山岳遭難は痛ましい出来事ですが、その時の気象条件を検証することで、遭難を回避できる可能性が高まります。今回は気象遭難でも特に多い低体温症について、国内唯一の山岳気象専門会社・株式会社ヤマテンの代表取締役・気象予報士の猪熊隆之さん監修で解説します。
2024.07.06
鷲尾 太輔
山岳ライター・登山ガイド
低体温症というと「八甲田雪中行軍遭難事件」のように冬山でのリスクが高いと思いがち。しかし実際には、春や秋などの季節の変わり目での発生件数が多い気象遭難です。
さらに富士山・日本アルプスなどの標高が高い山や北海道など緯度が高い山では、真夏でも低体温症による山岳遭難が発生しています。
そして、山中で低体温症に陥ってしまうとその進行を食い止めることが難しく、加速度的に症状が悪化して、死亡する確率が高いのも恐ろしい点です。
まずは低体温症のリスクが高い気象条件での無理な行動を避けるため、過去の事例を紹介します。
低気圧が発生すると大荒れの天候になることは、以前の記事「季節ごとに注意すべき気圧配置と前線の動き|山岳気象予報士・猪熊さん監修解説【山登り初心者の基礎知識】」で紹介した通りですが、低気圧が通過した後に低体温症による気象遭難が多発しています。
梅雨明け間近の2009年7月16日、北海道・大雪山系のトムラウシ山(2,141m)をめざしていた18名のツアー登山グループが暴風雨に遭遇、ガイドと参加者8名が低体温症で死亡するという山岳遭難が発生しました。
このグループは2日前から大雪山へ入山していましたが、7月14日夜から雨が降り始め7月15日は終日、雨でした。しかも宿泊した場所は無人の暖房設備がない避難小屋で雨漏りもひどく、濡れた装備を乾かすことができなかったことも遭難の遠因とされています。
当日の天気図を確認すると低気圧はオホーツク海に東進しており、山麓の十勝地方では雨は降らず時おり日が差し、風速も最大1.7m/sという穏やかな天候でした。
しかし、山の上は風速20m/sを超える強風と雨に見舞われたのです。
ガイドも当日早朝にラジオで気象情報を確認、天候は回復傾向との予報を確認して出発しています。前述の通り実際に山麓は穏やかな天候でしたが、山の上では天候の回復が遅れることが多く、注意が必要なのです。
雨による濡れだけでなく、風による冷えが低体温症の原因となります。気温は標高が1,000m上昇するごとに約6℃低下していくのが一般的ですが、さらに体感気温は風速1m/sあたり約1℃低下します。
春・秋など気温自体が高くない季節や高山では、強風にさらされただけでも低体温症のリスクが出てくるのです。
紅葉シーズンが始まりかけの2023年10月6日、那須連山・朝日岳(1,896m)付近で4名の登山者が強風による低体温症で死亡するという山岳遭難が発生しました。
雨は強く降ることはなかったものの、当日は那須連山を含む栃木県北部に強風注意報が発令されていました。
あまりの強風で立っていることすら難しく、撤退する登山者も多い状況。救助隊も当日の捜索を中断せざるを得ず、遭難者の発見は翌7日になったのです。
当日の天気図を見ると低気圧周辺の等圧線の間隔が狭く、西側では強い北西風が吹く状況であったことがわかります。北日本では最大風速6地点、最大瞬間風速12地点で10月1位の強風が観測されました。
那須連峰では、このように低気圧が東に抜けて等圧線が縦縞模様になって込み合うときに暴風となります。このような気圧配置のときは、天気予報が晴れでも山では雲に覆われて暴風が吹き荒れます。覚えておきましょう。
なお、強風によるリスクは低体温症だけではありません。猪熊さん自身、学生時代に冬の富士山(3,776m)で突風に飛ばされて斜面を300m滑落。大怪我と凍傷を負いながら、24時間以上も仲間の救助を待つという壮絶な経験をしています。
台風が接近したときに、台風本体の雨雲による暴風雨はもちろん最大限の警戒が必要ですが、通過後も油断できません。日本海側や脊梁山脈では大荒れの天気が続き、台風一過の好天にならないことが多いのです。
1999年9月24日に九州へ上陸し、熊本県で甚大な高潮被害をもたらした台風18号は、9月25日未明に北海道へ上陸して、同日正午には温帯低気圧に変わりました。しかし通過後も、北海道の日本海側では大荒れの天候が続いたのです。
こうした状況下で羊蹄山(1,898m)をめざして17名のツアー登山グループが入山しました。台風通過時に一旦、台風の眼に入って天気が回復し、それを台風が通り過ぎたと勘違いして出発したパーティでしたが、その後天候が急変。暴風雨の中、登山を強行しましたが、遅れるメンバーが続出。うち2名が視界不良から道に迷い、低体温症で死亡したのです。
台風が日本の南岸を東から西に進む珍しいパターンも、注意が必要です。2018年の台風12号はまさにこの進路をとり、7月28日には台風の北側にあたる富士山(3,776m)で強風が吹き荒れました。
こうした状況下で山頂から下山していた安全誘導員2名が強風のため行動不能になり、うち1名が低体温症で死亡したのです。このとき、富士山は台風の進行方向から見て右側にあたります。
このように台風の進行右側に入ると、左側に入るより風がより強まる傾向があり、天候の荒れ具合がさらに酷くなる傾向にあります。
また、この日は強風の予兆となる笠雲が発生しており、こうした特徴的な雲から天候悪化を予測することも重要です。
低体温症を防止するためには、ここまで紹介した実例のような気象条件に注意することはもちろん、登山者それぞれの工夫や意識も大切です。ここからは、ぜひ実践してほしい対策を紹介します。
低体温症の大きな原因が、身体が濡れてしまうことによる冷えです。雨が降り出したら早めにレインウェアを着用したり、防寒対策を考慮したウェアリングを行うことが重要です。
そのためには、以前の記事「晴れ予報の日ばかりに登る“罠”とは|山の天気の基本を山岳気象予報士・猪熊さんが監修解説【山登り初心者の基礎知識】」の通り、風雨の中で登山をするという経験値も有効になってきます。
もしも濡れてしまったら、乾いた衣服に素早く着替えることも重要です。着替えが濡れることがないよう、防水性の高いスタッフバッグや衣類圧縮袋に収納しておくなど、パッキングにも注意しましょう。
植生や地形を考慮して、これ以上登山を続けると低体温症のリスクが高まるというポイントを認識して行動することも大切です。
すなわち、その場所まで来た時に引き返すという決断を行うべきターニングポイントです。
ひとつめのポイントは森林限界です。樹林帯の中では木々がある程度は風雨をさえぎってくれますが、森林限界より上では風雨をまともに受けることになります。
ふたつめのポイントが稜線です。風下側の斜面から登ってきたとしても、稜線に出れば一気に風が強くなり、体感気温が低下します。
最後のポイントは、岩場など危険な場所に入る手前です。岩場が連続するような所では、強風で体が煽られて転滑落をしたり、濡れによるスリップが起こりやすくなります。
また、岩場では早く歩くことができないので、風雨に長く晒されると低体温症のリスクも増していきます。
これらのターニングポイントで低体温症のリスクを感じたら、勇気を持って撤退することが大切なのです。
冒頭で紹介した通り、低体温症は春や秋などの季節の変わり目の発生件数が多い気象遭難です。特に秋は紅葉を楽しみに軽装で入山してしまいがちです。山麓や中腹では花や紅葉が見頃でも、稜線や山頂は天候次第で冬の様相を呈することを、常に心がけてください。
死亡率が高く、その場にいる登山者全員が陥ることも多いのが、低体温症の恐ろしさです。今回紹介した事例からリスクが高い気象条件を知ることはもちろんですが、前述の防止策を実践して誤った判断や無理な行動をしないことが、何よりも重要です。
登山の科学(洋泉社刊)
猪熊隆之・山本正嘉・宮内佐季子監修
図が多く初心者向き。天気だけでなく、地図読みや登山に必要な体力など、登山の基礎が学べる良書。
監修:猪熊隆之さん
気象予報士
株式会社ヤマテン代表取締役
中央大学山岳部前監督
国立登山研修所専門調査員および講師
カシオ「プロトレック」アンバサダー
「山の日」アンバサダー
茅野市縄文ふるさと大師
日本山岳会会員
2011年秋に世界的にも珍しい山岳気象専門会社・株式会社ヤマテンを設立。一般登山者向けに全国330山の「山の天気予報」を配信している。国内外の山岳地域で行われるテレビ・映画の撮影を気象面からサポートしているほか、山岳交通機関・スキー場・山小屋・旅行会社などに気象情報を提供している。空の百名山を朝日新聞で連載中。また、空の百名山プロジェクトを通じて全国の山をまわりながら、雲の解説をおこなっているほか、気象講習会への講師としての登壇や著書も多数。
登山歴はチョムカンリ(チベット)、エベレスト西稜(7,650ⅿまで)、剣岳北方稜線冬季全山縦走など。2019年以降は、マナスル(8,163m)、チンボラッソ、コトパクシ(エクアドル)、マッターホルン、キリマンジャロ、など予報依頼の多い山に登頂し、山岳気象の理解を深める。2024年5月、世界最高峰・エベレスト(8,848m)に登頂。
執筆・素材協力=鷲尾 太輔(登山ガイド)