中の奥にしまったのでした。
それから5年後の2011年。
僕は加藤さんのバックパックを引き継ぎ、プロとしてトレイルを歩く決断をしました。まさにそんな決断をした同時期、僕は高校の同級生やその友人とともに、1泊2日でトレイルを構想したエリアを歩き、案内していました。
蔵王縦走路にある八方平の山小屋に泊まって軽くお酒を飲み、外に出て星を眺めている時に、A君が僕にこう語りかけました。
「マサ君さ、プロを名乗ってアメリカを歩くってすごい決断だよね」
そんな話から何気なく、山形大学に応募したトレイルの企画の話をすることになったのです。
「歩く場所がないと、体験できる道がないと、トレイルは伝えられないよね。僕ら協力するから、山形にトレイルをつくろうよ」
このときの話が、お酒の席で終わらなかったのです。封印された箱を開け、再び企画書を出したことで、2006年に止まっていたトレイル構想が、また動き出したのでした。
それから僕が会社を辞めるまで半年間は、アメリカを歩く準備とNPO法人の設立に奔走することになりました。そしてプロハイカーとなりアメリカに行った2か月後、法務局の登記を終え、「NPO法人山形ロングトレイル」は誕生したのでした。
しかし、それは決して順風満帆ではなく、困難な船出でした。
世間的にもまだまだトレイルという言葉が浸透していない時代。各自治体での理解も、法人を一緒に設立してくれた仲間ですら、トレイルが何かを理解していませんでした。僕が海外に渡った途端、活動は停止してしまいました。そしてその状況が、長く続いてしまったのです……。 <vol.2に続く>