アメリカのジョン・ミューア・トレイルの山旅から4年——。登山好きとしても知られるフリーアナウンサーの大橋未歩さんが、ニュージーランドの北島にあるエグモント山を周回する「アラウンド・ザ・マウンテン・サーキット」を歩いた“旅の記憶”を綴ってくれました。連載第4回目は、魔の樹林帯との格闘に再アタック。さぁ、大橋さん夫妻は、次の地点に無事辿り着けるのか? それとも撤退か……?
大橋未歩のニュージーランド海外トレイル体験記/連載一覧
2023.06.27
大橋 未歩
フリーアナウンサー・"歩山"家
3日目の朝、夫と寝袋の中で目が合った。
「おはようございます」
私はなるべく口を開かないで挨拶をした。
彼も同じく口を閉じたまま、腹話術師さながら、器用におはようを言う。ビバークした昨夜は水を少しでも温存したくて、歯を磨かなかったのだ。
お互い口臭を気にして、相手に届く吐息の距離を最短に留めようと腐心している。結婚して8年だけど、わずかばかりの羞恥心がまだ残っているのを確認して、どこか安心している自分がいる。
いや、こんな緊急事態に、気にしてる場合か。
昨日は、泥に浸かり、道に迷い、日が暮れてビバーク。水場もなく、蕎麦をかじって腹を満たした。何よりここは海外で、まだ道が見つかっていなくて、もちろん携帯も通じなくて、帰りのフライトが決まっていて……。
考えてしまうと不安に丸飲みにされる。だから現実から逃げるように眠った。眠りの中だけは安全な場所に思えた。
目が覚めて、昨日起きたことを反芻しながら、それでも朝が来たという確かな事実に感動する。今いる場所も知らないし、一歩目をどっちに向いて踏み出せばいいのかも分からないけど、やっぱり夜は明けるんだ。
足元から体温がせり上がってくる。昨日の地獄にちゃんと句読点が打たれて、新しい1日が始まる気がした。
作戦会議のため地図を広げる。
「とりあえず、今日泊まる予定だったLake Diveは諦めよう。」
「そうだね。1日延びても大丈夫だもんね。よかった、1日長めに設定しておいて。マジよかった。」
「だね。で、今日はWaiaua Gorge Hut(小屋)をなんとかして見つけて、小屋で体制を調えよう。行けたら、お昼頃には着くはずだから。」
「うん。そしたら、泥だらけのウエアを洗って、体も拭いて、新しい下着に着替えて、歯を磨いて、温かいご飯食べよう。」
作戦というよりもただの願望が、地図の上を虚しく滑っていく。
昨日だって、この地図を穴が開くほど見たけど、結局道迷いしたのに。ダメ元でバックパックも漁ってみる。すると、底の方から荷物に押しつぶされて、シワシワになった紙が出てきた。
はて?と思った次の瞬間、背中と脇から同時に汗が噴き出した。
やっちまった。
これはNZ環境保護省のHPに掲載されていたルート情報。ちゃんとプリントアウトして持ってきていたのに、存在自体が頭から抜け落ちていたのだ。
すかさず夫をチラ見したが、私を責めるでもなく、すでに英文を読み込んでいる。
理性的な夫のことだ。無事に小屋についてから、適切なタイミングで、暖炉の前かなんかでコーヒーでも飲みながら、こんな大事な資料の存在を忘れていた経緯と背景を事情聴取してくるのだろう。
それでもいい、小屋に着けさえすれば。
二人で、英文を舐めるように読む。
すると、ある一文にさしかかり互いに顔を見合わせた。
” The track takes a new route.Turn right onto the Ihaia Track and walk downhill for around 500m to reach the short track into the Waiaua River. ”
(道は新しくなっています。右に曲がって、Iharaトラックを進んで、500mほど下ると、Waiaua Riverに続く近道に着きます)
資料によると、昨日右往左往した道は、やはり間違いなく正式ルートだったようだ。標識には明確にIhaia Trackと書いてあった。
でも朽ちた大木が道を塞いでいることには言及されていない。new routeとあるのは、倒木地点からの迂回路のことも指しているのだろうか。
判然としないが、でも、とにかく500m地点に、Waiaua river に続く近道があると記されている。500mという手がかりが手に入った。
500m付近を重点的に探せば道は見つかるはずだ。
8時46分、出発。
スマホのGPSを起動して、ダウンロードしておいた地図を睨む。私たちが動くと同時にじわじわと移動する青点から目を離さないように、500m地点を探る夫。私はひたすら信じて歩く。
「そろそろ500mだ」
夫の合図で立ち止まった。
すがるように周囲を見渡す。だが、期待は秒速で粉砕された。
相変わらずジメジメとした苔と、乱暴に入り乱れたシダが、地面の全てを覆い尽くしていた。道らしきものは全くと言っていいほど無かった。GPSのズレも加味した上であたりを注意深く観察したが、踏み跡はやはり皆無なのだった。
私たちの計測がずれているのだろうか。道の兆しらしきものがあるとすれば、このまま少し歩いた先にある例の倒木地点。あの場所の土に記されていた、律儀に定規を使って書いたような矢印しかない。
やはりあそこが正式ルートだったんじゃなかろうか。
再び歩き出して、倒木地点へ。500mはとうに通過した気がしたが、他に手がかりがないのだから仕方がない。
昨日の一連の行動をなぞるように、苔蒸した倒木を確認し、足元の土に掘ってある、左向きの矢印を一瞥する。
そして矢印が指し示すままに、またもや左の樹林帯に入った。
蔦に絡みとられた昨日のことは鮮やかな記憶として刻まれているはずなのに、一歩足を踏み入れれば途端に、なぜか今日も矢印に誘われるがまま、吸い込まれるように深い森に入っていく。
自分たちは、魔界への扉を開けようとしているのだろうか。
そもそも矢印を書いたのは、人ではなく魔界に棲みつく住人なんじゃないか。無邪気に罠に引っかかる私たちを、奴らは手をこまねいて待っているのだ。
その証拠に、目の前では昨日と同じ光景が繰り返されていた。案の定、夫は、私の1m先で、手足をバタバタさせている。
声もなく音もなく、ただ黒褐色の蔦に絡み取られれて、ちょっとずつ体力を失っていく。手を伸ばしたくても、既に私も身動きが取れない。
まるで鏡の部屋だ。360度どこを見渡しても、判で押したように、蔦とシダが縦横無尽に空間を埋め尽くしていた。
私は、絶望的な気持ちになった。
ふと思い立ち、スマホケースに結びっぱなしになっていた麻紐を解いた。そして近くにある木の枝に括りつけた。自分が迷子にならないためか、万が一の時に骨だけでも見つけてもらうためなのかは、もはや分からない。
心臓のバクバクに引っ張られるようにして肩が上下に振動する。ついに不安を押さえつけることが出来なくなり、瞳は涙でみるみるいっぱいになった。
でも不思議と、一滴もこぼれ落ちない。ああ、水もあまり飲んでないのに汗だくだからか、体に泣くほどの水分が残ってないんだと思いながら、夫に提案した。
「撤退を考えよう」
このままじゃ本格的な遭難になってしまう。
山の周りを一周するトレイルだから、途中で下山する手立てはない。行くか戻るかの2択しかないのだ。
昨日の場所からここまで大体8時間で来たから、夜の9時が日暮れとして、12時までに撤退すれば、きっと家に帰れる。2日間で来た道を、2日間逆行すればいいだけのこと。
ただ無事に家に帰りたい。それだけなんだ。
一方夫は、蔦を振り切って、新たな道を探し始めた。
夫の背後をよろよろとついていく。また来た道を戻る。
この不毛な往復は何回目だろう。何も知らない人から見たら私たちの行動はさぞ滑稽に映るんだろうな。
そんな時だった。
人の声が聞こえる!?
鳥の囀りと風が葉を揺らす音の隙間から、かすかに誰かが喋っている声がする。視線をやると、倒木地点の方から近づいてくる二つの人影が見えた。
人だ!!
お願い、助けてください!!
叫びたかった。でも怖がらせて万が一距離を取られたりしたら、唯一の手がかりを失ってしまう。なんとか平然を装いつつ近寄った。
歩いてきたのは、上品なロマンスグレーのヘアとコバルトブルーのウエアが目を引く、優しそうなご夫婦だった。軽装なのを見ると、ハイキングに来ているようだ。
驚かせないようにとりあえず「Hello」と挨拶を交わして、呼吸を整えつつご機嫌いかがと2、3言、会話をする。
怪しい者じゃないことを滲ませて、ついに禁断の言葉を放った。
「We are lost」
瞬間的に二人の血相が変わった。
柔和だった笑顔が消え失せて、この人たちを助けなきゃという強い使命感が目に宿ったのが手に取るように分かった。善良な人たちに出会えたことを確信した。
もう大丈夫だ。
「倒木が道を塞いでいて、どこに行ったらいいかわからないんです」
「迂回路があるわ。こっち側からいくと右側よ。右に少し迂回すると、すぐ道が見えてくるわよ。その先に駐車場がある。そこに車を停めて私たちは来たのよ」
「右!? 私たち、ずっと左を探してました! 左向きを指してる矢印が土に掘ってあって・・・」
「そうなの!?おかしいわね、右よ右。右の迂回路を抜けると綺麗な標識が立ってるわ。
一緒に行こうか?案内するよ」
「いえ! そんな! ご親切に有難うございます! 大丈夫だと思います! 本当にありがとうございます! これで助かった! お二人のおかげです!!」
「それは良かったわ。おめでとう。そして、Happy New Year」
は?
Happy New Year !?
そうだ。今日は2023年1月1日だったんだ。
連日の道迷いで、年が明けたことをすっかり忘れていた。なんという劇的な年越しなのだろう。
人生でこんなに嬉しいHappy New Yearを聞くとは思わなかった。
道を教えてくれたお二人の名前はヴィンセントさん。「We’re Kiwi(キーウィ)」だと自己紹介してくれた。
ニュージーランドの人々は自分たちをキーウィと呼ぶことが多い。嘴が長くまん丸とした体型が愛らしいニュージーランドの国鳥キーウィに由来しているそうだ。ちなみに果物のキウイもこの鳥に形状が似ていることから名付けられたらしい。
息子さんは奇遇にも日本人女性と国際結婚したとのこと。手紙のやりとりをしているが「日本語は漢字に2通りの読み方があって難しいわ」と、困ったような嬉しそうな表情を浮かべていたのに心が和んだ。
二人に別れを告げて、倒木地点に向かう。
ヴィンセントさんが教えてくれた通り、左向きの矢印を無視して、右側の樹林帯に足を踏み入れる。右側も昨日少し散策していたが、左向きの矢印が念頭にあったから、すぐに引き返していた。
右側も鬱蒼とした林だったが、蔦をかき分け、木を跨いだり屈んだりしてしばらく進むと、人の踏み跡がくっきりと見えた。
こっちだったんだ。
私たちはずっと真逆に進もうとしていたんだ。その迂回路を抜けると、整備されたトレイルが出現し、ついに焦がれた標識が見えてきた。
その標識には、Waiaua Gorge Hutまで 2km 1hour と記されてあった。
残りの2kmはオレンジ色の印が私たちを見守った。
さっきまで私たちを羽交締めにしていた蔦が道に沿って伐採されている。おかげで泳ぐようにスムーズに歩けた。一本一本鉈で切り落としてくれているのだろうか。あの強いゴムバネのような蔦の中に入り込んで作業するなんて。気が遠くなる。トレイル整備をしてくれた人々に感謝が募った。
それにしても左向きの矢印はなんだったのだろう。
180度逆の方向に矢印を書くことなんてあるだろうか。書いたとしたら誰がなんのために? そういえば、山では幻覚を見る人が少なくないという。私たちの脳が何かの誤作動を起こして作り出した幻影だったのだろうか。
考えても分からなかった。
言えるのは、偶然ヴィンセントさんご夫婦が通りかからなければ、まだ私たちは同じ場所をぐるぐる彷徨っていたかもしれないのだ。
紙一重だった。
山は美しく、そして怖いということが細胞の一つひとつに刻印された気がした。
12時02分、Waiaua Gorge Hutに到着。
まだ誰もいない小屋は、木の爽やかな香りが充満している。
正面には赤煉瓦に囲われた暖炉があって、天井は高く吹き抜けている。壁一面と、建て付けられた長ベンチの木板は、たった今ニスで磨いたように、ツヤツヤしていた。
最高の小屋だ。
すぐに泥だらけのウエアを洗って、体を拭いて、頭を洗って、下着を替えて、そして歯を磨いた。もはや、脱皮に近い。
そして、久しぶりにちゃんとしたご飯にありつけた。昨日齧った蕎麦をたっぷりの水で茹でて、茹で汁には、持ってきたわさびふりかけを溶かした。
まず汁を飲む。わさびのつんとした刺激が鼻に抜けた後、懐かしい出汁のうま味が疲れた体に染み渡った。
そして、箸を口に運ぶ。蕎麦が喉元を爽快に駆け抜けて腹に落ちてゆく。
啜る音をわざと小屋いっぱいに共鳴させながら叫んだ。
「美味しい!!!」
これだから山歩きをやめられないんだよ。
すると窓枠に、人の気配がした。扉から入ってきたのは、昨日道を聞いてきたあのソロハイカーの女性だった。
良かった無事だったんだ。共に再会を喜んだ。
「着いた!もー大変だった!道迷っちゃった!」
「私たちも!」
「木が倒れてて、行けなくて!」
「そうだよね!」
「しかも、距離がGPSと全然合わない。表示の2倍は距離あると思う」
やっぱり。
さらに彼女は続けた。
「テント持ってないのよ! 小屋に泊まろうと思ってたから。でも明日行く予定のLake Diveの小屋は火事で焼け落ちてるって。だから泊まるところがない。明日はもっと歩かなきゃいけないかも」
「え! それって最低12時間はかかるよね!? いや表示タイムより実際長いからもっとかも」
明日私たちはLake Diveのほとりでテント泊の予定だ。
でも彼女はテントを持ってないから、私たちが明後日到達する予定の小屋に、明日のうちに着いてしまおうとしている。
タフな彼女の名前はピア。チリ出身で、今はニュージーランドのキウイ農場で働いているという。友達と来るはずだったけど都合が悪くなり、ソロハイクになったそうだ。
ソロは人生でまだ2回目だけど結構楽しいと言った。一人きりで、しかも私たちと同じように毎日道に迷っているのに、最終的には必ずたどり着いて、しかも楽しいとあっけらかんと言い切る生命力が眩しい。
暖炉の中では、薪がぱちぱちと音を立てている。
柔らかな炎が小屋全体を温めた。ダイニングテーブルでは私は日記を書き、ピアは本を読んでいた。厚さ3cmほどの分厚い本を。私は思わず目を疑った。
ロングトレイルはいかに荷物を軽量化するかが勝負だ。でもピアはそんなのお構いなしなのだ。それがたとえ図鑑のように分厚くて重くても、山で読みたい本を持ってくるのがピアなのだ。
この人のこと好きだなぁと思った。
笑うと子犬みたいに愛嬌があるのに、深いグリーンを奥に秘めたブラックダイヤモンドのような瞳は、強くて凛としている。文字に視線を落とす横顔は、尖った顎から耳に繋がるラインに一切の無駄がなく、その美しさに釘付けになる。
私は日記を書くフリをして彼女を何度も盗み見た。
2023年元日。道を教えてくれたヴィンセントさん、そしてピア。素敵な人々に出会えた。今年もいい1年になる気がした。
だけど、このタラナキ山の魔力はこれで終わりじゃなかったのだ。
実はニュージーランドで最も多くの人が亡くなっている山だということは、後から知った。
拭っても拭ってもまとわりついてくる死の匂い。得体の知れない恐怖に、翌日、私はついにパニックに陥った___。
(続く)