この連載は「体育会系」ではない「文化系」の山登りの楽しさを広めるため企画されました。「文化系の山登り」とは、山に登る時、事前にその山の歴史や文化を知ってから登る事。そうする事で、普段なら見過ごしてしまうような何気ない山の風景にも深い意味があることに気がつくでしょう。もっと山を深く楽しむために、レッツ文化系山登り!
連載第4回目のテーマは前回に続き「穂高岳」。修験道の痕跡から穂高岳の謎に迫ってみましょう。
フカボリ山の文化論|登山が100倍楽しくなる、山の歴史と文化の話 #04/連載一覧はこちら
2020.03.03
武藤 郁子
文化系アウトドアライター
前回(穂高岳とホタカと海の民)では、穂高岳とアヅミ族、と言うよりは、北アルプスとアヅミ族について熱く語ってしまいました。「ホタカ」と言う名前は、古くは北アルプス全体の総称だったため、古い話となると、どうしてもそうなってしまうんですが、今回は、穂高岳そのものに注目して、お話ししていきたいと思います。
さて、皆さんご存知のように、穂高岳は単独峰ではなく、北アルプス南部の中心を成す連峰ですよね。
北アルプス最高峰で日本第3位の高峰、奥穂高岳(3,190m)を中心に、北へ涸沢岳(3,110m)から北穂高岳(3,106m)、西へ西穂高岳(2,909m)、南東へ前穂高岳(3,090m)、明神岳(2,931m)と連なります。
それにしても、こうして標高を並べてみただけでも圧倒的です。これだけ標高の高い山がぎっしり詰まっている地域なんて、日本ではほかにありません。まさに日本随一の場所だと思います。
今、単に「穂高岳」というと、奥穂高岳のことを指しますが、近世では穂高嶽(岳)というと明神岳を指したようです。ここで、「近世」と言いましたが、せいぜい江戸時代の話。いろいろ調べたものの、遡っても江戸時代までしか、この連峰の歴史はわからないのです。
さて普段、私はまず『国史大辞典』(吉川弘文館)、『日本歴史地名大系』(平凡社)を参照し、さらに吉田東伍博士の名著『大日本地名辞書』(冨山房)をあたります。こうすると、だいたい何かしらヒントを見出せて、具体的な資料に当たれるようになるのですが、穂高岳に関してはそうはいきません。『国史大辞典』には「穂高岳」の項目がなく、『日本歴史地名大系』にはありますが、アウトラインをなぞるくらいの内容。思わず頭を抱えます。さらに、頼みの綱の吉田博士も「穂高岳」の地名で項目を立ててないという衝撃の事実。いやいやいや、ほんとこんなことってある? と、何度も見直してしまいましたが、「穂高」と「穗髙神社」については項目を立てていますが、「穂高岳」なし…。
しかし、ここではたと気づきました。そもそも「穂高岳」という名称は、明治42年(1909年)、登山家、鵜殿正雄さんが穂高岳(奥穂高)から槍ヶ岳への縦走を行なった際に「穂高岳」と名付けたことがきっかけであるとされています。「穂高嶽」という表記はすでに元禄期に見られるそうですが、現在の「岳」になったのは、1909年と最近なんですよね。要するに歴史的地名ではないので、いつもお世話になっている歴史系の辞書類には、詳しい話はほとんど載っていないということなんですよ。
つまり、穂高「岳」の歴史とは、1909年前後から始まるといってもいいんですよね。おそらく最も古い登山史的トピックスは、明治13年(1880)、「日本アルプス」の命名者として知られるウィリアム・ゴーランドさんが上条嘉門次さんを案内にして、明神岳に登頂した記録で、明治26年(1893)に、測量官の館潔彦さんが前穂高に初登頂…と歴史が重ねられていったと。
それにしても、最近のお話です。しかし、山を信仰の対象としてきた日本で、明治以前の歴史がほとんどないなんてことはあるんでしょうか。1909年からの歴史はいわば西洋的なアプローチです。そうではない、もっと古い文脈での歴史がないわけがないでしょう。
皆さんも、すでに連想されていると思います。古い文脈とは、つまり「修験道」です。修験道の行者さんが入ってない山なんて、まず想像しがたいですからね。きっと何かあるはずです。そう考えた私は、もう一度資料を見直します。
ここで拠り所になるのは、もちろん「穗髙神社」です。穗髙神社には神宮寺(じんぐうじ)があった、どこかで読んだ記憶を思い出したのです。
この「神宮寺」というのは、神様を祀るために建てられた仏教寺院で、日本ならではの神仏習合説、神仏混淆思想の現れのような存在です。また、本連載の第1回目でもご紹介した「本地垂迹説」(日本の神様は、仏教の仏神(本地)が姿を変えて顕れた(垂迹)もの)という考え方とセットになって、日本独自の宗教的混合(シンクレティズム)を形成していたと言っていいと思うのですが、とすると、穗高神社に神宮寺があったということは、神宮寺に祀られていたご本尊が、穗髙神社に祀られている神様の「本地」と言えるのではないかと思います。
神宮寺の創建はいつぐらいかと言うと、鎌倉時代中期頃ではないかと推察されています。醍醐寺三宝院(だいごじさんぼういん)十五代院主・聖雲法親王(しょううんほっしんのう)によって置かれたという江戸時代の言い伝えがあるからだそうなのですが、実はこの醍醐寺三宝院と言うのは、真言宗系修験道(当山派)の大元のお寺です。ここでようやく修験道の痕跡が顔をのぞかせました! こちらのお寺の僧侶であれば、行者でもあって、修行する場所(行場)が必要です。その場所はどこだったんでしょう。ひょっとしてそれこそが、穂高岳周辺だったのでは!?…思わず食いつきましたが、残念ながら、この神宮寺は今はないそうなんです。そうなると詳細がよくわかりません。
気を取り直して、『日本の神々』(平凡社)を読み直してみます。すると、神宮寺の御本尊は薬師如来であったとありました。つまり、穂髙神社の主祭神である穂髙見命(ホタカミノミコト)の本地は、薬師如来だったのでしょうか。しかし、そのようなつながりを示すものは見つかりません。むしろ、『大日本地名大辞書』の一文を見て、思わずうなりました。江戸時代に松本藩で作成された地誌『信府統記』に、
「一説によると、この神は皇極天皇の皇子が、伊勢国より信濃国に下向してきて矢原(穗髙神社が元々あったと考えられている場所)に住んでいたが、この皇子が伊勢国から穗髙大明神を勧請した。この神は天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホニニギノミコト)の垂迹である」(現代語要約)
と書かれているではありませんか! つまり穗髙神社の神様の本地は、瓊瓊杵命だと、そういうことですね。でもそうなると、同じ日本の神様が本地ということになりますが、そういうことでいいんでしょうか。…色々な要素が、こんがらがってきました。
瓊瓊杵命という神様は、天照大神のお孫さん(天孫)にあたり、「天孫降臨」神話の主役です。神々が住まう高天原から、祖母神の命により、人の世を統べるために降臨した神なんです。そうなると、上高地が「神降地」とも書かれたことが、なんだかバッチリハマってきます。この天孫的テイストの穂高の神は、おそらく明神岳に降臨したのではないかと思われます。信濃国バージョンの「天孫降臨伝説」と言ってもいいかもしれませんね。
とはいえ、おそらくは伊勢神宮系の天孫神話が習合したのではないかと思われるので、「神降地」というのは中世以降の表現になると思います。もっと古くは「神合地」「神河内」「神垣内」などと表されていたようなんですが、この漢字使いをフカボリすると、そもそもの意味が見えてくるような気がします。
「神合地」というのは、おそらく「山の神と水(海)の神が出会う場所」という意味でしょう。高山に囲まれ、明神池や梓川など水に恵まれた上高地を見ると、「山と水が出会う場所」というのはなるほどと思います。また、前回お話ししたように、この地に定住したアヅミ族に顕れた、海神の御子神・穗髙見命が坐す場所としてはもってこいです。属性として海の神であり、山の神ですからね。穗髙神社の奥宮がこの上高地にあるのも、奥宮の例大祭が御船神事であり、明神池で行われるのも納得です。
「神河内」の「河内」は川の両岸の地域を指す言葉なので、神の川の両岸という意味でしょう。川、つまり水神の神域という意味もあるだろうと思います。
また、「神垣内」も、垣内は垣根の内側、つまり占有を示し、古くは特権を示す言葉でした。頭に「神」がついているので、普通に考えればこれは「神の占有地・領域=聖域」という意味だと思います。つまり、人間は滅多なことでは寄りついてはいけない場所、という意味の言葉です。
神道学者の宮地直一博士の『安曇族文化の信仰的象徴』には、「近年までは人跡いたって稀で、時たま深山に禽獣の跡を追う猟夫の輩の足を入れるに過ぎなかったという」とあります。この文章が書かれたのは1949年ごろ。穂高連峰の登山史的口火が切られて40年ほど経過していますが、少なくとも宮地博士がいう「近年」までは、普通の人はまず訪れない場所だったということでしょう。確かに「神垣内」という感じです。
「山また山を越える途中に幾多の労苦を重ねた末、濶然として周囲の開けて目指す一方に白雪の冠をいただくお山の神々しい光景に接した咄嗟の感じは、(中略)心から驚畏の念をもってせずには置かざらしむる。驚畏の念はやがて信仰の萌芽となり、信仰の心はこの一帯を山霊に捧奉った処、言い換えるならば神の占めたもう国としたのである。従って、奥社の祀られたのも頗る自然である」(『安曇族文化の信仰的象徴』穗髙神社社務所より引用)
宮地博士の言葉は、なるほどなあ、と思います。更に博士は、穂髙神社の本宮(里宮)と、奥宮(山宮)の関係性について、
「(前略)柳田(國男)氏の山宮考にいう新説、すなわち祖霊が静寂な山間の霊地に永久に鎮まると考えたという古人の信仰に立脚し、命の幽宮を穂高山中の神秘境に想定したとの推考に導くのも一の考方である。そうするときは(穗高神社)本社は山より迎え奉った神霊の祭場であり、山は本社に対して神霊の本拠たる関係に立つこととなってその意義を深くする」*カッコ内は筆者補足
と書いています。古来日本人にとって、山というのは神が降りたもう場所であり、祖霊が戻って行く場所でもありました。カミコウチ、そしてホタカもそんな場所だったということなんでしょう。
実は私なりにウロウロと書物を当たって探し回ったのですが、どうしても修験道の痕跡が穂高岳周辺では見つからないのです。明神池や、明神岳の「明神」という言葉は神仏習合の言葉ですから、痕跡と言っていいと思います。
しかしここで修験的な何かがなされていたかどうかは、よくわからない。北アルプスまで視界を広げれば、有明山を始め、修験信仰があった山もいくつかありますが、穂高岳周辺となると、皆目わかりません。カミコウチが聖地として特別な場所だったと言うことなどは、もちろんあるんですが、修験道っぽさといいますか、例えば行場や行のルートの痕跡といったものは発見できませんでした。
単に私が見つけられなかっただけかもしれませんが、ここまで痕跡を見つけられない山は初めてです。明治の頃、修験道は弾圧されて、壊滅状態にされた時期があるので、各地の山でその影響は少なからずあります。しかし何かしら、土地の名前なんかにその残像のようなものは残っているのですが…。
困った私は、「穂高岳に修験道の気配がないのはなぜだと思う?」と編集のS氏に尋ねてみました。すると、「深すぎて、山容が見えないからかもよ? 信仰の対象になりにくかったんじゃない?」という返事。なるほど、確かに。上高地まで行けば見えますけど、それより下からはなかなか見えない。とすれば、そういうことも関係あるかもしれませんよね。でも、姿が見えなくても信仰される山もないわけじゃない気がします。何かもう少し強い動機がほしい気がします。もうひと押し…。
そこでふと思いつきました。「行者さんたちは、意図があって入らなかったんじゃないのか」と。
つまり、「奥穂高周辺の山域は、信仰的に入ってはいけない場所(禁足地)だったんじゃないか」という仮説です。絶対に見ることが許されない仏像を「絶対秘仏」といいますが、その応用で名付けてしまえば「絶対禁足地」のような、厳密に特別な場所。だから修験の行者さんたちも、遥拝はするけども登拝しない。上がるとしても奥宮のあるカミコウチまで。そのような、何か信仰に根差した不文律があったのかもしれません。
そう考えると、穂高岳は最後の最後まで守られた神境、「絶対禁足地」ともいうべき場所だった…と言えるような気がしてきました。これは私の妄想ですが、あの上高地と穂高岳山域の神聖な空気感、超絶した威容は、そんな特別な場所と考えても、思わず納得な場所ではないでしょうか。
今も、穂高岳は多くの登山者にとって憧れの場所、特別な山の一つだと思います。昔の人は、同じように引き寄せられながらも、登拝はしなかった。山信仰のプロである行者さんでさえ、遥拝にとどまったということなのではないでしょうか。昔と今では、山とのかかわり方、その表現方法が、時代によって違うということでしょう。ただ、穂高岳が私たちを強く引き寄せる力は、昔も今も変わらないのです。
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