奈良県天川村の大峰山系・弥山(みせん、1895m)で2022年8月、愛知県在住の登山者2名が行方不明になり、入山から10日後に無事救助されました。テントも寝袋もなく、持っていたのはわずかな食料だけ。大きなけがもなく生還できたのはなぜなのか。
遭難した女性、野村恵美さん(61・仮名)に聞きました。
山の事故、山岳遭難のリアルに迫る、特集・遭難ZERO。遭難救助事例や遭難者体験談をもとに、事故の舞台裏をお伝えします。今回の舞台は奈良県、弥山。
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2022.10.18
YAMAP MAGAZINE 編集部
2022年8月4日、野村さんは同行の女性・岸さん(69・仮名)と1泊2日の予定で入山。この日は弥山小屋に泊まり、翌5日、八経ヶ岳方面に向かったあと、行方が分からなくなった。同日夜、宿泊予定の民宿が警察に連絡。6日、空と地上から大規模な捜索が始まった。
捜索は5日間続いたものの、手掛かりは得られないまま終了。
入山から9日後の13日、野村さんから110番通報があり、無事を確認。14日朝、別の場所にいた岸さんとともに救助された。
ーー行方不明になった経緯を教えていただけますか?
その前に、今回の遭難では関係者のみなさまに多大なご心配とご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありませんでした。この機会をお借りして心からお詫びいたします。捜索に携わっていただいた方には感謝の気持ちしかありません。ありがとうございました。
4日の朝に自宅(愛知県)を出て、正午に弥山から西北にある天川村役場を出発しました。川合ルートです。七夕(旧暦)の満天の星を眺める事が目的でした。途中、雨に降られたこともあり、午後9時に弥山小屋に到着しました。夜中は何度も外に出ましたが、残念ながら目当ての星空を眺めることは出来ませんでした。
翌5日の朝、8時15分に小屋を出て、八経ヶ岳に登り、南側を周回するように延びる稜線に沿って川合方向へ下ったのですが、前日に登ってきた道と合流するポイント(高崎横手出合)の直前にある道標を左に折れ、トップリ尾方向へ進んでしまいました。
道標は左方向の矢印に「トップリ尾登山口4.2km」、今まで歩いてきた道の方向へ「明星ヶ岳2.1km」の矢印があるだけで、川合方向への矢印はありません。私は弥山・八経ヶ岳には3度登っているのですが、いずれも北東方向から延びる行者還岳のルートでした。ただ、崩落により通行止めでしたので急遽、北からの川合ルートに変更したのです。初めてだったこともあり、トップリ尾方向へ行けば、昨日登ってきた道と合流するものだとばかり思って、進んでいきました。
ーー地図などでの確認もされなかったと。
はい。YAMAPで印刷した地図と、登山届を出す際に天川村役場でもらったイラスト入りの地図をクリアファイルに挟んで持参していたのですが、前日、2度目に休憩した切り株に敷いて、そのまま忘れてしまいました。地図を印刷しただけで、当日、YAMAPさんのようなGPSで現在地を確認できるスマホの地図アプリは使っていませんでした。携帯電話が圏外でもGPSの位置情報が表示されることを知りませんでした。
天川村発行のイラスト入り地図にも「トップリ尾」の地名はなく、2方向しかないと思い、疑うことはありませんでした。ただ、弥山、八経ヶ岳、川合のおおよその位置関係は頭に入っていたので「このまま真っ直ぐじゃなくて左を回るのか」という違和感はありました。
最大の反省点として、そこできちんと地図を見るなり、もうちょっと道を探せば、川合方向、天川村役場に下りる道も見つけられたと思います。もう少し時間をかけて道を確認しておけばそもそも間違えませんでした。
ーー途中で引き返そうとは思いませんでしたか?
このまま下れば登山口につながるとしか思っていませんでした。
最初は道がありましたが、途中、開けた場所から、たぶんこちらだろうと下ったあたりから、印になるテープもなくなって、道が踏み跡程度になり、シダが生い茂って、おかしいなと。戻ることも考えなくはなかったのですが、午後2時か3時には下山できると考えていたので、登り返して遅くなるのはイヤだなという思いも先に立ちました。また、民宿の人からは「宿には風呂がないから、午後6時半まで営業している日帰り湯に入ってから民宿にきてください」とも言われていたので、戻っていたら温泉にも行けない。早く着かないと、という焦りもありました。
道はなくなり、だんだん急坂になっても、昨日も急な階段を登っていたから下っているんだ。だから大丈夫だと思っていました。ただ、あまりに急なので座り込んだ状態で滑り続け、下りると沢に出ました。道を間違えたのだと、この時初めて自覚しました。
ーーこの日は山中でビバークされました。
足にも疲れがきていて、5年ほど使っていなかった私の登山靴の靴底がはがれてしまいました。今日はもう戻ることはできないと思い、沢の近くでビバーク場所を探しました。よく耳にするビバークですが、私自身、経験するのは初めてでした。民宿に電話を掛けてみましたが、電波はありませんでした。やがて2人が入れるくらいの大きな岩陰があり、この日はそこで過ごす事にしました。
念のために持参したレスキューシートを敷き、私は星を観るために持参したダウンジャケットを。岸さんはレインウェアを着、レジ袋にふたりの足を入れてこすり合って寒さを凌ぎました。夏なのに、本当に寒かったのです。ただこの時は明日になれば帰れるものと思っていました。「予約していた民宿に今日中にたどり着かないと警察に連絡されて、捜索され、ニュースになったりするのはイヤだな」とも思ったり、危機感や焦りというのはありませんでした。
ーー翌朝からはどう動かれましたか?
前日にかなり下っていたので、登るという選択はありませんでした。そのまま谷を下りて、ソエ谷の河原に出て、14日に岸さんが救助された堰堤(えんてい)まで下りました。大きな段差があったためそれ以上は下りられず、来た道を戻ったり、結構歩きました。しかし、どれだけ行っても同じ景色ばかり。体力もかなり消耗し、これ以上は無理だと。歩き回っている間に、堰堤の手前に古い作業小屋を見つけていたので、そこに泊まることにしました。
ーーそこから救助されるまで8日間です。どう過ごされたのでしょうか。
前日にヘリコプターの爆音が聞こえていたので、ああ捜索してくれているんだなと思っていました。岸さんの体力を考えると、下手に動き回って疲れるより、見つけてもらおうと考えました。
釣り人に気付いてもらえないかと、ビニール袋2枚に「SOS 堰堤の上にいます」と書いた紙を入れ、堰堤の下の川に流しました。笛を10時に10回、11時に11回というように鳴らしたこともありました。屋根に穴が開いていたので、枝でふさいだりして、補修もしました。屋根と壁のある作業小屋で寝られたので、心は落ち着いていたと思います。
堰堤の手前にあった河原はかなり開けていたので、上空からでも見つけてもらえると思っていました。目印になるように赤いバンダナやピンクのスポーツタオル、岸さんのオレンジ色の雨具や帽子を並べました。また、効率よく見つけてもらうためには、焚火の煙が有効と考え、のろし作戦と名付け、毎日、一生懸命、薪を拾い集めました。
朝6時に起きて、川の水で顔を洗い、着替えをして、下着や服を洗って干して。焚火は服を乾かすのにも役立ちました。
10時頃ヘリが上空を通過しました。
11時半頃にも頭上を横切りましたが気づく気配はありませんでした。
あとは黙々と夕方の5時ごろまで、薪を集めるのです。薪拾いは、毎日のルーティンでした。ただ助けを待つのではなく、薪拾いという「無心でやること」があったのは、とてもよかったと思います。
途中で火種にしていたライターの油が切れたので、夜中も含めて丸一日、焚火を続ける必要があって、絶やしてはいけないと、薪はたくさん必要でした。作業小屋の中でも小さく火を起こして、暖を取るのにも役立ちました。
実際、10日には、近くの赤白に塗られた高圧送電線の鉄塔までヘリコプターが近づくのが見えて、焚火をたくさんたいて、手や傘を思いっきり振って。見つけてもらえた!助かる!と思わず笑顔が出ましたが、ダメでした。ヘリは鉄塔の周辺でしばらく旋回をしていましたが、向きを変え、そのまま過ぎ去ってしまったのでした。絶対に見つけられたと思ったので、落胆はひとしおでした。
後から聞いたのですが実は、このヘリコプターは救助用ヘリではなく、送電線の点検のために飛んでいたらしいのです。その日も、また次の日も、もうヘリは来ませんでした。
ーーおなかは空かなかったのですか。
空腹はあまり感じませんでした。やはり緊張していたのでしょうか。河原での生活が始まった段階で、残っていたのは、2人合わせてバウムクーヘン、ドライフルーツ1袋、チョコ10粒、ソイジョイ1本、ビスケット1箱。一口ようかん4個。山小屋で飲もうと思って持って行った梅酒とドライジン、「うずらの燻製卵」「ほたるいか」もありました。
バウムクーヘンは3日かけて完食したくらいです。一口食べて、水を飲んで、おなかを膨らませる、という感じです。岸さんも同じようで、二人ともあまり食べなくても、つらいとか、後ろ向きの言葉は一言も口にしませんでした。目の前に川が流れ、いつでも水が飲めるという状況も大きかったと思います。1ヶ月は無理だとしても、水さえあれば、20日間くらいは大丈夫なんじゃないか。時間はかかるかもしれないけれど助かる。死ぬことはないだろうと、漠然と思っていました。食料の残りを見てあと何日とかも、考えませんでした。
ーースマホは圏外のはずなのに、救助のきっかけは野村さんがかけた110番通報ですね。
はい。先ほどもお話ししましたが、近くの鉄塔にヘリコプターが来たときです。見つけてもらえなくて絶望しました。爆音もその翌日から聞こえなくなり、捜索が終わったんだなと感じました。それで、やはり助けを求めに自分から動くべきだと考えました。ビバークした時に虫に刺され、そのかゆさに耐えられず、このかゆみから抜け出したいと考えたのもあります。
12日、岸さんに「明日、私一人で登り返すから」と話し、準備をしました。
13日の朝、「ダメなら暗くなる前に戻る。でも、17時を過ぎても戻って来なかったら、そのまま行ったと思って欲しい。2日かかるか、3日かかるか、わからないけれど、小屋で頑張って待っていてね」と告げました。涙ぐむ岸さんに「救助されてから泣こう」と、強くハグして別れました。
岸さんのスマホはドコモで、初日のルート上では電波が拾えたため、モバイルバッテリーが切れるまでそのスマホに充電しました。電池残量は60%でした。
河原にいる間、GPSが位置情報を示すことが分かり、自分が天川村役場の南にいて、弥山は4時方向にあることは分かっていました。それで、コンパスを見ながら、ひたすら北へと登り続けました。手ぬぐいを割いて、時々、木に巻いて戻る際の目印にしました。
食料は小さなチョコ2粒とリンゴチップス少々。ほとんどないのと一緒です。水は550mlの水筒1本です。途中で沢があり、水を補給しつつ喉の渇きをいやしました。
急傾斜を登ったり、谷を少し下りたりを繰り返して、夕方6時半くらいに初めてひらけた場所に出て夕陽が沈むのを見ました。スマホを見ると「3G」が表示されていたので、110番しましたがつながりませんでした。でも、警察には記録が残るんですってね。あとで聞きました。
その先に道が見えたのでさらに進んだのですが、ごつごつとした岩場になり、暗くもなったので今日は無理だと思い戻りました。雷も鳴り出したので濡れないよう、木陰にザックを下ろそうとしたら、そこでスマホがピッと鳴ったのです。見ると「4G」で、アンテナが1本だけ立っていて、110番通報すると、初めて人の声がしました。
スマホの電波から私の位置を特定してもらったようです。警察の人と話して、翌朝、救助してもらえることになりました。
電波の入る場所はわずか30センチ四方とごく狭い場所でした。少しでも動くと、眺望はあるのに圏外になってしまう。たまたまザックを置こうと選んだところで、スマホがピッと鳴った。勝手に鳴るはずはないから、偶然なのか、私の心の声なのか。今となっては不思議です。奇跡だと思いました。スマホの電波は110番した時は60%あったと思いますが、電波がつながって、友人・知人の「心配している」というLINEのメッセージが一気に100件近く入ってきて、気づいたら20%に下がり、夜中も警察からかかってくるかもと思って電源を入れていたので、朝起きたら、ゼロになっていました。機種によってはできない場合もあるそうなのですが、110番などの緊急通報番号は、機内モードにしてから押せばよかったです。
ずっと使えなかった私のスマホauの電池残量は2%。14日朝5時半に警察に電話し「昨夜から動いてないですよね。今から迎えに行きますから」という言葉を聞いて、電池はゼロになりました。
ーーそこからヘリコプターで救出されました。
救助隊員と合流して、岸さんのいる場所を知らせたあと、ヘリで病院へ運ばれました。擦り傷と打撲程度の軽いケガだけでした。
13日に12時間も頑張れたのは「私が助からなければ、岸さんも助けられない」と強く思ったからです。
高校のOB山岳会の先輩や兄とは会っても泣けませんでした。恥ずかしさが先に立つようで。でも、私のあとに助けられた岸さんと抱き合った時は、思わず涙が溢れました。岸さんとは、とある会で知り合った仲で、今回、自分が誘ったのと、岸さんには家族もいる。ご家族に何とか無事返さないと、と。
ーー同じことを繰り返さないためには、どうすればいいと思われますか?
やはり、事前に地図で自分の歩くルートや周辺のエリアを把握しておくこと。コースタイムは休憩なしなので、休憩時間を含めた余裕のある計画を立てることですね。現場では、道標だけでなく、地図と周辺の地形を見ながら現在地を確認するなど、基本を徹底することの大切さを学びました。
万が一の時を考え、サバイバルシートなどを持っていくことも大切です。実際、ビバークで役に立ちましたし、また、火おこしなど、ライターがあったこともよかったと思います。手ぬぐいもかさばらず、包帯代わりにもなるので重宝すると思います。
私が言える立場ではありませんが、問題の道標は早く直して「天川村方向」の矢印を加えてほしい。道標にはすべてのルートを示してほしいと思います。
ーー最後に、救助にかかった費用というのは、あったのでしょうか。
警察の方2人が、弥山に上がるために山小屋のケーブルを使ったので、その代金が村役場から請求されるとお聞きしています。山岳会の方が来てくださったのですが、費用は不要と言われました。警察の捜索が打ち切られた後に、兄が実費で地元の方に捜索をお願いしようとしたようですが、実際に捜索していただく前に発見されたためです。
大峰山は千日回峰行を行う過酷な山。大阿闍梨の塩沼さんも歩かれたような道のほんの少しを歩き、修行させていただいたと思って、今後の人生に役立てたらと思っています。
ーー捜索に携わられた、桑名高校山岳部OB会の居村さんに伺います。救出時の心境についてお聞かせいただけますか。
入山から11日目、遭難から10日目。誰もがあきらめの気持ちを抱いた矢先の朗報でした。驚きを隠せず、何より2人揃っての無事救出を喜びました。救出は、吉野警察署、下市消防署を中心に、天川村役場、宿泊予定の宿、自主捜索を申し出て参加頂いた方など、本当に多くの方々の献身的な努力があって初めて可能になったものでした。
ーー2人がとった遭難後の行動・対応について、改めてご見解をお聞かせください。
特に「焚き火」「目印を置く」「動かず救助を待つ」「体力の温存」「バッテリーの確保」「救助が望めなくなってからの行動」は、多くの登山者に学んでほしい教訓だと感じます。
長年、捜索に携わってきましたが、一夜を山の中で明かした多くの遭難者で「焚き火」をした人は、元南極観測隊員の方と今回の2例だけでした。山の基本的な知識や経験をしっかりと備えていたからこそ、長期化しても耐えられた側面があると思います。緊急時、体力の温存や安心にもつながる焚き火の技術は、是非見直して頂きたいものです。
GPSの位置情報も、近年の捜索救助では欠かせません。モバイルバッテリーの存在も救助に大きく寄与しています。通話エリアを目指してドコモとau2台を持ち、すぐに「110番」した判断も的確でした。ただ、通話エリアに入った途端、遭難者を思いやる多くのメッセージが受信可能となり、電池が瞬く間に無くなってしまいました。必要不可欠な場合を除き、遭難者への架電等は行わないようにするなど、節電への配慮は、覚えておきたい側面です。
救助が望めなくなってからの行動は見事でした。13日に救助を求めて歩き続けたところは、44度近い急斜面が続き、何かにつかまらないと登ることは 難しく、滑ると止まらない斜度です。小さなルンゼが入り組んだ斜面の上り下りをくり返し、登り続けた結果が生還に繋がったと思います。
ーー道標から道迷いへとつながりました。
はい。ただ、直接の原因ではありませんが、余裕のない行程が、地図の紛失や現在地確認、進行方向の判断不足に繋がった可能性もあります。入山後、弥山小屋までは約6時間。初めて歩くコースで、雨の予報も出ていました。余裕を持って目的地に着くのに、正午では遅すぎです。9時までに歩き出す必要があったと思います。
道標は「登山中に信頼できる数少ない情報」です。分岐に立てられた道標には、それぞれ行き先の表示があってしかるべきだと思います。たとえ見慣れない尾根名でも、一方向しか表示されていなければ、知識のある方でも正しいコースと認識してしまいます。
表示は「トップリ尾登山口4.2Km」「明星ヶ岳2.1Km」のみで、川合登山口の表示がありませんでした。同じ遭難をくり返さないためにも、早急な見直しと改善が望まれます。
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[取材・文] 畑川剛毅 [取材協力] 居村年男 [構成・編集] 千田英史(YAMAP)