この連載は、「体育会系」ではない「文化系」の山登りの楽しさを広めるため企画されました。「文化系の山登り」とは、山に登る時、事前にその山の歴史や文化を知ってから登る事。そうする事で、普段なら見過ごしてしまうような何気ない山の風景にも深い意味があることに気がつくでしょう。もっと山を深く楽しむために、レッツ文化系山登り!
連載の第1回目は「高尾山」。「何度も登ったよ!」という方も多いと思いますが、フカボリしてみると意外な山と関係していたのです。その山とは…?
フカボリ山の文化論|登山が100倍楽しくなる、山の歴史と文化の話 #01/連載一覧はこちら
2019.11.26
武藤 郁子
文化系アウトドアライター
「山には日本文化の源流がある」。
そう言うと、意外に感じる人もいるかもしれません。「山」と言うと山登り、つまりはアウトドアの代表であって、「文化系」ではないんじゃない?と言われてしまいそうです。
しかし、しかし、なのです。「文化系アウトドアライター」を自称し、日本の文化を追い求めてさすらってきた私にとっては、山こそ日本文化のゆりかご。まさに「お宝の山」なのです!なんといっても日本の国土は7割が山地です。比率で考えてみれば当然と言えば当然。私たちの文化は、山の恩恵なしには語れません。
本連載では、山に関わる日本文化の断片を紹介することで、文化系な楽しみ方もご提案したいと思っています。いつもよりちょっとだけフカボリして、いつも通っている山を新しい角度で想ってもらえたらと嬉しい。あるいはそれが、次の山行の動機になってくれたら…。そう願ってやまないのです。
では、私が考える「日本文化の源流」とは何かと言えば、それは、山とその周辺に残る日本人ならではの信仰や世界観、それに付随する記憶のことです。
そこでまず思い浮かべるのは、「山の宗教」と呼ばれる「修験道」です。「修験道」は、自然信仰に、仏教や道教が混ざり合って生まれた、日本独自の宗教です。「山の宗教」と言うと、山奥にあるんじゃないかと思うかもしれませんが、それだけではありません。そこら中の山という山全部が、修験の山と言っていいのです。それくらい、修験は人々の生活の中にありました。
ところが、明治政府に弾圧され、壊滅状態にまで追い込まれてしまったという悲しい歴史があります。しかし戦後、多くの人の努力により復興されてきました。もしそんな弾圧がなかったら、もっともっと文物が伝えられていただろうに…と、忸怩たる思いですが、それでも往時の姿を感じられる場所は、今もたくさんあります。
そんな「山の宗教」を、身近に感じられる場所として思い浮かぶのは、東京都の「高尾山」です。ミシュランの星も獲得してしまって、今や世界レベルで大人気。首都圏にお住まいならば一度は登ったことがあるであろう、メジャーすぎる高尾山ですが、実は修験の山でもあります。
高尾山に登ると、私は絶対に「天狗焼」をいただきます。ケーブルカー高尾山駅側で売っている天狗焼は、中に黒豆の餡がたっぷり入っていて、本当に美味しい!
もうおわかりですね。そうです、高尾山と言えば、「天狗」です。何しろ名物のお菓子になるくらいですものね。高尾山には、天狗にまつわる伝説も多く、多くの人に親しまれてきました。この「天狗」とは、どのような存在なのでしょうか。
高尾山中腹には、薬王院有喜寺(やくおういんゆうきじ)があります。高尾山は、今でこそハイキングのメッカという印象がありますが、元々はこの薬王院を中心とした修験者が修行する聖域と考えられてきました。
開山されたのは、8世紀頃。最初のご本尊は薬師如来でしたが、14世紀、中興の祖・俊源大徳(しゅんげんだいとく)が、大変な行の果てに「飯縄大権現(いづなだいごんげん)」を感得し、以来「飯縄大権現」がご本尊となり、現代にいたります。
この「飯縄大権現」こそ、修験道ならではのホトケなのです。もともとは長野県北部にある飯縄山に鎮座している神さまです。しかし、神なのですがホトケでもあるんですね。
まず「大権現」という言葉に注目していただきたいのですが、「権現」とは、異国の神である仏教の仏や菩薩が、人々を救うために、日本の神に姿をかえて現われることを言います。これを「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説」と言い、日本の神さまは、中世にだいたいこの構造を踏まえられていて、「本体」のホトケがあります。これを「本地」と呼びます。ちなみに飯縄大権現の本地は、将軍地蔵菩薩とも、不動明王とも言い、あるいは金翅鳥王(迦楼羅、カルーダ)と同体とも言います。
高尾山の天狗は、この飯縄大権現の眷属なんだそうです。眷属というのは、おつき、使いのものと言った意味合いで、ご本尊の代わりに働いたり、ご本尊を助ける役割を持っています。ですから、高尾山の天狗さんは、飯縄大権現のお使いというわけです。
ここでぜひ注目していただきたいのが、境内の伽藍配置です。寺社の伽藍配置は、その場所の世界観そのものを表していますから、言葉と同じかそれ以上に、しっかりと意味があります。そこをフカボリしていくと、いつもとはちょっと違うものが見えてくるのです。
山門を入り直進すると、正面ではなく右手に仁王門が現れます。そして仁王門をくぐると「御本堂」という建物になります。仏教寺院的には、ここがいわゆる本堂なのですが、この御本堂の奥に「御本社」という建物があり、さらにその奥に「奥の院」があるという配置になっています。
この並び方も呼び名も、神社的ですよね。神社は、手前から、拝殿、本社(本殿)その奥に奥の院、あるいはご神体そのものがある、という配置が多いと思いますが、「御本堂」を拝殿として見てしまえば、神社のような構造ともとれます。しかし、本堂にはちゃんとご本尊がありますから、やっぱり違います。仏教と神道のハイブリッド、修験道ならではの配置ではないでしょうか。
ちなみに、この本堂には、創建当初の本尊・薬師如来と、現在の本尊である飯縄大権現。そして本社には飯縄大権現、そして奥の院には不動明王が祀られています。「奥の院」と言う神社風の名前の場所には、密教のホトケである不動明王がいらっしゃるというのがもうまさに神仏習合、修験道的です。別名を不動堂ともいうそうですが、飯縄大権現の本地は不動明王とも考えられますし、不動明王は修験道の本尊とも言えますから、ここに不動明王がいらっしゃるのは、なるほどなるほど…。
高尾山山頂へは、薬王院の境内を抜けていけます。そう言えば…と、ふと気づきました。神社もお寺も、山頂に建立されることはあまりないかもしれません。山頂には、「奥の院」「奥宮」といった祠はありますが、本堂や本社は、山の中腹か、麓に建立されますよね。
実はこのあたりも、世界観を表しているような気がします。古来「山」とは拝する対象であって、山頂に立つことが目的ではありませんでした。そのため、山の形がよく見える山麓の場所などから礼拝しました。これを「遥拝(ようはい)」と言います。山登りも、レジャーとして登るのではなく、神仏と出会うために登るので、「登拝」と言いました。これは、山中に入ることで、自らも神仏の一部になる、そんな感覚での修行ではなかったかと思います。
山頂から神仏に拝する作法もあるかもしれませんが、それはどちらかと言うと天空の神々への祈りではなかったかと想像します。そしてそれは、日本的と言うよりは、道教的な要素が強い気がします。道教における神々は、天を浮遊していて、高いところに倚りつくことが多いですからね。
実は、高尾山は遥拝する場所としての役割も担っていたようです。高尾山自体が信仰の対象でしたが、その信仰の場所からさらにほかの山の神を遥拝するわけです。
その山の神とは、「富士山」。
現在の奥の院の左横には「富士浅間(せんげん)社」がありますが、これは、富士山の神仏である富士浅間大菩薩が祀られており、実は、「奥の院」とはこのことを指したとも言います。また、高尾山山頂を過ぎたあたりの小さな頂「富士見台」にお堂が構えられており、
――拝殿の奥の扉が開かれると御神体の富士山が一幅の絵のように拝されたという。今日でも奥之院から山頂に向かう道筋を「富士道」と言い習わしているのである。(薬王院HPより引用)
とのことですから、この「富士見台」のお堂は、富士山の遥拝所と言えそうです。
一方、高尾山は、富士山への登拝においても、重要な場所でした。江戸時代に大流行した富士講では、諸国から集まった講の人たちはまず高尾山に参拝したんだそうです。そして、小仏峠を越え富士山を目指しました。こうして、登拝の道は果てしなく伸びていきます。
尾根を伝い山から山へ。
山道を歩いていると、思いがけないような遠くの地名の標識があったりします。私はそれを見ると「そうか、わざわざ下へ降りないでこのまま尾根を伝っていく方法もあるんだな」と感心するんですが、昔はそのほうが効率的な動き方だったんでしょう。現代のように車や電車を中心としてみると、平地や谷間を通る方法ばかり考えてしまいますが、徒歩がメインだった昔は違います。平地を通る道だけが、道ではないんですよね。そんなことにハッと気づくことも、山を旅する喜びかもしれません。
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※取材協力・写真 提供:高尾山薬王院有喜寺
※トップ写真提供:i326さん